岩崎城こどものぺーじ    お問い合わせ  お問い合わせ

 

こんにちは。ぼくはかん(・・)すけ(・・)

「かんすけ」は岩崎(いわさき)(じょう)城主(じょうしゅ)の子どもの(ころ)の名前なんだ。ここでは岩崎城でおこった(たたか)いの話をするよ。

 今から400(ねん)ほど(まえ)、岩崎城が、まだお(しろ)として使(つか)われていた(ころ)の話だよ。そのころ、日本は戦国(せんごく)時代(じだい)と呼ばれる時代(じだい)で、いろいろな場所でたくさんの(あらそ)いがあったんだ。

 岩崎城の城主だった丹羽(にわ)()も、自分(じぶん)領地(りょうち)(まも)るために、いろいろな戦いをしていたんだよ。
 


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 現在(げんざい)日進市(にっしんし)にある岩崎城は、この地方(ちほう)有力(ゆうりょく)武将(ぶしょう)であった丹羽(にわ)()のお(しろ)でした。岩崎城を(ふく)む丹羽氏の領地(りょうち)は、尾張(おわり)(くに)領地(りょうち)をもつ織田(おだ)()三河(みかわ)の国に領地をもつ徳川(とくがわ)()(はさ)まれていました。4代目城主・丹羽(うじ)(つぐ)は織田信長(のぶなが)(つか)えていましたが、信長は本能寺(ほんのうじ)(へん)死去(しきょ)(死んでしまうこと)してしまいます。信長が死んだ(あと)、丹羽氏は次男(じなん)(のぶ)(かつ)に仕えることになります。                              

信長の死後、織田の家は跡継(あとつ)ぎを(だれ)にするかで、息子たちに(あらそ)いが()こります。信長の家臣(かしん)であった羽柴(はしば)(ひで)(よし)(のちの豊臣(とよとみ)(ひで)(よし))は、信長の(まご)(あと)()がせるのがよいと主張(しゅちょう)して、信雄と対立(たいりつ)しました。秀吉の()うことに不満(ふまん)をもった信雄は徳川家康(いえやす)をたより、跡継ぎ(あらそ)いは秀吉(たい)信雄・家康の対立(たいりつ)へと発展(はってん)しました。


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 両者(りょうしゃ)対立(たいりつ)(てん)(しょう)12(ねん)(1584)、ついに合戦(かっせん)((てき)味方(みかた)にわかれて(たたか)うこと)となってしまいました。のちにこの(たたか)いは「小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦い」と呼ばれるようになりました。秀吉(がた)は現在の犬山市(いぬやまし)(がく)(でん)に、家康は小牧市(こまきし)にある小牧山(こまきやま)(じん)(かま)え、にらみ合いの状態(じょうたい)のまま両者とも動けなくなってしまいました。
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この状況(じょうきょう)をどうにかしようとした秀吉方の武将(ぶしょう)池田(いけだ)(つね)(おき)は秀吉に「三河(みかわ)中入(なかい)り」という作戦(さくせん)提案(ていあん)します。この作戦は家康軍に見つからないように、家康の本拠地(ほんきょち)岡崎(おかざき)(じょう)へと()()み、家康を陣を()いている小牧から岡崎に(かえ)らせることで家康軍の戦力(せんりょく)をバラバラにして、秀吉軍が有利(ゆうり)になるようにするものでした。

これはとてもむずかしい作戦でしたが、恒興のつよい希望(きぼう)により実行(じっこう)することになりました。

  

 4月6日の深夜(しんや)、恒興の(たい)先頭(せんとう)にした作戦(さくせん)部隊(ぶたい)が、秀吉(ぐん)陣地(じんち)である犬山から岡崎へと()かいます。
 その(ころ)、岩崎城の城主・(うじ)(つぐ)は家康の元へ出陣して、弟の(うじ)(しげ)が岩崎城で留守(るす)(まか)されていました。長久手(ながくて)(とお)ってきた恒興たち作戦部隊が岩崎城の近くを通りがかったとき、それに気が付いて止めようとした氏重は、恒興たちの軍に戦いを(いど)み、岩崎城は戦場(せんじょう)となりました。
 これを「岩崎(いわさき)(じょう)(たたか)い」と()びます。

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 恒興隊の(へい)は約7000名、対して岩崎城にいる兵は約300名でした。氏重たちは一生懸命(いっしょうけんめい)戦いましたが、相手との圧倒的(あっとうてき)人数(にんずう)()には()てず、最後(さいご)全員(ぜんいん)()()にして、岩崎城は落城(らくじょう)((てき)()()とされること)してしまいました。

 

 三河中入り作戦を()った家康軍は、あとを()いかけ長久手で作戦部隊の後続(こうぞく)(たい)((なら)んでで(ある)いていた部隊(ぶたい)(うし)ろのほう)と戦いになりました。

 岩崎城の戦いを()えた池田隊は、後続隊を助けるため、長久手に(もど)り家康軍と戦うことになり、岡崎までたどり()くことはできなくなりました。三河中入り作戦は失敗(しっぱい)に終わったのです。

 岩崎城の氏重たちは戦いに()けてしまいましたが、岩崎城の戦いのおかげで恒興隊を足止めすることができました。その後、家康は長久手の戦いに勝利(しょうり)しました。

 
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 家康は氏重らの活躍(かつやく)をたいへん(よろこ)んだといわれています。岩崎城の城主・氏次は、その後も家康のもとで活躍(かつやく)しました。
 関ヶ原(せきがはら)
(かっ)(せん)後は現在の豊田市(とよたし)領地(りょうち)(あた)えられ、一万石(いちまんごく)大名(だいみょう)となります。丹羽氏の人々が岩崎城を(はな)れたため、城は(はい)(じょう)(使われなくなること)となってしまいました。                  
 長い時間が()ぎた今、岩崎城には戦いで()くなった人々をまつる慰霊(いれい)()()てられて、供養(くよう)されています。
 


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岩崎城歴史記念館
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かいかんじかん
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9:00〜17:00(入館は16:30)

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無料(むりょう)

おやすみ
月曜日(祝日の場合は開館)
12月28日から1月4日

じゅうしょ
住所
愛知県日進市岩崎町市場67

でんわ
電話
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ふぁっくす
FAX      
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