NOTES ON MY LUFTWAFFE SERVICE 
            AN INTERVIEW WITH ADOLF GALLAND   

   
             Copyright Donald L. Caldwell. Used with Permission
              (Translated by N.Dejima)
   Thanks for Mr.Caldwell's allowance to translate open this article.
   The orjginal is found in he and Mr.Bulter's JG26 site.
   I wish people who is going to see article below will visit the site and
   get deeper understanding about Europen war history.
   Please click the banner.
   この訳文はMr.Cadwellのご好意で掲載する事ができました。
   訳文の他にもオリジナルサイトを見ていただき、ヨーロッパ戦線の
   状況について理解の助けになれば幸いです。
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インタビューの場所:ドイツ レマゲン ガーランドの自宅

日付け:1991年10月1日
 Inteviewer: Don Caldwell
同席者:Josef Burerschgens JG26 pilot 1938-1940

   Appendices

   (訳者の判断で追加した部分を丸カッコで示し
    ます。またボリュームがあるので読み
    易さの為に訳者の判断でいくつかの部分に
    分け、番号と見出しをつけました)

(1.JG26への着任)
 Caldwell:JG27からJG26へ着任した時の
        印象はどうでしたか?
 Galland:JG26は良い部類だった。最高とは
       言えなかったが良かった。
       練度が高く、他の部隊のように
       設立が早すぎる事が無かった。基地は
       西部のコロンとデュッセルドルフに
       あった。
       指揮官はvon Schleichから短期間Wittに
       引き継がれ、それからHandrickになった。
       Handrickの場合はやや気の毒だった。
       知っていると思うが、Goeringは彼を
       嫌っていた。
       彼はGoeringの秘書の一人と恋愛関係
       にあった。彼の前妻は貴族で、von Treuberg
       家の出身だった、
       Goeringは彼のスポーツの能力に余り興味が
       無かったが彼は36年オリンピックの
       5種競技優勝者だった。
       私はスペインで彼と知り合った。
       彼はJ/88戦闘機隊を指揮しており、
       戦闘機隊の指揮官として優れていた。
       スペインでは部隊指揮官は毎日飛行する
       必要は無かった。それは間違いの
       無い事で、なぜなら戦闘は、2機、4機、6機といった
       小規模で発生し、1飛行隊を超えなかったからだ。
       これらは空中での指揮を必要としなかった。
       Handrickのスペインでの素晴らしい結果は
       この条件で成し遂げられたものだ。
       結果には疑問は無い。
       彼がJG26で成し遂げたことは、これと比べて
       期待外れだった。
       彼は全く飛行しなかったのだ。
       Goeringは機会を捕らえてすぐに彼を罷免した。
       GoeingはMoeldersと私で航空団司令官の
       最初の世代交代を図ろうとした。
       しかし私は嬉しくなかった。私はGoeringに
       Gruppenkommandeuerの地位に残りたいと
       言ったが、Goeringはこれを拒絶した。
       Moeldersは新しい地位を大変喜んで「君は
       Richthofenに成りたがっている。幸運を祈る。
       私はBoelkeの方を好むよ。」と言った。
       これはよく知られている話だ。 
       JG26はJG27よりも基本的に優れていたと
       考えるがこれは個人的な印象だ。

(2.JG26の強化)
 Caldwell: JG26は非常に強力な地上スタッフを持って、
       いたようで、それが大戦中ずっと維持されて、
       良好な稼働率を達成したようだが....」
 Galland:  それは全く正しく、触れて貰えて良かった。
       地上スタッフは予備将校まで非常
       に強力だった。司令部付き大尉の
       Viktor Causin はその一人だ。
 Buerschgens:Causinは早くに死亡しました。私は大戦後に
       彼に電話で連絡しようとしたが、混乱していて
       話を何も聞こうとしなかった。

