こんにちは。ぼくはかん(・・)すけ(・・)。
「かんすけ」は岩崎(いわさき)城(じょう)の城主(じょうしゅ)の子どもの頃(ころ)の名前なんだ。ここでは岩崎城でおこった戦(たたか)いの話をするよ。
今から400年(ねん)ほど前(まえ)、岩崎城が、まだお城(しろ)として使(つか)われていた頃(ころ)の話だよ。そのころ、日本は戦国(せんごく)時代(じだい)と呼ばれる時代(じだい)で、いろいろな場所でたくさんの争(あらそ)いがあったんだ。
岩崎城の城主だった丹羽(にわ)氏(し)も、自分(じぶん)の領地(りょうち)を守(まも)るために、いろいろな戦いをしていたんだよ。
信長の死後、織田の家は跡継(あとつ)ぎを誰(だれ)にするかで、息子たちに争(あらそ)いが起(お)こります。信長の家臣(かしん)であった羽柴(はしば)秀(ひで)吉(よし)(のちの豊臣(とよとみ)秀(ひで)吉(よし))は、信長の孫(まご)に跡(あと)を継(つ)がせるのがよいと主張(しゅちょう)して、信雄と対立(たいりつ)しました。秀吉の言(い)うことに不満(ふまん)をもった信雄は徳川家康(いえやす)をたより、跡継ぎ争(あらそ)いは秀吉対(たい)信雄・家康の対立(たいりつ)へと発展(はってん)しました。
この状況(じょうきょう)をどうにかしようとした秀吉方の武将(ぶしょう)、池田(いけだ)恒(つね)興(おき)は秀吉に「三河(みかわ)中入(なかい)り」という作戦(さくせん)を提案(ていあん)します。この作戦は家康軍に見つからないように、家康の本拠地(ほんきょち)・岡崎(おかざき)城(じょう)へと攻(せ)め込(こ)み、家康を陣を置(お)いている小牧から岡崎に帰(かえ)らせることで家康軍の戦力(せんりょく)をバラバラにして、秀吉軍が有利(ゆうり)になるようにするものでした。
これはとてもむずかしい作戦でしたが、恒興のつよい希望(きぼう)により実行(じっこう)することになりました。
4月6日の深夜(しんや)、恒興の隊(たい)を先頭(せんとう)にした作戦(さくせん)部隊(ぶたい)が、秀吉軍(ぐん)の陣地(じんち)である犬山から岡崎へと向(む)かいます。 その頃(ころ)、岩崎城の城主・氏(うじ)次(つぐ)は家康の元へ出陣して、弟の氏(うじ)重(しげ)が岩崎城で留守(るす)を任(まか)されていました。長久手(ながくて)を通(とお)ってきた恒興たち作戦部隊が岩崎城の近くを通りがかったとき、それに気が付いて止めようとした氏重は、恒興たちの軍に戦いを挑(いど)み、岩崎城は戦場(せんじょう)となりました。 これを「岩崎(いわさき)城(じょう)の戦(たたか)い」と呼(よ)びます。
恒興隊の兵(へい)は約7000名、対して岩崎城にいる兵は約300名でした。氏重たちは一生懸命(いっしょうけんめい)戦いましたが、相手との圧倒的(あっとうてき)な人数(にんずう)の差(さ)には勝(か)てず、最後(さいご)は全員(ぜんいん)が討(う)ち死(じ)にして、岩崎城は落城(らくじょう)(敵(てき)に攻(せ)め落(お)とされること)してしまいました。
三河中入り作戦を知(し)った家康軍は、あとを追(お)いかけ長久手で作戦部隊の後続(こうぞく)隊(たい)(並(なら)んでで歩(ある)いていた部隊(ぶたい)の後(うし)ろのほう)と戦いになりました。
岩崎城の戦いを終(お)えた池田隊は、後続隊を助けるため、長久手に戻(もど)り家康軍と戦うことになり、岡崎までたどり着(つ)くことはできなくなりました。三河中入り作戦は失敗(しっぱい)に終わったのです。
岩崎城の氏重たちは戦いに負(ま)けてしまいましたが、岩崎城の戦いのおかげで恒興隊を足止めすることができました。その後、家康は長久手の戦いに勝利(しょうり)しました。
家康は氏重らの活躍(かつやく)をたいへん喜(よろこ)んだといわれています。岩崎城の城主・氏次は、その後も家康のもとで活躍(かつやく)しました。 関ヶ原(せきがはら)の合(かっ)戦(せん)後は現在の豊田市(とよたし)に領地(りょうち)を与(あた)えられ、一万石(いちまんごく)の大名(だいみょう)となります。丹羽氏の人々が岩崎城を離(はな)れたため、城は廃(はい)城(じょう)(使われなくなること)となってしまいました。 長い時間が過(す)ぎた今、岩崎城には戦いで亡(な)くなった人々をまつる慰霊(いれい)碑(ひ)が建(た)てられて、供養(くよう)されています。
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