Hossbach Konferenz
1937年11月5日にHitlerが当時の軍首脳を集めて、それ以降の彼の
ドイツの対外拡大方針を説明した会議です。
同席して書記役を務めたFriedrich Hossbachにちなんでこの名前で
呼ばれています。彼が会議の5日後に作成した内容のメモがNuernberg
裁判でHitlerがオーストリアやチェコへの侵略戦争を計画した
証拠として提出された為有名になりました。ただしこの時に
その後半部分が既に失われて全体の内容は分からず、後から偽作説
まで出た、謎の残る文書です(英訳は@で見る事ができます)。
今読むと随分歪んだ世界観に基づいており、正義や公正さでなく、
全てを策略で解決しようとするような(NSDAPの体質が出た)内容
ですが、少なくともそこに書かれ考え方がWW2を招いた事は重要な
事実です。またそこにはGoeringが出席していたのでここで内容を
簡単にご紹介しようと思います。
場所はベルリンの首相官邸でした。また開催時刻は午後4時15分から
8時30分に亘りました。
出席者(7人)
The Fuehrer and Chancellor(もちろんHitlerのことです),
Field Marshal von Blomberg, War Minister,
Colonel General Baron von Fritsch, Commander in Chief, Army,
Admiral Dr. h. c. Raeder, Commander in Chief, Navy,
Colonel General Goring, Commander in Chief, Luftwaffe,
Baron von Neurath, Foreign Minister,
Colonel Hossbach
こうして並ぶと、空軍だけtopがNSDAPの党員で、LWはNSDAP政権の
申し子と言えます。
Hitlerは最初に、内容は外国ならば内閣全体で検討する性質だが
重要度に鑑みて、少人数だけで会議を開くことにしたと断っていま
す。続いてこれが彼の長期にわたる考察の結果に基づく、対外情勢
に対する考え方で、彼が死んだ後に遺言と考えて欲しいと言い
ました。
以下()内は私のコメントです。
(Hitlerによれば)
ドイツの政策目的は安全保障と民族(ゲルマン民族の意味です。
以下同じ)共同体の保持と拡大で、結局空間の確保の問題となる。
民族は8500万人が狭い空間に押し込められているので、発展の為の
空間を獲得する権利がある(この辺が変ですが)。
また、これまでの国際政治の動きは民族の利益獲得に役立っておら
ず、その結果オーストリアとチェコスロバキアで民族が衰退の危機に
有る。(何も手段を講じないと)民族は弱体化し、時間の経過と共
に社会の混乱が進行するので、その対策として民族の生存の為に
必要な要件を実現する必要が有る。従ってドイツの将来は生存の為の
空間の確保に掛っており、これを将来の1世代から3世代の間に解決
する必要が有る。
(この辺は偏向していて、訳していて頭が痛くなるので大分飛ばし
ました。更に具体的な解決策に言及する前に彼は民族の自給の手段
と世界経済の中でいかにドイツが地位を獲得するかを論じます)
自給
A.原材料の自給の可能性は限られており、結局不可能である。
1)石炭については加工して原材料と利用できるが、自給可能である。
2)鉱石は困難がある、鉄鉱石と軽金属は国内需要に対応できる。
しかし銅とすずは不可能である。
3)合成繊維は国内の材木資源の限界までは対応できるが恒久対策は
不可能である。
4)食用油脂は自給可能である。
B.食料の自給は全く不可能である。
30から40年前に比べて生活水準が上がっており、社会全体で、要求と
消費が増加している。従って農産物の増産は全て需要の増大に対応
しており、これは絶対的な解決になっていない。現在化学肥料の使用
により土壌が疲労しているため、これ以上の食料の増産を図ったと
しても最終的には食料輸入に頼らざるを得ない。豊作時でも
外貨による輸入に頼る状況は不作時に破局を招く。
現在年間56万人の出生が有る現状で危機の可能性が高まっており、
子供は成人より多くのパンを消費するのでより食料事情は深刻に
なる。
現在の生活水準を国民が楽しんでいることを考えると、大陸の中で
食料の要求に対応するために、生活水準を下げたり合理化を行う
事は不可能である。
失業問題が解決して、消費水準は最高レベルに達しており、農業
生産高は今後僅かに改善するものの食料状況の根本的変革は不可
能で有る。このように自給は、食料と全体の経済の両面から解決困難
の問題となっている。
(Hitlerを弁護する訳ではありませんが、彼は自身の認識に基づき
内在する社会問題に対して、誤った方法であるにせよ、先手で解決を
図る姿勢を見せています。混乱期には社会はともかく回答を提示
する人物を支持する傾向が現れますが、恐らくこの事が彼をその
地位に押し上げた要因の一つだったのでしょう。また失業問題の
解決に関して自信を持っていた事と食糧問題を恐れていた事が
伺えます。)
世界経済での地位の確立
(この辺簡単に行きます)
要するに、後発のドイツ、イタリー、日本に植民地獲得の余地は
殆ど無く、また食料を輸入に頼っている限り軍事力での妨害に
