Verfuenffachung
             1938年10月14日にGoeringにより発表された、空軍戦力を5倍に
             する計画を指します。
             軍事力を背景にしてHitlerは1938年9月29日のMunchen交渉で
             Sudetenland獲得に成功しますが、却って英仏の軍備拡張を招き
             、ドイツの優位の維持の為に彼は一段の戦力強化を指示します。
             中でも最大のものがこのLuftwaffeを5倍化しようとする構想
             で有り、暗黙の内に将来の戦争に於けるニ正面作戦(つまり
             英仏連合とソ連)に対応しようとする戦略を内包していました。
             10月26日にTechnischeamtにより最初の生産計画案が提示され
             ましたが、それは1942年春までに45,700機の軍用機を生産しそ
             の時点でLWは10,300機の実戦機と8,200機の予備機を保有しよう
             とするものでした。

             この案はFuehrursprogramとも呼ばれ、発表直後から実現可能
             性につきTechnischeamtとGeneralstabで検討がなされましたが、
             必要な資材の入手困難、熟練労働者の不足により事実上不可能
             と言う意見が大勢を占めました。更に将来の主力爆撃機に予定
             されたJu88はテスト中であり、He177、Me210が原型機の初飛行
             も終えていない事も不安視されました。年が明けた1939年1月6日
             のRLM内部で開催された会議の席上、当時Chef des Flieger-
             oraganisationsstabだったKammhuberが提案した規模を約三分の
             一に縮小した案が採択直前まで行きましたが、最後にChef des
             Flieger-fuehrungsstabだったJeschonnekは「総統の意思は曲げ
             るべきでない」と発言し、彼とGoering、Milchによる別室での三
             者協議によりスケジュール未定のままFuehrursprogrammの継続が
             決定しました。Jeschonnekは直後の2月1日付けでChef des
             Generalstabに昇進します。
             以上は有名なエピソードですが、彼はHitlerに対する盲従の姿勢
             を取り、正当な判断を捨てて自己の将来を取ったと言われました。

             一方Kammhuberはこの決定を不満とし、「スケジュール未定では
             任務は遂行できない。」として実戦部隊への転属を申請し、訓練
             学校の責任者を経て1939年12月14日付けでLF2に去りました。後
             にSuchenwirthはKammhuberの計画も実現困難だったが訓練組織の
             強化のアイディアを含んでおり実現すれば飛躍的な戦力の強化が
             実現していたかもしれないと評しています。

             (存知のようにその後彼は本土防空の責任者となりますが、
              Jeschonnekが後に批判された防空作戦への関心の低さは、
             この時の確執が尾を引いていたのかも知れません。)

             このように計画の存続が決まりましたが、最も必要とされた、
             Oberkommando der Wehrmacht(OKW)による陸軍、海軍との資材分配
             の調整が実行さわれずGoeringとRLMは実現性の無い計画があたかも
             順調に進んでいるような見せ掛けを強いられました。ともかく1939
             年2月にRLMは具体案をLieferplan Nr11として纏め上げましたが、
             それはかなり現実を反映した内容になっており1939年4月1日から194
             2年4月1日までの36ヶ月間に7,748機の爆撃機、1,978機の双発戦闘
             機を含む17,284機を生産する計画になっていました(月産平均480
             機)。Ju88は開発の遅れを反映して1939年10月以降の生産開始が
             予定されました。

             1939年4月には、Nr11すら進行の困難が明確になり、その大きな
             理由は鉄、アルミニウム、銅といった主要金属及び、亜鉛、ニッケ
             ルといった比較的使用量の少ない金属の不足でしたが、特に後者の
             不足は通信機器を始めとする艤装品の生産に影響を与えました。
             その為航空機の月産数は予定より30から40%減少し、Luftwaffeは
             従来から決められていた軍用機の定数の維持さえも困難な事態に
             追い込まれました。また航空燃料の不足や良質の労働力不足も深刻
             で、労働力はチェコやオーストリアのような新しくドイツの支配下
             に置いた地域に大きく依存する事になりました。更に主力爆撃機と
             して予定されたJu88の生産は250000箇所に上る要改修項目を抱えて
             更に大幅な遅れが出ました。

             Goeringは1939年8月5日に緊急会議を招集して航空機の増産に全力
             を尽くすよう命令し、機種を削減して生産をHe177、Me210、Ju88、
             Bf109の4機種に集中することで効率化を図るよう指示しました。
             (言い換えれば来るべき大戦をこの4機種で戦おうとする賭けであ
             り、最初のニ機種の失敗による混乱が最後はLuftwaffeの命取りに
             なりました)。努力の結果、1939年8月には427機の軍用機が生産さ
             れましたがこれも満足の行く結果ではありませんでした。Nr11の後
             12,13,14が計画されましたが戦力強化完了のめどは1942年とされ、
             本格的な戦争はその後が適当と考えられました。しかし英仏も空軍
             力の大幅な拡充に着手して戦力の差は時間とともに縮まることが予
             測され、その結果Hitlerは8月末にポーランド攻撃を決意しました
             。Goeringは英国の参戦を大変嫌い、彼自身が真剣に対英融和の
             外交努力を行ったことが知られていますが、その背景に軍用機の生
             産の問題があったと考えられます。



                                
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