2003年11月22日

      Lieferplan

             文字通りでは納入計画ですがErhard Milchが初めて作成した
             1935年のNr.1から、彼がGLを解任される直前の1944年5月25日に
             承認されたNr.226まで約30回作られた軍用機の生産計画を
             指します。
             
             1935年の前半にJu86、Do17、He111等の新型爆撃機の開発に
             メドが立ち始め、Rheinland Programに変わる新たな生産計画
             が必要となりました。MilchはRheinland programより更に1305
             機を増産する計画を作成し、1935年10月にLieferplan Nr1と
             して各メーカーに提示しました。
             この計画は名目上トータル11,568機の生産計画でしたが、
             生産済みの軍用機が、練習機または輸送機として多数含まれ
             ており、第一線機としては970機の戦闘機、1849機の爆撃機、
             1001機の偵察機、462機の海軍機を1936年4月1日までに整備
             しようとするものでした。
             この計画はドイツの工業生産力をフル活用しようとするもの
             でしたが、大きな弱点は計画達成に必要な原材料の多くを輸入して
             いた事で、軍用機を増産する程に輸出産業に振り分けられる労働
             力が少なくなり、原材料購入の為の外貨が不足すると言う矛盾を
             内包していました。1935年末に原材料価格の高騰とドイツの食料
             生産の不振が重なると言う危機が発生し、経済担当大臣のSchacht
             と農業大臣のDarreの間に、食料輸入を巡って論争が起きましたが
             、Hitlerから処置を任されたGoeringはDarreを支持して、軍備拡張
             のペースダウンを覚悟の上で食料輸入の拡大を決断しました。
             ドイツ国民のNSDAPに対する支持低下を恐れるHitlerはこの決断を
             好感を持って迎え入れ、Goeringは一段の信頼を獲得しました。
             一方軍事力の拡大の為の資源の不足に対してHitlerは積極的に
             調整に関与せず、各軍部の駆け引きで配分が決まる状態が続き
             ました。

             この後、新鋭機開発の進展に応じて1936年3月21日にNr2、同年7月
             1日にNr3が続きました。
             一方、1936年3月にHitlerは経済的危機に対してVersailles態勢
             を否定することで解決を図る姿勢を示してRheinlandに侵攻し、
             また同年7月16日にはSpain内戦への参戦が始まりました。
             こうした中でドイツは自給自足の経済体制を実現により本格的戦争
             に備える為、Vierjahresplan(4ヵ年計画)を開始し10月18日
             にGoeringがBeauftragter(責任者)に抜擢されました。
             この結果、彼が資金、資源、労働力の分配に対して決定権を握り、
             ったことによりLuftwaffeは陸軍、海軍と比較して軍備拡大に対
             して比較的優位な地位を獲得しました。

             ドイツの拡大政策の結果、欧州の列強も軍備増強に踏み切り、
             対抗して、ドイツも一段の軍備拡張に走らざるを得ない状況
             となって、1936年10月1日付けで大規模な軍用機生産計画としてNr4
             が発行されます。それは1938年3月31日迄に4000機以上の新型機
             を生産しようと言う野心的なもので、新たにBf109、Bf110,Ju87等
             が計画に加わっていました。
             (下は初期のPlanの一覧です。決定日が開始日より後に
             なっている場合が有るのは、前から進んでいるプランに継ぎ足す
             形で次のプランが決められる場合が多いからです。)

番号 決定日 開始日 終了日 備考
Nr1 1935/10/25 1935/10/1 1936/4/1 トータル生産機数11,156機(1933年より)
Nr2 1936/3/21

トータル生産機数12,309機(同上)
Nr3 1936/7/1

小変更
Nr4 1936/10/1 1936/10/1 1938/4/1 4000機以上の第一線機生産計画を追加
トータル生産機数18,000機(同上)
Nr5 1937/2/21 1937/4/1 1938/10/1 トータル生産機数18,620機(同上)
Nr6 1937/9 1937/9/1 1939/4/1 トータル生産機数22,200機(同上)
Nr7 1938/4/1 1938/1/1 1939/7/1 トータル生産機数22,681機(同上)
Nr8 1938/8/15 1938/4/1 1940/4/1 Bf109,110,Ju88等、7896機の生産計画を追加
Nr9 1938/11/15
1942/4/1 Verfuenffachungの第一案
Nr10 1939/1/24 1939/1/1 1942/4/1 Verfuenffachungの第二案
Nr11 1939/2/28 1939/4/1 1942/4/1 Verfuenffachung最終案

