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   いわさきじょう   たたか
岩崎城の戦い
 こんにちは。ぼくは「かんすけ」。
 かんすけは、岩崎城の城主(じょうしゅ)の子どもに代々(だいだい)()()がれていた名前なんだ。
 ここでは、城主たちがいたころに岩崎城でおこった(たたか)いの話をするよ。
  今から500年ほど前、岩崎城がまだお城として使われていた頃のお話です。
 そのころ、日本は「戦国時代(せんごくじだい)」と呼ばれる時代でした。戦国時代には、日本中でたくさんの(あらそ)いがおきていました。岩崎城の城主であった丹羽(にわ)()も、自分の領地(りょうち)を守るために戦っていました。

 に わ し    せんごくじだい
丹羽氏と戦国時代
 戦国時代の岩崎城は、丹羽氏(にわし)[※1]のお城でした。丹羽の家は戦国時代のにっしんで力を持っていた武将(ぶしょう)で、岩崎城のまわりにいくつも城を持っていました。岩崎城をふくめた丹羽氏の領地(りょうち)は、尾張(おわり)の国に領地を持つ織田(おだ)()三河(みかわ)の国に領地を持つ徳川(とくがわ)()のあいだにはさまれていました。4代目城主(じょうしゅ)丹羽氏次(にわうじつぐ)織田信長(おだのぶなが)(つか)えていましたが、信長は本能寺(ほんのうじ)(へん)で死んでしまいます。信長が死んだあと、氏重は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕えました。

[※1]〜氏・・・一族全体のことを苗字であらわすとき、苗字のあとに「氏」をつけて呼ぶことがあります。
 信長が死んだ後、織田家では跡継(あとつ)ぎを誰にするかの(あらそ)いが起こります。織田信長の息子・織田信雄は信長の後を継ぎたいと考えましたが、信長の家臣(かしん)羽柴秀吉(はしばひでよし)(後の豊臣秀吉(とよとみひでよし))は信長の(まご)に跡を()がせるのがよいと主張(しゅちょう)しました。秀吉の言うことに不満(ふまん)を持った織田信雄は徳川家康(とくがわいえやす)をたより、跡継ぎ争いは秀吉対信雄・家康の対立(たいりつ)へと発展(はってん)しました。

 
 こまき  ながくて    たたか
小牧長久手の戦い
 秀吉と信雄・家康の対立はおさまらず、天正12(1584)年、ついに合戦(かっせん)[※2]が起こってしまいました。この合戦は今では「小牧長久手(こまきながくて)(たたか)い」と呼ばれています。秀吉は現在の犬山市(いぬやまし)楽田(がくでん)に、家康は小牧市(こまきし)にある小牧山(こまきやま)(じん)[※3](かま)えました。それぞれの陣で相手の出方(でかた)をうかがってにらみ合いの状態(じょうたい)となった両者は、どちらも動けなくなってしまいました。

[※2]合戦・・・敵と味方に分かれて戦うこと
[※3]陣・・・戦いをするために用意した場所


 みかわ なか い  さくせん
三河中入り作戦
 この状況(じょうきょう)をどうにか変えようとした秀吉(ぐん)の武将、池田恒興(いけだつねおき)は「三河中入(みかわなかい)り」という作戦(さくせん)を考えます。この作戦は、小牧にいる家康軍に見つからないように移動(いどう)して、家康の本拠地(ほんきょち)岡崎城(おかざきじょう)へと()()むものでした。本拠地を攻めれば家康は小牧から岡崎へ帰らなければならず、家康軍の戦力(せんりょく)がばらばらになり、秀吉軍に有利(ゆうり)だと考えたのです。
 これはとてもむずかしい作戦でしたが、恒興(つねおき)のつよい希望(きぼう)実行(じっこう)することが決まりました。
   4月6日の深夜(しんや)、恒興の(たい)を先頭にした作戦部隊(さくせんぶたい)が秀吉軍の陣地(じんち)・犬山から岡崎へ向かって出発しました。
 その岩崎城主(いわさきじょうしゅ)氏次(うじつぐ)は小牧の家康のところへ出陣(しゅつじん)していて、岩崎城では弟の氏重(うじしげ)留守番(るすばん)をしていました。長久手(ながくて)を通ってやってきた恒興たち作戦部隊(さくせんぶたい)が岩崎城の近くを通りかかったことに気が付いた氏重は、恒興たちを止めようと戦いを(いど)みました。氏重の突然(とつぜん)攻撃(こうげき)(おこ)った恒興は、岩崎城へ()め込み、戦いがはじまりました。
 これを「岩崎城の戦い」と呼びます。

 いわさきじょう たたか
岩崎城の戦い
 戦いが始まった時、恒興(つねおき)隊の兵は約7000人、岩崎城にいた氏重(うじしげ)たちの兵の数は約300人でした。氏重たちは一生懸命(いっしょうけんめい)戦いましたが、相手の人数が多すぎて、戦いに勝つことはできませんでした。戦いの結果(けっか)、氏重をふくめたたくさんの人が()()[※4]して、最後には岩崎城は落城(らくじょう)[※5]してしまいました。
  恒興たちが岡崎へ向かったことを知った家康軍は、あとを()いかけ、長久手で作戦部隊の後続隊(こうぞくたい)[※6]に追いつき、そこで戦いがはじまりました。
 岩崎城を攻め落とした恒興たちは、後続隊を(たす)けるために長久手に(もど)り、家康軍と戦いました。恒興たちは結局(けっきょく)、岡崎にはたどり着くことができず、家康に()けて討ち死にしていまい、三河中入りは失敗(しっぱい)しました。
 岩崎城の氏重たちは戦いには負けてしまいましたが、岩崎城の戦いで恒興隊の足止(あしど)めに成功し、家康は三河中入りを止めることに()()ったうえ、長久手の戦いに勝利(しょうり)することができました。

[※4]討ち死に・・・合戦で死んでしまうこと
[※5]落城・・・敵に攻められ、城や砦を守りきれずに戦いに負けてしまうこと
[※6]後続隊・・・三河中入りの作戦部隊には恒興のほかにも武将が参加していて、それぞれの武将ごとに部隊を組み、順番に並んで歩いていました。たくさんの兵が動くので、列は長くのびて、恒興が岩崎城にいたころ、列の一番後ろはまだ長久手にいました。


 
 たたか
戦いのあと 
 家康は氏重らの活躍(かつやく)に助けられたことをとても(よろこ)んだといわれています。
 岩崎城の城主で氏重の兄・氏次は、その後も家康のもとで活躍しました。
 関ケ原(せきがはら)合戦(かっせん)の後、丹羽家は現在の豊田市(とよたし)領地(りょうち)(あた)えられ、一万石(いちまんごく)大名(だいみょう)となりました。丹羽家の人々が岩崎城を(はな)れたため、岩崎城は廃城(はいじょう)
[※7]になり、城としての役割(やくわり)()えました。
 長い時間が()ぎた(いま)、岩崎城には戦いで()くなった人々をまつる慰霊碑(いれいひ)()てられ、毎年供養(くよう)
[※8](おこな)われています。

[※7]廃城・・・城が使われなくなること
[※8]供養・・・亡くなった人の霊がやすらかに眠ることのできるよう、お経などをあげるこ

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