 Caldwell: 技術将校だったWalter Hortenについて何か
       有りませんか?
 Galland:  彼は非常に好奇心の強い男だった。
       偏差角射撃に関して自己の意見を持っていて、
       それを実行することに関しても、特別な能力を
       持っていると言う評判だった。全員がそれを
       試してみたが、皆がうまく行った訳ではなか
       った。
       偏差角射撃を正しく行うためには、gyroscopic 
       照準器が必要だった。[固定式Revi照準器
       を示して]旧い型の機体では、機体を進めて
       目標の前方を射撃する必要があった。
       gyroscopic照準器は、これは1944年に出来た
       ものだが、全体の構造が動くようになっていた。
       必要なことは、この拡大式の、円形部分を敵機
       の翼幅に正確に合わせることだった。
       操縦者は後は敵機を照準から外さないように
       すれば良かった。
 Caldwell: Hortenは偏差角射撃が大戦前のLWでは殆ど
       教えられていなかったと指摘しているが、これは
       正しかったのですか?
 Galland: このシステムは多くの問題があって大戦の本当の
       末期にできものだ。
         (gyroscopic照準器は大戦末期に
         連合国側で実戦使用されたがLW
         では実用化されなかった)

 Caldwell: gyroscopic照準器は遅れましたが、Revi照準器
       を使っても照準内の距離を見積もることで偏差角
       射撃に用いる事ができたのではないですか?

 Galland: そうだ。但し偏差角が大きい場合は除かねば
       為らない。つまり実際に狙うべきポイントが照準器の
       視野から外れている場合は不可能だった。また
       実際の弾道は直線ではないので、正確に目標の
       前方を狙う事は困難だった。
       Hortenは長い間私の技術将校だった。彼はいつも
       エンジンと機体の問題意識を持っていた。
       彼はいつも理論的に飛行を行っていた。
       しかし彼は良い男で、良い技術将校だった。
       彼は存命で、兄弟もアルゼンチンにいる。
       他には質問は?
     
(3.BATTLE of BRITAIN)
Caldwell:  Battle of Britainの終わりにはJG26はエリート部隊
       との評価を確立しこの評価は(少なくとも連合軍側の
       情報では)大戦の最後まで持続しました。
       どのようにしてJG26を最高レベルまで持っていった
       のですか?

Galland:  最初の中隊や大隊の指揮官は平時には素晴らしい
       将校だった。しかし戦時は別だった。
       まず指揮官の変更が必要だった。その後で
       自分で全ての部隊の作戦を指導した。
       私は大規模な空中戦で何が起きて何が必要かが、
       知っていたからだ。

       次に私はその時点で知られる限りの最高と
       考えられる方法で爆撃隊の護衛の方法を確立し、
       文書で取り決め、実行した。
       更に1941年に護衛付きのRAF爆撃機の編隊
       から基地や他の目標を防御する任務についた際
       に、戦闘機の最大戦力を集中してその
       攻撃目標と、上空を防衛する戦法を発展
       させた。

Caldwell:  Galland式の護衛方法はどのようなものだったの
        ですか?
Galland:  JG26は護衛任務では最も信頼できる部隊として
       知られていたが、それは戦闘機部隊にとって最も
       困難な任務の一つだった。
       多くの訓練を必要としたが、全ての爆撃部隊が
       JG26による護衛を望んでいた。
       だから私は少なくともJG26は護衛に関しては
       最高の部隊だったと言って良いと思う。

       私はこの方法を自分で作り上げた。
       なぜならば我々は経験が無かったし、こうすれば良い
       と言うルールもなかった。
       私は護衛部隊を分けて直接護衛を行った。
       その部隊は爆撃部隊と殆ど同じ速度で緊密な
       接触を保ちながら飛行したが、速度が
       低すぎて戦闘機隊には困難な事だった。
       このことを全体の約3分の1つまり1gruppeで
       実行した
       彼等は爆撃隊に同行して彼等を護衛した。
       一番良い方法ではないのだが
       爆撃隊からは最も望まれる方法
       だった。
       もっと良い方法は分離護衛と呼ばれる
       方法で、爆撃隊の動きを視界に捉え
       ながら飛行を行い、かつ爆撃隊の編隊
       一方向に固まっていることだ。
       もし敵機を発見したら攻撃をかけるが、
       戦闘が終了したら爆撃隊と再接触する。
       そして自由戦闘になるが、爆撃隊の前方を
       飛行しなければならない。
       この方法でもっとも効果的な護衛任務を
       行った事が何度もあった。
       もちろんこの方法は爆撃隊からは視認され
       ないので、爆撃機の乗員からの信頼を
       得なかった。
       私は爆撃隊と何度も何度もこの戦法に
       ついて話し合ったが、無駄だった。
       彼等はいつもGoeringに文句を言い、
       彼は彼等の肩を持った。
       有る時Goeringは40分以上かけて
       彼の列車の外で、Moerdersと私を
       責めた。
         「一体何が必要なのだ?」

