facebook_UP2018.07.01

伽数奇のFairy tale 002_14

ノモンハン空戦からの発想 

第14話 コクピット火災からの不時着操作と機外脱出

 飛行第24戦隊長松村黄次郎中佐の97式戦闘機は、ハルハ河を高度200mで越え、不時着敢行のため高度100mほどでフラップを降ろし、それと同時にコクピット火災となる。

 「落下傘降下するには300mの高度が必要だ。『また、やったな』心の中では自分はこうさけんだ。私には空中火災は始めてではなかった。」

 中佐はこの4年前にもコクピット火災を経験している。

 新しい戦闘機の審査で着陸直前の旋回中に、やはり漏洩したガソリンに引火した。

 4年前とは昭和10年だから陸軍戦闘機の新規開発は、昭和9年度競争試作のキ10、キ11、キ18のコンペを行いつつ、同9年の12月にはキ27、キ28、キ33の競争試作が、やはり中島、川崎、三菱に示され、それらは昭和10年にはもう飛んでいるので、作る方も審査側もまさに戦場に違いない。

 松村中佐の審査中の火災事故だけで無く、垂直ダイブ試験などでの空中分解や、スピン試験でフラットスピンに陥り回復できず、等々で多くの人命そして機体が失われている。
キ10 川崎航空機 95式戦闘機として採用
全長 7.55m
全幅 10.02m
主翼面積 23.0m^2
自重 1360kg
全備重量 1740kg
動力 800馬力 水冷V型12気筒
最大速度 400km/h
実用上昇限度 11300m
航続距離 1100km
武装 7.7mm機関銃×2
キ11 中島飛行機 不採用
全長 6.89m
全幅 10.89m
主翼面積 19.1m^2
自重 1269kg
全備重量 1560kg
動力 550馬力 空冷9気筒
最大速度 402km/h
実用上昇限度
航続距離 滞空時間 2.5時間
武装 7.7mm機関銃×2
キ18 三菱重工業 海軍の9試単戦の陸軍仕様。不採用
全長 7.65m
全幅 11.00m
主翼面積 17.8m^2
自重 1100kg
全備重量 1422kg
動力 600馬力 空冷9気筒
最大速度 444km/h
実用上昇限度
航続距離
武装 7.7mm機関銃×2

25kg爆弾×4 爆装可能
キ27 中島飛行機 97式戦闘機
全長 7.53m
全幅 11.31m
主翼面積 18.56m^2
自重 1110kg
全備重量 1790kg
動力 610馬力 空冷9気筒
最大速度 470km/h
実用上昇限度 1万2250m 5000mまで5分22秒
航続距離 627km
武装 7.7mm機関銃×2 携行弾数各500発

土井武夫技師の95戦闘機の後継機として競争試作
キ28 川崎航空機 不採用
全長 7.90m
全幅 12.00m
主翼面積 19.0m^2
自重 1420kg
全備重量 1760kg
動力 800馬力 水冷V型12気筒
最大速度 485km/h
実用上昇限度 1万1000m
航続距離 1000km
武装 7.7mm機関銃×2
キ33は、キ18の改良型 不採用
全長 7.54m
全幅 11.00m
主翼面積 16.0m^2
自重 1132kg
全備重量 1462kg
動力 620馬力 空冷9気筒
最大速度 475km/h
実用上昇限度
航続距離
武装 7.7mm機関銃×2
 短期間にこれだけの戦闘機を開発させ航空機と発動機のメーカー。それを評価、試験する軍。

 飛行試験中にタンクや継手から燃料が漏れだし発火したり、水平錐揉みから抜け出せなくなったり。急降下試験でフラッターや強度不足で翼が破壊したり。それに携わっている人の緊張感と、破れかぶれに自分をそこに追い込んでゆく悲壮感。優秀な飛行機を開発したい。そうあらねば同僚が前線で喰われてしまう。そんな想いが試験に携わる人々を動かしていたのだろう。

