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 いわさきじょう     れきし
岩崎城の歴史
   ぼくの名前は「にわさきくん」。
 ここでは、ぼくの守っている岩崎城(いわさきじょう)のお話をするよ。

 岩崎城には昔のお城のあとがのこっている場所があって、日進市の戦国時代(せんごくじだい)様子(ようす)を今のぼくたちに伝えてくれているんだ。
 岩崎城の本丸(ほんまる)(あと)からは六世紀(501年〜600年)頃の地域(ちいき)権力者(けんりょくしゃ)のお(はか)とみられる古墳(こふん)
も発見されていて、この土地に()んでいた権力者にとって、古くから重要(じゅうよう)場所(ばしょ)だったことがわかるよ。
 いわさきじょう
岩崎城、いつつくられた?
 昔、愛知県は尾張(おわり)三河(みかわ)の二つの国にわかれていたのを知っていますか?昔の地図でみると、岩崎城のある日進は尾張の国の東の(はし)で、三河の国との国境(こっきょう)でした。岩崎城の近くには尾張と三河を行き来する街道(かいどう)〔※1〕が通っていて、物流にとっても重要(じゅうよう)な場所でした。岩崎城の城下には今でも「市場(いちば)」という地名が残っていて、物や人が行き来する場としても(さか)えていたようです。
 岩崎城がいつ作られたのかははっきりわかっていませんが、室町時代(むろまちじだい)の終わりごろには城として使われていたようです。岩崎城をつくったのは、尾張の国をおさめていた織田信秀(おだのぶひで)
〔※2〕だったと言われていて、三河の国の松平清康(まつだいらきよやす)〔※3〕が尾張へ()()ってくるのをふせぐためにつくった支城(しじょう)〔※4〕のひとつでした。
 このときの岩崎城は信秀の部下の荒川頼宗が信秀から城を(あず)かり、守っていましたが、享禄2(1529)年に松平清康に攻め落とされました。岩崎城を手に入れた松平家でしたが、清康が「守山崩(もりやまくず)れ」という事件で暗殺(あんさつ)されると、大将(たいしょう)をうしなった清康の家臣たちは岩崎城から出ていってしまいます。

〔※1〕街道・・・国と国とを結ぶ大きな道路
〔※2〕織田信秀・・・織田信長のお父さん
〔※3〕松平清康・・・徳川家康のおじいさん
〔※4〕支城・・・武将たちが住むためではなく、自分の国を守るため、敵が来た時に戦えるような場所に作った城のこと
 
 に わ し    いわさきじょう
丹羽氏と岩崎城
 その後も尾張と三河の勢力(せいりょく)は対立した状態(じょうたい)のまま、どちらも岩崎城に入ることはなく時が()ぎます。そして、天文年間のころにこの地方の土豪(どごう)〔※5〕丹羽氏清(にわうじきよ)が岩崎城に入り、住みはじめました。
 丹羽家(にわけ)の人々はそれから4代(約60年間)にわたって岩崎城に住み続けました。
 
  丹羽氏次(にわうじつぐ)が四代目の城主〔※6〕だった時、岩崎城は大きな戦いに巻き込まれます。天正十二(1584)年、羽柴秀吉(はしばひでよし)(のちの豊臣(とよとみ)秀吉)と徳川家康(とくがわいえやす)織田信雄(おだのぶかつ)連合軍(れんごうぐん)が戦った「小牧(こまき)長久手(ながくて)の戦い」でのことです。この戦いで、丹羽氏は家康・信雄軍に加勢(かせい)することを決めます。城主・丹羽氏次は家康のいる小牧へ行き、城主が留守(るす)の間の岩崎城は弟の氏重(うじしげ)が守っていました。このとき、氏重は16歳だったといわれています。
 この時に起こった「岩崎城の戦い」で岩崎城は、秀吉に協力(きょうりょく)していた池田恒興(いけだつねおき)()()とされ
〔※7〕、氏重は()()〔※8〕してしまいます。
  しかし、氏重が恒興と戦ったおかげで、徳川家康はその後の戦いを有利(ゆうり)に進めることができました。こうして犠牲(ぎせい)を出しながらも戦功(せんこう)〔※9〕をたてた丹羽の人々は、家康に認められていきました。慶長5(1600)年に起こった「関ヶ原の戦い」にも参戦した丹羽氏は、戦いの後、地方の土豪から一万石(いちまんごく)大名(だいみょう)へと出世(しゅっせ)します。
 それとともに丹羽家の人々は岩崎城を(はな)れ、三河国伊保(みかわのくにいほ)
〔※10〕(うつ)っていきました。

〔※5〕土豪…それぞれの地域では力を持っている人
〔※6〕城主…お城の持ち主
〔※7〕攻め落とされる…戦いに負けて敵に城を取られてしまうこと
〔※8〕討ち死に…戦いで敵に殺されてしまうこと
〔※9〕戦功…戦いでかつやくしてみとめられること
〔※10〕三河国伊保…現在の豊田市
 いわさきじょう      ご
岩崎城のその後
 丹羽氏が他の土地へ移っていったため、岩崎城は廃城(はいじょう)〔※11〕し、誰も使わなくなった城跡(しろあと)は竹やぶや草木に(おお)われていきました。じつは、この草木がお城の遺構(いこう)〔※12〕を守ることに役立ちました。現代になって発掘(はっくつ)〔※13〕したとき、井戸(いど)のあとや(はしら)を立てた(あな)などがあまり(くず)れずに出てきたのです。
 城跡は昭和62(1987)年に、地域の人の寄付(きふ)で公園として整備(せいび)され、今ある岩崎城が建てられました。

〔※11〕廃城…だれもお城を使わなくなること
〔※12〕遺構…柱や井戸のあと、古墳など、昔の人がのこした生活のあと。そこを調べることで昔の人がその場所で何をしていたかわかります。
〔※13〕発掘…土に埋もれた遺構を掘り出すこと
  岩崎城は中世(ちゅうせい)〔※14〕頃の日本の城の特徴として知られる「土塁(どるい)〔※15〕や「空堀(からぼり)〔※16〕を今でも残していて、むかし城に住んでいた丹羽氏や周辺の地域の歴史を知ることができます。また、日本の歴史のなかで重要な出来事として知られる「小牧長久手の戦い」では、戦いの勝敗(しょうはい)を決める役割(やくわり)を果たした大切な場所として(かた)()がれています。

〔※14〕中世…平安時代末期から安土桃山時代の初めころまでこと。この時代の城の多くは山の上に作られました。
〔※15〕土塁…土をつみかさねて作った、お城の土台。
〔※16〕空堀…お城の周りに”みぞ”を掘って、敵が入ってこられないようにしたもの。「(から)」と付いている通り、水は入っていませんでした。

 いま、岩崎城(あと)は、岩崎城だけではなく日進市の歴史も伝える場所として新しいお城や歴史記念館が()てられ、たくさんの人が(おとず)れているよ。
 じつは、「空堀(からぼり)」などの一部はお城があったころのまま(こわ)されずに残っているんだ!知っていたかな?

 昔、お城があったころの跡がどこにあるかは、岩崎城歴史記念館で聞いてみてね。

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いわさきじょうれきしきねんかん
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かいかんじかん
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にゅうじょうりょう
入場料
無料(むりょう)

おやすみ
月曜日(祝日の場合は開館)
12月28日から1月4日

じゅうしょ
住所
愛知県日進市岩崎町市場67

でんわ
電話
0561-73-8825

ふぁっくす
FAX      
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