         「戦闘機隊は機動性を犠牲にせずに
          爆撃隊の速度までスピードを
          落とす事が出来ないのです。」

         「何?世界で一番優れた戦闘機を
          与えられている筈だ!」       

       この時にGoeringは戦闘機隊の能力を
       上げるために、何をしたら良いかを問い掛けて、
       Moeldersは自分の部隊の戦闘機にDB601Nを
       装着することを望んだ。
       そして私はスピットファイアを望んだ。
       勿論、議論はそこで終わった。
        (有名なやりとりです)

Caldwell: 正確に言って、どうしてそのように発言したのですか?

Galland:  どうしてだって?彼は世界最高の戦闘機を
       与えていると言ったのだ。スピットファイアは
       翼面荷重が小さいので低速で飛行することに
       より優れていたのだ。
       また低速で旋回することも優位だった。
       我々は旋回は得意でなかったが、
       真っ直ぐに飛行すること、急降下する事、
       上昇する事に優れていた。
       我は十分小さい旋回をする事は
       できなかった。
       だから彼が「世界一の戦闘機を与えて
       いるので、自分の責任で無い。」と言った
       ので、そうでないことを伝えようとした
       のだ。
Caldwell: あなたは既にDB601装備のBF109の
       配備を受けていたのではないかと
       思いますが、何機あったのですか?

Galland:  特別の武装をした機体が沢山あった。

Caldwell:  Battle of Britainの時からですか?
       特別武装機は何機かあったと思いますが
       いくつか説明していただけませんか?
       それは109Eでしたか?
Galland:  それがE型だったかどうかはっきりしないが、
       写真を見てもらえば分かると思うが。

Caldwell: 確かあなたが武装のテストをされたのは1941年
       だったと思いますよ。なぜならあなたはBf109F
       の武装が余りに少ないと感じたられたからです。
       私はE型の武装はとても効果的だった思いますし、
       英国側の大方の意見もそうです。

Buerschgens:E型の武装はとてもよかった。
       機関砲を2門持っており、それは
       命中した時に爆発して機体を
       炎上させる事が出来た。
       それを見たことがあると思い
       ますが。

Caldwell: 一度DB601N型エンジンを積んだ
       E-4Nに乗った後は作戦中はずっと
       同じ機体に乗るのですか?

Galland:  同じでは無く、変更があった。

Caldwell: Battle of Britain の期間に
       戦闘機隊はGoeringの信頼を失い。
       それが大戦の最後まで尾を引いたと
       思います。その理由の説明がこれまでも
       なされていますが十分ではないと
       感じます。
       Goeringの戦闘機パイロットに対する
       不信感は「戦果がわざと過大報告
       されているのでは無いか?」
       という疑いの結果であるとも
       言われますがどうでしょうか?
Galland:  だいたいその通りだが、完全でない
       ところがある。
       実際に起きた戦闘機の戦果の
       過大報告に対する弁護として、言わねば
       為らない事が有る。
       作戦直後の最初の報告と
       最終的に確認された戦果の間には
       非常に大きな差があった。             
       しかしGoeringと殆どのスタッフは
       戦果に対しては常に戦果を最大に
       自軍の損失を最少に算出し、信じて
       いたのだ。
       GoeringはLWの能力と可能性を
       過大評価していた。
       彼はまた計画、装備、準備段階で犯した
       基本的な誤りを認めようとしなかった。
       低速の中型爆撃機は防御能力が大変貧弱
       だった。
       駆逐機は爆撃機の護衛用とされていたが、
       全く失敗で、自分自身を護るために戦闘機
       の護衛を必要とした。
       従って爆撃編隊の進入距離はドロップタンクを
       装備しない単座戦闘機の航続距離により
       制限された。
       全てのこれらの不充分な問題を多少なりとも
       知りながら、GoeringとスタッフはBattle of 
       Britainを継続し、RAFの戦闘機隊が温存
       されている状態の下で目標をロンドンに変えると
       言う基本的な誤りを犯したのだ。