 そして、現場には、悲壮感と裏腹に、明るい笑顔と希望もまた、満ち溢れていたことだろう。それは技術の最先端に触れることのできる知的好奇心と、困難な仕事をやり遂げてなる未来への希望が、あるのだから。パンドラの箱にようやく残すことができた、その希望が。
 左写真のスモークはアクロバット機がおこなったスピンの残影だ。

 その上の部分は高度低下のピッチが少ないことに気づかれると思う。実はここは水平錐揉み(フラットスピン)と呼ばれる。高度の下の方は片翼のみ失速して機首が下がった通常のスピンだ。

 アクロバット機だからこそ許される機動であり、そうでない機体がこれに入ってしまうと、そこから抜けることができなくなる。回復させるためには尾翼に、特に垂直尾翼と方向舵に動圧(前進方向からの相対気流)が必要なのだが、それがない状態なので、スピンを止める舵が効かないのだ。

 現代の飛行試験では、その前に開発用のシミュレーターで飛ばしたら、ほぼ正確に分かるし。それでも危険を承知での実地試験では、スピン回復用のドラッグシュートを装備するなどする。

 上の写真の垂直尾翼下部、エンジン排気ノズル上部に取り付けられた筒の中に、機首を下げられない事態に開く、回復用のリカバリーシュートが格納されている。

 また現代の航空機では設計急降下速度は設計の前提で筋道があり、実際に試験でそれを見にいく。だがそこに行くまでは地上での荷重試験やその動圧環境での動的挙動などのシミュレーションをおこない、飛行試験では逐次にその領域までを切り開いてゆく。もちろんそこに至るまでの各構造部位などにかかる荷重なども設計の範囲なのか、などの検討を経て行われる。

 機体各部に取り付けられた、ストレインゲージの電気抵抗の変化による歪の測定で、そこの荷重がわかるのだ。供試機にはそんなゲージが張り巡らされている。私の時代では、そのうち特に重要な十数のデータが、飛行中にリアルタイムで試験統制室でモニターできた。

 そこで機上のテストパイロットは、統制室のエンジニアと、会話しつつ試験を進める。

 機上でまだまだいけると判断していても、地上から止めろと指示が来たり、機上でもう駄目だろうと感じても、地上ではもっと行けると判断しており、そのまま試験をさらに進めたり。これらは試験の安全と効率に寄与した。

 昭和前期の飛行試験従事者には垂涎の環境だろう。
 機体の状況を刻一刻知るリアルタイムモニター用のデータリンクアンテナ。

 野外では同機能を持たせた機動車が試験には使われる。

 ノモンハンで顔面火傷を負い、後には宇都宮飛行学校校長で敗戦となった加藤敏雄少将は、技研時代は大尉で、91式戦闘機審査の主任パイロットだった。

 開発用シミュレーターやコンピュータのない当時は、種々の形の翼や舵を予め準備しておき、最適の組み合わせを実地に試した。そんな手法に「異常なまでの熱意で取り組んだ」のは加藤大尉だったと。

 審査側の富田技手から聞いた、刈谷正意氏が、その著書「日本陸軍試作機物語」(潮書房光人社)に書かれている。そんな過程を経て試作機は実用機に育っていった
キ番号制定前 中島飛行機 91式戦闘機
全長 7.22m
全幅 11.00m
主翼面積 20.0m^2
自重 1075kg
全備重量 1530kg
動力 520馬力 空冷9気筒
最大速度 320km/h
実用上昇限度 9000m
航続距離 700km(2時間)
武装 7.7mm機関銃×2
 加藤少将のことをFBに書いたとき、FBFのTakahiro Ohkiさんからコメントと共に加藤少将のことを報ずる新聞も見せていただいた。

