こんにちは!私はことひめ。
ここでは、岩崎(いわさき)城(じょう)のある日進市(にっしんし)や愛知県(あいちけん)でたくさん 見つかっている古(ふる)い窯跡(かまあと)のお話をするわ。
昔、この窯跡では、土で作った器(うつわ)などを焼いて陶器(とうき)を つくっていたの。 岩崎城の近くにも「香(か)久山(ぐやま)古窯(こよう)」という古い窯跡が残(のこ)って いるのよ。この窯のあとを調べたとき、昔焼いたお皿などの 器の残りや、陶器の印鑑(いんかん)もでてきたわ。
香久山古窯を含(ふく)めた窯跡の集まりは「猿投(さなげ)窯(よう)」と呼ば れて、昔はここで作られた器が全国へ運(はこ)ばれて使われて いたのよ。
猿投窯ができたころには、まだやきものを作る技術が 発達していませんでしたが、この猿投(さなげ)窯(よう)で完成(かんせい)した技術(ぎじゅつ)が、 平安(へいあん)時代(じだい)以降、他(いこう ほか)の地域(ちいき)にひろがり、瀬戸(せと)や常滑(とこなめ)などの やきものの産地(さんち)が誕生(たんじょう)したのです。 瀬戸には陶器(とうき)に色(いろ)をつける「釉薬(うわぐすり)」をつかう技術(ぎじゅつ)が、 常滑(とこなめ)にはかめや土管(どかん)などの大きい(おおきい)作品(さくひん)をつくる技術(ぎじゅつ)が 伝えられました。
そうしてそれぞれの産地(さんち)がさらに独自(どくじ)の技術(ぎじゅつ)をみがき、 今(いま)も残る(のこ )やきものの一大(いちだい)産地(さんち)となりました。
奈良時代や平安時代には、猿投(さなげ)窯(よう)でつくられたやきものは国(くに)への税金(ぜいきん)として納められたり(おさ )、 市場(いちば)で売買(ばいばい)される商品(しょうひん)として都(みやこ)に運ばれたり(はこ )していました。
平城(へいじょう)京跡(きょうあと)(奈良時代の都)・平安(へいあん)京跡(きょうあと)(平安時代の都)からはたくさんの猿投(さなげ)窯(よう)製品(せいひん)が 出土(しゅつど)し、当時(とうじ)の都(みやこ)で猿投(さなげ)窯(よう)のやきものが使われて(つか )いたことがわかりました。
しかし、この灰釉(かいゆう)陶器(とうき)をつくる技術(ぎじゅつ)はとてもむずかしいもの でした。温度(おんど)が高すぎて(たか )も、低すぎて(ひく )もきれいな色(いろ)がでませ んし、窯(かま)の中(なか)の温度(おんど)が一定(いってい)ではないのでムラができてしまう ことも多かった(おお )のです。 ですから灰釉(かいゆう)陶器(とうき)の完成品(かんせいひん)は高級品(こうきゅうひん)として人気(にんき)があった のです。
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