よって、国家の安全が脅かされる。
従ってドイツの隣接する地域(つまり中央ヨーロッパ)に、
食料を供給できる地域を獲得する必要が有る。しかし、支配者の
いない土地はないので、ドイツの動きは、現在の支配者との争いと
なる。その場合敵対する相手は英国とフランスである。
(はなはだ自己中心の考え方で、他国の住民は自動的に皆ドイツ人
の手下になると考えているわけです)。
しかし英国の力は4つの要因で弱くなっている。
@アイルランドの独立運動
Aインドとの紛争
B極東における日本との争い
C地中海におけるイタリアとの争い
フランスについては植民地の状況は英国より良いが国内の政治問題
を抱えている。
結局ドイツの問題解決は、英国、フランス、ロシアとの争いなので、
強い軍事力と早い必要であり、後はそれをいつどのように行動する
かで3種の場合が考えられる。
ケース1:1943年-1945年
この時期を過ぎると、状況は悪くなってゆく。ドイツの軍事力の
整備はほぼ完了しており、後は旧式化の危険がある。更に
諸外国の軍事力が強化されて、ドイツの軍事力の優位は失われて
行くので、この時期が待つことのできる限界である。条件が
整えばもっと早い時期の行動があり得る。
(これを見るとHitlerは軍事力の強化がその時点でピークを迎えて
いることを認識していたようです)
ケース2
フランス内部の争いが広がってフランス陸軍が力を失ってドイツに
対する軍事行動を起こすことが出来なくなったとき、チェコに対する
軍事行動を起こす時である。
ケース3
フランスが他国との戦争に巻き込まれてドイツと戦えない時
(この後戦争の行く末を以下のように分析しています)
もし戦争が始まったら西方への作戦を妨げるドイツのわき腹の脅威
を除くためにチェコ、オーストリアとは同時に戦争に入らなければ
為らない。
またチェコを取り除いた後にフランスとの関係が戦争になった場合、
おいて、ポーランドに攻められないよう軍事力を残さなければ為ら
ない。
実際は英国とフランスは、チェコを見限っていて事態はドイツの望む
ように解決するだろう。英国が手出しをしなければフランスやベル
ギー、オランダがは戦争に踏み切ることは無い。
またチェコ、オーストリアの両国も軍事力の拡大に踏み切っている
事も考慮しなければならない。
(戦争は早いほうが良いと言っています)
またケース3の場合チャンスは逃すべきでなく、早ければ1938年
にも戦争があると考えている。
イタリーとフランスの地中海での緊張が高まればそれはドイツに
とって都合の良い条件だ。
(ここから議事録は各出席者の意見を記録しています)
Blombergとvon Fritsch:
英国とフランスが必ずしも敵になるわけではない。またフランスと
イタリーが全面戦争に入る可能性は少なく、山岳部に展開して
いるフランスの20個師団がRheinlandに進入する脅威が残って
おり、逆にこの方面のドイツの4個自動化師団はまだ作戦できない。
またチェコ側の国境の要塞はマジノ線と同様に強化されている。
von Fritsch:
チェコの要塞を克服する研究をこの冬から開始しており、更に必要
ならば11月10日から予定されている海外渡航を中止する。
Hitler:
そんなに早く開戦するわけではないのでその必要は無い。
von Neurath
英仏とイタリアの戦争が早く発生するとは考えられない
Hitler
それは1938年の可能性があり、ドイツが行動を起こしても英仏は
介入しないと考える。もし地中海で緊張が高まればドイツは直ぐ
行動するが、これらの国が戦争に入らなければ、ドイツも同じ態度
を取って時を待つ。
Goering
目的を達成するためには、スペインへの介入を清算することを考える
必要が有る(Hitlerはこれに同意したと有ります)。
会議の次の部分で軍備に関する具体的問題が検討された。
(メモはここで終わっており以下は私の印象です)
Hitlerの早く行動を起こしたいと言う気持ちが強く感じられ、
簡単に言えばあせっているようです。対外関係では特にイタリアとの
協調を重視していますが、それはドイツの国家目標を達成する為の
方便です。但しイタリア側も心得ていて自国の利益の為に、英仏
とドイツを絶えず天秤にかけています。また開戦時期は一般にもっと
後の時期が考えられていたとされていますが、幾度か1938年の
オーストリアとチェコへの侵攻の可能性が言及されており、歴史は
Hitlerの考えているタイムテーブルで進んだと言えます。
戦争のリスクを絶えずとりながらHitlerは自身の直感に従っ
て領土拡張の願望を追い求めました。
当時の英国首相チェンバレンの宥和政策が成功する可能性は無かっ
たと言わざるを得ません。
Blombergとvon FritschはHitlerと意見を異にするものの、自説を
あくまで守ろうとしておらず、何か別の状況が翌年1月末の事件の
引き金になったように感じられます。
またGoeringはお得意のどっちつかずの良い子ぶりを示していた
ようです。
ここ頃からヨーロッパの戦争への道が明確になって行きました。
@http://www.yale.edu/lawweb/avalon/imt/hossbach.htm
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