 朝香若宮殿下は、陸大卒業後航空兵科に異動し、航空本部教育部部員、第51航空師団参謀等を歴任され、戦後は公職追放を経、東京大学で航空工学を学ばれている。

 当時宇都宮飛行学校校長の加藤大佐が、同乗教育を終えた殿下に対し、飛行後の教官所見(ブリーフィング)開陳の景況だ。殿下が座り校長が直立不動の姿勢で模型機を持っている。

 火傷の痕を覆うマフラーは外されなかったと聞き及びます。

 フォークランド紛争で英国王子が従軍したとき羨ましく思ったことがある。この時代は日本でもそうだった。 

 新しい戦闘機の審査試験中、松村大尉は、ノモンハンの時と同じく、着陸のための最終旋回で機内に漏れ出た燃料に火が付いたのだった。

 試験機の燃料系統から燃料が漏れている。そんな系統の漏洩チェックさえままならぬスケジュール。それにしても減速は混合ガス発火の条件に適合してしまうのか。
「私は手や顔面にふきつける炎の熱さに耐えかねて思わず、落下傘降下のために座席ベルトを外した。

 そして、いざ降下しようと真下を見ると高度はせいぜい100m程だった。

 落下傘降下をしたならば完全に開くまでに私の身体は地面に打ちつけられて終るだろう。

 たとえ足や顔は焼けただれても、飛行場に着陸するより外に方法はないのだ。

 私は皮手袋をはめた左手で顔を蓋い、ふきつける高熱のガソリンの炎にあぶられながら、平常の通り飛行場に着陸した。

 着地後、しばらく滑走して、転覆の危険なしと認めた時、機外に飛び出した。飛行機は炎上したけれども、私は顔面に軽い負傷を負っただけけで助かったのであった。」
さて、ここはノモンハン。高度は100mを切り不時着を目指していた。さぞデジャブであったろう。
「とっさに4年前の冒険を思い出した私は、下半身にふきつける熱い炎に耐えかねて両足を方向ペダルから離して座席の近くに縮めながらも、落下傘脱出をしようなどとは思ってみなかった。

 たとえ、両手両足は焼け焦げようとも、このまま火達磨となって着陸するより仕方はないものと覚悟を決めた。

 しかし、紅蓮の炎に包まれて操縦桿を握る右の手は焼け焦げるように熱い。

 耐えるつもりであったが、それでも2度だけ、私は手を離した。するとその度に、飛行機はがくっと機首を下げ墜落状態になろうとする。

 私は慌てて、灼熱した操縦桿を握りしめ、炎のなかで必死の操縦を続けた。

 もちろん、この間にも着陸後の脱出を考えて座席ベルトをはずすことは忘れなかった。

 地面に近づくに従って、接地姿勢をとるため操縦桿を引いた。

 そうして機首を起こして、速度が低下してくると、今まで下半身をおおっていた炎は、私の上体までも包んでしまった。

 着陸操作のため、懸命に凝視していた地面は炎にさえぎられて見えなくなり、私はその中で窒息しそうになった。炎の熱さと息苦しさで、無我夢中ながらも、私は微かに車輪の接地した衝撃を感じた。

