大正初期頃の岩崎城跡
絵葉書「岩崎名所」に見る本丸付近の
様子。「古城之碑」より櫓台を見た
ところで、山の上に
「表忠義」碑が見える. |
その後、岩崎城は両勢力が対立した状態のまま、天文年間から当地方の土豪であった丹羽氏清が修繕し四代(約60年間)の居城となりました。 天正十二年(1584)、羽柴(のちの豊臣)秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍が戦った小牧・長久手の戦いでは、丹羽氏は後者に属し、犬山方面から岡崎を目指した羽柴方の行軍を阻止しようとして落城する「岩崎城の戦い」など一族を犠牲にしながらも戦功をたて、徳川氏に認められていきました。 |
本丸(主郭)調査区全景
第一次調査部分の遺構が見える。 |
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦い参戦後、丹羽氏は地方の土豪階級から一万石の大名へと昇格し、城も三河国伊保(現豊田市内)へと移ります。
これによって岩崎城は廃城となり、以降城跡は竹やぶなど雑林に覆われたため比較的その遺構を良く保つことになります。昭和六十二年地元住民の寄付により岩崎城が建設・城祉公園として整備され現在に至っています。 |
井戸跡
直径2.4メートルの素堀の井戸。
周囲に見られる柱穴は、
井戸の覆い屋根のものと推測される。
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岩崎城は、中世城郭の特徴である土塁や空堀を良く残しており、日進市付近一帯を勢力範囲としていた土豪・丹羽氏の歴史を今に伝えるとともに日本史上重要な出来事として記憶される小牧・長久手の戦いにおいてはその勝敗を左右する戦略地点としての役割を果たしたという事績を残すなど日進市にとって大切な歴史的遺産であるといえます。 |