岩崎城に四代続けて居城した丹羽氏は「丹羽家譜・三草本」「丹羽氏軍功録」等によると、
遠祖は清和源氏足利家の一色分流とされています。
一色家初代の一色公深は吉良庄一色(現在の愛知県幡豆郡一色町)に移り住み一色姓に改称しま
した。その後、頼行・範氏・直氏と続きます。
丹羽氏と称するのは、一色直氏から三代後の氏明が尾張国丹羽郡の地に移住してからです。
この丹羽氏が現在の日進市に移住したのは、氏明から四代後の氏従が日進市の南にある折戸町に
城を築いてからになります。しかし、丹羽氏の内でこの氏従までの系図は漠然としており、実際は
古代尾張国丹羽郡一帯に住んでいた豪族の子孫であるとされています。
(「岩崎城の戦」日進町教育委員会)
その氏従の子・氏員の頃、城を日進市の中央部・本郷の地へ移設します。次に二代本郷城主・
氏興は藤島の地に城を築き、三代・氏清の時岩崎の戦いにおいて松平清康(家康の祖父)の支配
下にあった岩崎城が天文四年(1535)世に言う“守山崩れ”による敗走により空き城になったため、岩崎城に入りました。ここから約60年間岩崎城は丹羽氏の居城となります。
岩崎城を含め、16世紀当時には丹羽氏一族の城や館がいくつか点在していました.
しかし、城郭としての形態をなしていたのは岩崎城のみで、
他は館城または砦であったと云われています。
現在、これらの遺構はほとんど残されておらず、史跡をたどる資料も
残されていないため詳しいことはわかっていません。
二代岩崎城主・氏識の頃になると、分家の藤島城主・氏秀の勢力が強くなり一族の内紛が始まり
ます。本家を乗っ取るため氏秀は織田信長に援軍を依頼し、横山の戦いが起こりました。この戦い
に氏識は勝利し、藤島城を占拠・信長と和睦を結びます。また永禄三年(1560)の桶狭間の
戦いの後には家康にも帰属し、嫡子・氏勝を人質として差し出しました。
丹羽氏の中では三代岩崎城主・氏勝とその子・氏次がもっとも活躍しました。
氏勝は信長の妹を妻にもらい受け婚姻関係を持ち、以降信長に従い近江の六角攻め、伊勢の
北畠攻め、姉川の戦い等に参加し戦功をあげました。しかし最後は信長に不信を抱かれ遠国追放
となってしまいます。
四代岩崎城主・氏次は父とともに戦に参加し、父が追放された後も三方ヶ原の戦い、長篠の戦い
等で多くの戦功をあげました。信長の死後、氏次は信雄(信長の次男)との関係が悪化し家康の元
に下りました。そして小牧・長久手の戦い弟・氏重を岩崎城の戦いで失うも勝利に貢献し、関ヶ原
の合戦の戦功と併せて三河国・伊保(現在の愛知県豊田市)一万石の大名となりました。
さらに氏次の子・氏信は大阪の陣に参加し、家康から厚い信頼を得、美濃国岩村(現在の岐阜県
恵那市岩村町)二万石の領主となります。
その後丹羽氏は氏定・氏純・氏明と続き、五代藩主・氏音の時お家騒動が起こります。それに
よって幕府から政務怠慢として本領を半減され、元禄十五年(1702)越後国高柳(現在の新潟
県妙高市)へ転封されますが、その子・薫氏は幕府からの信頼が厚かったため播磨国三草(現在の
兵庫県加東市・多可郡)の地に一万石拝領しました。薫氏は三草陣屋を築き、丹羽氏は氏栄
・氏福・氏昭・氏賢・氏中と約120年間藩主としてその家を守り続けます。そして明治4年
(1871)の廃藩置県によって大名・丹羽氏の歴史は終わりを迎えました。
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