 同時に座席に立ち上がって、翼の上に飛び出すと、プロペラにも叩かれず、尾翼にも衝突しないように斜前方、翼の前をめがけて身を投げた。」

 不時着において座席ベルトを、機体が地面に着くまえに、外すという選択肢があることは、この松村戦隊長の手記を読むまで、想像したこともなかった。

 再び私事を書く。

 昭和56年8月10日、私が乗り組んでいた陸上自衛隊のLR-1が、スピン状態で宇都宮飛行場の近傍に墜落した。

 この事故については、当時の陸上幕僚監部が許可の元に書かれた、東大名誉教授加藤ェ一郎さんの著書「飛行の神髄」(講談社)に詳しいが、その範囲で付言したい。

 私はLR-1への機種転換学生として、3列目最後部の3人掛けの右座席に着座していた。

 スピンになる前、スピンは免れない段階に陥ったことが分かった。

 左スピンで地面に激突して死ぬと思った。

 だが死に神がいるのなら、それに背中を見せたくない、とも思った。

 多くの事故例を思いうかべた。座席ベルトを腰骨に力一杯締め付けた(対応処置O-1-1)。

 事故衝撃の多くは座席ベルトから身体に伝達する。身体にとってそれは超急ブレーキであり、急減速の反作用としての身体の慣性力は座席ベルトに支えられる。
 その衝撃エネルギーは、「1/2×身体の質量(m)×速度(v)のべき乗」であり、体重は変えられないが、衝撃速度は変えられる。座席ベルトと身体の間隙がゼロであるならば、そこの部分は減ずることができる。

 次に航空ヘルメットだ。これも墜落の衝撃で頭部から外れたら頭を保護しない。

 ヘルメットの顎バンド(Chin Lock)を締め直す。
 当時のChin Lockは太い皮製帯状のベルトで、近接した2個の穴に波状にとおして、その摩擦で固定を図る代物だった。
 基本的にしっかり閉めるには力と時間がかかるのだが、自分のものはいつもそのように仕付けてあった。だからその皮の端末に手を伸ばす時間だけで、確実な、つまり顎との間隙をゼロとする緊締ができた(対応処置O-1-2)。

 そして両手両足が遊んでいる。

 その時予想どおり、左スピンに入った。高度は150m。

 当然最後の衝撃は左に掛かる。

 両手両足をそれに対抗すべく踏ん張った。

 即ち、左腕を左隣の空席だった後部中間席の背もたれ上部に巻き付け(対応処置O-1-3)、右腕を右足外側に垂らした上で、座席シートの下部から、手を後ろに抱え上げるように力を入れた(対応処置O-1-4)。もちろん両足は広げ踏ん張っている(対応処置O-1-5)。

 対応処置の大きな括り(O-1)には5つの具体的行動があった。ここの第12話で、

「菱川は自衛隊時代、教官や先輩から、行動を起こすときその方法を少なくとも3案は考えろと鍛えられてきた。そして比較して最良の案を決心して、それを為す。行動方針の案出と列挙、その決心とそれに基づく具体化である。」

 と書いた。3案だ。上の大きい括りO-1の「O」は、実行可能な自分のとるべき行動方針の1つであり、Optionの略だ。当然Optionにはもう2つあった。

 0-2は何もしない。

 この飛行機のこのような事故では過去に生存者はいなかった。だからその時を、何もせず人生に感謝して待つと、そんなOptionだった。

 O-3は、O-1の剛の対衝撃体位と反対の、赤子が信じられない衝撃をともなう事故から生還するように、身体の力を抜ききって耐えようとするものだ。

 私はO-1を採用、決心して実行に移したのだが、最良のOptionを選ぶための、比較の要因として「頭部の保護」を最も重要とした。

 全ての状況から衝撃は左に掛かると予想できた。私の頭部は激しく空席の後部中央席シートに打つつけられるだろう。この衝撃を両手両足で分散受傷を企図したのだった。

 150mからのスピンに入る直前、右前席にあった教官機長は、もう支えられない(直進飛行の継続ができなくなった片発故障機は、このような場合スピンに入る)ことを悟り、エンジンへの燃料供給を遮断し、機種転換履修者の座る左席のさらに左にある、電気のマスタースイッチを学生の身体に覆い被さるようにして切ってくれた。このことと夏であり燃料温度と引火可能温度との大きな離隔は(第13話の添付写真参照)、事故機の爆発炎上を防いでくれた。

 後部左に着座していた機付長は座席ベルトが緩かった。おまけにヘルメットのChin Lockも。彼の座席ベルトを座席に結合しているボルトは破断し、彼は機外に放りだされ、同時にヘルメットも飛ばしている。vが存在したときのベルトに掛かる荷重の大きさが分かるであろう。ついでながら腹部にかかる荷重は腰骨でなければならない。腹で受けとめ、内蔵や腸間膜を破壊したらしばらくはともかく、生存は難しいだろう。

