facebook_UP2018.06.11

伽数奇のFairy tale 002_02

ノモンハン空戦からの発想

第2話 松本さんが持っていた深澤画伯油絵の写真と絵のモデル人物
 松本さんは小学校5年生か6年生のころ、母親から大叔父の話を聞いた。

 松本さんの母方の大叔父はノモンハンで制空任務に就く飛行第24戦隊の戦隊長松村黄次郎中佐(当時)の僚機を務めていた西原五郎曹長(当時)なのだが、

「ある日、空中戦の最中に隊長機が攻撃され、草原に不時着しました。しかし、そこは敵の陣地のど真ん中だったのです。五郎おじさんは隊長を助けるために草原に着陸して、燃え上がる飛行機から隊長を引きずり出して自分の飛行機に運び込み、無事に基地まで帰ってきたと言うのです。その功労により勲章をもらい、その時の話しが有名になり油絵になった」

と、まるで映画の中の話の様で、ほんとうに驚いたそうだ。

 松本さんはその油絵のことを更に尋ね、母親にその絵のイメージを書いてもらった。

「草原で炎上する戦闘機、隊長を引きずり出している姿、稜線の向こうから敵の戦車や兵隊がやってくる・・そんな感じの絵でした」

と松本さんは語る。
 以来、松本さんはその絵を探すことになった。

 バールでは松本さんに質問攻めだ。

 そうしたら昔ノモンハン戦史で読んだ地名がバンバン出てくる。こんな若い人が何故にノモンハンに詳しいのだと驚きつつ、話しを聞く。

 松本さんは、「五郎おじさん」にも直接話を聞き、慰霊も兼ねて3回ノモンハンの現地を訪ねていたのだった。そんなことを自身で綴ったブログもお持ちだ。自分の備忘録としてのブログですので非常に読みにくいです、と云うことですが許しも得たのでそのリンクを示しておきます。

http://outdoor.geocities.jp/halhingolnomonhan/index.html

 さて、バールで見せてもらった従軍画家 深澤清氏の件の絵のことだ。

 陸上自衛隊の陸曹航空操縦学生となった私は、3ヶ月の英語課程を小平の調査学校で履修したのち、昭和46年11月に明野の航空学校の門をくぐった。21歳青春真っ直中。それから毎日のように、この絵を見て過ごした。

 まことに失礼ながら、ああ戦意高揚のための絵、そんな程度の認識だった。

 飛行機好き少年だった私は、多少陸軍機のことも知っていた。敵戦車が近傍に迫っている状況下、火傷で重症の戦隊長を迅速に僚機戦闘機に乗せられる分けがないではないか。

 いや救助僚機に乗せて戦場を脱出帰投したことは戦史の事実であり、そのことを疑ったのではないが、この絵がどこまで真実を描いているのだろうか、それを考えたいと思う。

 第1話で示した、画伯の描いた西原曹長の顔を見てほしい。その上でバールで撮った松本さんの顔と見比べてほしい。極めて似ている。

 松村戦隊長はこの出撃の前日、深澤画伯と過ごした。そして出撃の朝、画伯は戦隊長を見送っている。西原曹長が戦隊長を救出して帰投後、本部に報告に行った。そのとき曹長は画伯と出会い、戦隊長負傷のことを尋ねられた。それがこの絵になった。と、松本さんは云う。

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