2004年2月22日
Militaerausgabe
(公共投資としての軍備拡大。赤字財政支出が全てを説明する??)
軍事支出の意味ですが、ここではドイツの軍備拡張を国家支出
から振り返ります。NSDAP政権の下で、予算の詳細は公開されず、
また赤字の内容を隠すためのトリックが多く用いられていたので、
戦後、その実態をつかむ事が困難で、研究者によって推定値が
大きく異なっている(そうです)。
ここでは参考文献@とAによって数値を出しました。
表1の、国家総支出というのは、正式の国家予算と、政府保証債券
(例えばMefo Bills)を合計したもので@に基づいています。その
下の行はAに基づく軍事関連費用です。軍事支出a+bとは正式予算
とshadow budgetを合計した年度別の全軍事費用です。
年度
|
1932/3
|
1933/4
|
1934/5
|
1935/6
|
1936/7
|
1937/8
|
1938/9
|
国家総支出
|
1,950
|
3,367
|
7,681
|
9,154
|
12,609
|
15,771
|
24,154
|
正式軍事予算 a
|
630
|
746
|
1,952
|
2,772
|
5,821
|
8,273
|
17,247
|
Mefo Bills b
|
0
|
0
|
2,145
|
2,715
|
4,452
|
2,688
|
0
|
軍事支出a+b
|
630
|
746
|
4,197
|
5,487
|
10,273
|
10,961
|
17,247
|
軍事支出の割合
|
32.3%
|
22.1%
|
54.6%
|
59.9%
|
81.5%
|
69.5%
|
71.4%
|
LW予算
|
-
|
76
|
642
|
1,036
|
2,204
|
3,258
|
6,026
|
陸軍予算
|
457
|
478
|
1,010
|
1,392
|
3,020
|
3,990
|
9,137
|
海軍予算
|
173
|
192
|
339
|
339
|
448
|
679
|
1,632
|
表1
資料@、Aより 単位:百万RM
Hitlerが政権をとって以降軍事支出が急激に増加しています。
1934年以降の軍事支出の割合が54.6%から81.5%という率は
大変無理な値ですが、この支出は新規産業の振興による失業
対策の意味合いを強く持っていました。
1929年の世界恐慌の後、列強が自国中心のブロック経済体制
に走った為に、ドイツは貿易不振による不景気と高い失業率に
悩んでおりNSDAPが躍進したのですが、Hitlerは軍需産業の振興
によって解決しようとしたわけです。
IrvingのMilch伝によると飛行場や軍需工場の建設に大量の労働
者が従事したと有りますが、この政策は成功して1933年
には最高42%と言われたドイツの失業率は1938年には3%に低減し、
第二次大戦まで約20%の失業率が継続したアメリカ合衆国と好対
照を成しました。
またGNPは最も恐慌の影響が大きかった1932年に恐慌前の1928年の
約30%減まで落ち込んでいましたが、1936年にはほぼ同水準まで
回復しその後も年10%程度の高い伸びを示しました。
当時のドイツ国民がNSDAPを支持した理由には、単なる脅かしや
プロパガンダだけでなく経済的裏づけもありました。
私は経済学については全くの素人ですが、上手く行った理由は
将来の一段の拡大を公約しつつ軍備拡大を進めた事ではないか
と思います。
なぜならば民需拡大(と言う真っ当な目的)の為に予算をつぎ込
んでも、各企業が明確な次の利益が予測できなければ
「自社リスクでの再投資」に踏み切らないので、効果が出るのに
時間がかかります(日本の現状に中ります)。
しかし政策的に軍備拡大の継続が保証されていれば、軍需産業側は
積極的に利益の再投資を続ける事ができるので即効性に勝るので
はないでしょうか。経済に詳しい方の御意見をお聞きしたいところ
です。
Hitlerにとって再軍備政策は、軍部の懐柔、産業界の支持のとりつ
け、経済の拡大による国民の支持、ドイツの国際的地位向上等の
一石何鳥かを狙った大博打であり一応はこれが当ったわけです。
表の数値を細かく見ると1936年/1937年に軍事支出が増えて
いるのは4カ年計画の影響であり、また翌1937/8年は全体の軍事
予算の中で、LWへの優先的予算配分があった事が分ります。
しかし巨大な軍事支出はいくら続けても、手元に残るのは
(戦争をしない限り)新たな価値を生み出す事の無い兵器の山だけ
で、将来の新たな税収を生み出す効果はありません。
言い換えれば単なる紙幣の増刷と違いは無く、長く続ければインフ
レーションのリスクに繋がります。これが明確になって来たのが
、1937年の年末から1938年の初頭にかけての時期でした。
下の表は各年度の総支出と赤字財政支出額(国債+政府保証債等)
をまとめたもので@、赤字は殆ど軍事支出につぎ込まれたと考えら
れます。
年度
|
1932/3
|
1933/4
|
1934/5
|
1935/6
|
1936/7
|
1937/8
|
1938/9
|
国家総支出
|
1,950
|
3,367
|
7,681
|
9,154
|
12,609
|
15,771
|
24,154
|
財政赤字支出額
|
-51
|
1,244
|
3,931
|
4,170
|
5,009
|
5,814
|
10,813
|
表2
1938年の1月11日に当時の財政責任者だったvon Krosigkは1938年
度の予算見通しを集計し約160億RMの税収が見込めるものの、巨額の
軍事支出を支える事は最早無理である事を表明しました。
正にドイツの運命の分かれ道でした。B
ところがこの頃のHitlerの意思決定は暗合を示します。
ご存知の方も多いと思いますが、1937年11月5日のいわゆる
Hossbach Konferenzにおいて、彼は当時のドイツ軍首脳を集め、
近い将来にオーストリアとチェコスロバキアを併合する考えを表明
しました。その席で「軍備拡張による経済効果は健全な国家経済の
基本にはなり得ない!?」としてドイツの生存圏の拡大という考えを
打ち出します。言い換えれば、過剰流動性のはけ口を領土拡大に
求めたわけです。出席したBlomberg等は英仏との開戦の危険性を
指摘して反対しますが、Hitlerにとってはぎりぎりのタイミングに
おける経済政策上の必要な決断だったように見えます。
この時言われた「生存圏の拡大」は「わが闘争」の思想を具現化
したものと言われますが、経済政策の行き詰まりから目を逸らす
意図があったのではないでしょうか。
1938年1月27日に慎重派だったBlombergは仕組まれたスキャンダル
で地位を追われ、Hitlerは軍事面でも直接の指揮権を握って、
3月13日のオーストリア併合を決行します。
1938年6月にTechnische Amtは1日10時間の軍用機生産稼動を指示
して1937年以来続いた経費削減は終わを告げ、さらに1938年7月
8日にGoeringはKarinhallに航空機産業界の首脳を集めて「状況は
1年前とは変わった。」と宣言し、近づいた戦争への準備を指示
しました。C
8月15日のLieferplan Nr8により空軍増強が再加速し、結果
的に表1の最後のように1938/39年に軍事支出は大幅増大します。
ここまで来るともう後には引けません。
ところが9月のMuenchen会談を経て英仏が軍備拡大に踏み切った
為、これでは足りなくなってHitlerとLWはVerfuenffachung
(5倍化計画)に走りますが、この後は作り事の世界でした。
@Albrecht Ritschl: Deficit in the Nazi recovery
A参考文献11:p259
B参考文献11:p155
C参考文献11:p157
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