 機付長にベルトを締めろと伝えればよかったと悔やむのだが、私は機の状態をインターコムのない状態で、席を移動して教官機長に伝えた上で、自分の保命処置を講じた。機付長に伝えるいとまがなかった。あったとしても掛かる状況で助かった例はなかった。自分にとってもO-2は魅力的でもあった。この期に及んで上官風を、私なら吹かしてもらいたく無いとも思っただろう。私は伝えられなかった。

 ともかくも左窓から家屋の接近を見てタイミングをはかり、満身の力を込めた。

 その家はどうか留守でありますように。

 えっ、なんて弱い衝撃、次の瞬間左の座席シートにどっと崩れ、そこから頭部が反動で少し持ち上がったところで切れた。

 痛くも痒くもない。平安なクリスタル色の暗黒の無から自分の意識を抽出できる状態となった。デカルトではないが、我想う故に我あり、と云うではないか。その現実が理解できない。

 未だ平安なクリスタル色の暗黒にいる。

 そこで呼びかけられた。

 私は尋ねた。ここは何処かと。

 その者は、宇都宮の雀宮だと云う。違う、聞いたのは、あっちか、こっちか、だったのだが。でもそれで、こっち側にいることが分かった。その者は消防の救助隊員だった。私の座席ベルトとヘルメットの外し方を聞いてきたのだった。

 ものすごく時間がかかったが、満身の努力をして、やっと目をあけることができた。

 LR-1の地上姿勢は大変低いが、もっと低かった。

 地べたに胴体が、直接へたり込んだ状態だ。

 数台の緊急車両の向こうにいる、多くの人達がこちらを伺っている。

 私は主翼の後桁を吊っている、胴体の最も堅剛な強度メンバーの枠の中に位置していたのだった。

 私より機体前方部分は薄く潰れていた。その中に4人がいるはずだ。隣にいた機付長はどうなったか。

 瞬間強烈な身体全体からの苦痛が一挙に連続的に襲ってきた。

 自分ができることは、呼吸しているらしいこと、目を開け閉めできること、そして強烈な全身の痛み、耐えられない痛みに耐えること、そんなことしかなかった。

 あっ、生きることは苦しみなのか、そのなかの仕合わせは、なんと貴重なことなんだろう。

 そんなことを想いながら、一呼吸一呼吸が苦悶の時間を乗り越えながら、最寄りの病院まで運ばれた。

 左前腕骨及び左上腕骨骨折、右肩関節脱臼及び剥離骨折、12胸椎圧迫骨折、左側頭部裂傷等々、計算どおりの衝撃の分散だったとおもう。

 私の航空ヘルメットはぐしゃりと壊れていた。ヘルメットは適度な強度が重要らしい。丈夫すぎるとヘルメットは壊れなくて、先に脳みそをやられるらしい。日本製のヘルメットでよかったと。

 もう一度飛びたいと想った。駆け付いてくれた妻に、そう云った。妻は当然の如く良いと答えてくれた。それは復帰への自分の糧となった。

 自分の話に紙数を過ぎた。


当時の新聞写真から


 戦隊長松村中佐は接地前に座席ベルトを外していた。

 基本的にはあってはならない判断に思えるが、炎に包まれたなかで、接地の感触を得たと同時に機外に飛び出している。

 どのみち生還が期しがたい状況での、最後の合理的な状況判断だろう。

 最良のOptionを選択するにあったて、それらを比較する要因のうち、何を重視して決めるかということだ。

 ベルトを外して接地時に大きな衝撃があれば、計器板に叩きつけられ脱出不能であったろうし、綺麗に接地してもベルトに拘束されておれば、さらなる炎に一瞬脱出不能を招くかもしれない。

 中佐は卓越した操縦と、状況判断よろしくをもって、多くは祟り目のなかでの幸運に助けられ、機外に身を投げたのだった。

 僚機の西原曹長は戦隊長に追随している。


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