に わ し いわさきじょう
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その後も尾張と三河の勢力は対立した状態のまま、どちらも岩崎城に入ることはなく時が過ぎます。そして、天文年間のころにこの地方の土豪〔※5〕丹羽氏清が岩崎城に入り、住みはじめました。
丹羽家の人々はそれから4代(約60年間)にわたって岩崎城に住み続けました。 |
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丹羽氏次が四代目の城主〔※6〕だった時、岩崎城は大きな戦いに巻き込まれます。天正十二(1584)年、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と徳川家康・織田信雄の連合軍が戦った「小牧・長久手の戦い」でのことです。この戦いで、丹羽氏は家康・信雄軍に加勢することを決めます。城主・丹羽氏次は家康のいる小牧へ行き、城主が留守の間の岩崎城は弟の氏重が守っていました。このとき、氏重は16歳だったといわれています。
この時に起こった「岩崎城の戦い」で岩崎城は、秀吉に協力していた池田恒興に攻め落とされ〔※7〕、氏重は討ち死に〔※8〕してしまいます。 |
しかし、氏重が恒興と戦ったおかげで、徳川家康はその後の戦いを有利に進めることができました。こうして犠牲を出しながらも戦功〔※9〕をたてた丹羽の人々は、家康に認められていきました。慶長5(1600)年に起こった「関ヶ原の戦い」にも参戦した丹羽氏は、戦いの後、地方の土豪から一万石の大名へと出世します。
それとともに丹羽家の人々は岩崎城を離れ、三河国伊保〔※10〕へ移っていきました。
〔※5〕土豪…それぞれの地域では力を持っている人
〔※6〕城主…お城の持ち主
〔※7〕攻め落とされる…戦いに負けて敵に城を取られてしまうこと
〔※8〕討ち死に…戦いで敵に殺されてしまうこと
〔※9〕戦功…戦いでかつやくしてみとめられること
〔※10〕三河国伊保…現在の豊田市 |
いわさきじょう ご
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丹羽氏が他の土地へ移っていったため、岩崎城は廃城〔※11〕し、誰も使わなくなった城跡は竹やぶや草木に覆われていきました。じつは、この草木がお城の遺構〔※12〕を守ることに役立ちました。現代になって発掘〔※13〕したとき、井戸のあとや柱を立てた穴などがあまり崩れずに出てきたのです。
城跡は昭和62(1987)年に、地域の人の寄付で公園として整備され、今ある岩崎城が建てられました。
〔※11〕廃城…だれもお城を使わなくなること
〔※12〕遺構…柱や井戸のあと、古墳など、昔の人がのこした生活のあと。そこを調べることで昔の人がその場所で何をしていたかわかります。
〔※13〕発掘…土に埋もれた遺構を掘り出すこと |