  

             1937年に入って、外貨と原材料の不足は遂にLWの拡張計画にも
             影響を及ぼし始めました。次のLieferplan Nr5ではBf109の生産
             数が740機から1329機に増加する等、新型機への傾斜が進む一方、
             苦境を反映して6ヶ月の期間延長に対して総機数は620機増加に留
             まり、空軍拡張計画は実質的にスローダウンしました。
             GoeringはMilchに対して一貫して機数の増加を要求しましたが、
             Milchはこれに感情的に反発し、ちょうどこの時期に行われたRLM
             の組織変更によりMilchの権限が縮小したことも相俟って両者の
             関係は悪化して行きました。
             尚、Do19とJu89のcancellはちょうど4月29日に決定されているの
             で、ここで起きていた資源の逼迫を考えると理解しやすいと思
             います。

             実はVierjahresplanと鉄鋼生産には皮肉な関係が有り自給体制強化
             の目標の為にそれまで使用していた鉄含有量の高いスエーデンと
             アルザス-ロレーヌからの輸入鉄鉱石を含有量の低いドイツ国内産
             の物にに切り替えた事が鉄鋼生産量の頭打ちの理由の一つとなって
             いました。
             Hitlerも状況を憂慮し、6月3日にはBlombergに対して鉄鋼生産の
             遅れによる軍備拡大への影響を報告するよう求めています。
             1937年6月4日のRLMの報告資料では1937年の計画達成の為の29万
             トンの鉄鋼必要量に対して実際の配給計画は18万トンに留まって
             いました。また優先的だった予算配分も遂に限界に達して6月5日
             にGoeringは生産施設への投資を5.5億RM切り詰めてTAの年間予算
             を37億RMとすることに合意しましたが、これはNSDAPが政権を握っ
             た後初めての軍事予算の削減となり、軍用機産業界への衝撃と
             なりました。
             1937年7月にRLMは航空機産業の代表を集めて、計画変更の説明と
             軍用機単価の見直しを要求しましたが、企業側からは、仕様の数
             や要求の変更が多すぎる事等の不満が相次いで表明されました。
             このような状況下で機種の統合が合意され、9月始めに期間を6ヶ月
             延長して、総機数を3,580機追加したLieferplan Nr6が決定されま
             した。
             機数の実質的削減方針は次のLieferplanNr7で再度起きて、こ
             こでも3ヶ月の期間延長に対して481機の機数増加に留まりました。
             これらの計画変更により、LWの増強は約1年遅れたと言われます。

             しかしこの期間の空軍力の強化は諸外国に比べれば目覚しく、
             1936年3月ののRheinland侵攻の際にはLWはHitlerの突然の侵攻
             決定に驚き、僅かな戦闘機と急降下爆撃機隊しか派遣すること
             しかできずに専らフランスの反撃行動に対する偵察と宣伝活動
             にのみ従事しましたが、1937年9月の軍事演習の際に62,000人の
             将校と1337機の軍用機、639門の高射砲を動員してHitlerとゲスト
             として招かれたMussoliniの前で威力を誇示しました。
             この事で確信を持ったのでしょうかHitlerは翌1938年2月12日
             のObersaltzburgにおけるオーストリア首相Schuschniggとの会見時
             の昼食会にはConder Legion司令官として勇名を馳せたSperrleを同
             席させて無言の威嚇を加えました。
             事の良し悪しは別にしてHitlerはLWの強化を捕らえて政治的手段
             として機敏に活用したと言わざるを得ません。
             同年3月13日のオーストリア併合強行の際にLWは主力となってHe111
             Do17等の最新鋭機を含む400機の軍用機がViennaに侵攻し、内160機
             は輸送機として2000名の完全武装の部隊を空輸しました。

             実際にはドイツの経済状態は1938年初頭に軍備拡張の負担に
             耐え切れなくなっていました。


             Militaerausgabeに続く)
             

                             
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