(4.戦闘機隊総監)
Caldwell;  あなたが戦闘機隊総監に指名された時に
       どのように感じましたが? 
Galland:  1941年の12月に私は戦闘機隊から退いた
       のだが、その時Goeringはパリにいた。
       私は彼に連絡を取り、部隊を視察
       し、何か言葉をかけて貰う様依頼した、
       その時GoeringはJG26を激賞した。
       スピーチの内容は今も持っているよ。
       [Appendix 1]
Caldewell: あなたがベルリンに行った後はJG26と
       どのような関係があったのですか?
Galland:  私とJG26の信頼関係は強く
       、機会があるたびに訪問した。

       JG26を去る時にはいくつか問題が
       あった。例えば後継者を誰れにするかと
       言うことだ。順当ならSchoepel
       だったが、問題が有り、彼は良い男
       だったが強いリーダーではなかった。
       大勢が彼はひどい失敗をすると
       言っていた。
       次候補のPrillerの方が良かった。
       彼は性格が非常に積極的だった。
       自分の功績を誇るわけでは
       ないが、リーダー次第なのだ。非常に
       大きな影響がある。
       もし指揮官が強ければ、そのことが
       他のパイロットを通して自然ににじみ出て
       くるのだ。

Caldwell: 戦闘機隊総監としてもっとも重要な
       任務はなんでしたか?
Galland:  これは私の戦闘日誌を再構成した
       ものだ。私が戦争直後にイギリスで
       戦争犯罪人として獄中にいた時に
       書いたものだが、これをずっと
       持っていた。
       私はこれを尋問の時に使って、
       最後はここからいわゆるGallnad 
       Reportを作った。それを知っている
       かい?
Caldwell: 飛行隊長のWhittenによるものですか?
       これがそうでしょうか?1部持っています。
       Maxwell基地で見つけました。
Galland:  それは良かった。重要な文書なのだ。
       そしてこれが私の本の基になった。

Caldwell: 本を書いたときどのような資料を持って
       いたのですか?
Galland:  何も無かったよ。必要な資料は全て
       改めて探して入手したのだ。
       主に東側から入手したものだ。
       素晴らしかったのは、Whittenが有能で
       とても良くやってくれて、全ての資料を
       確認してくれた事だ。
       そして私の仕事をうまく進める為に
       できることは
       全て取り計らってくれた。
       卓越したレポートが出来あがり、
       フライブルクにも残っている。 
Caldwell:  個人的資料を残す事はできなかった
       のですか?例えば飛行記録とか撃墜
       報告書とか
Galland:  出来なかった。
       あったのは葉巻だけだ。約800本
       あったかな。
       ここに私の任務リストがある。もし良ければ、
       ドイツ語のものだがあなたに差し上げよう。

Caldwell  本当に有難うございます。
       喜んでいただきます。   
       [Appendex2]
       あなたのオフィスはRLMに所属したのですか?
       それともOKLに所属したのですか?
       (RLMとOKLの意味は本サイトの用語集を
        見てください。) 
Galland:  オフィスはMoeldarsから引き継いだ時は
       ベルリンのリーデン通りNo.3にあった。
       そこは以前の社会民主新聞「前進」の建物
       だった。戦闘機隊のオフィスにふさわしい
       名前だと思ったものだ。
       そこでここを引き継いだのだ。
       そこには前線とは直接関連の無い要員
       だけが居た。公式命令書を書くとか
       そのようなものだ・
       作戦スタッフはRobinnson列車に居て、
       そこが作戦本部だった。
       (RobinnsonはOKL作戦本部の
        コードネーム)

       私には特別車両があった。
       後で、書類が増え過ぎた時は車両の他に
       列車のそばに木造の建物を作った。
       移動はそれほど多くなかった。一つ
       重要なものを覚えているが、ウクライナ
       のヴィニスタに移った事がある。
       GoeingとHitlerが共にそこに行った
       のだ。 
Caldwell: するとオフィスはOKLの一部だったのですね?
Buerschgens:OKLがベルリンにあったのだ。
Caldwell:  もし組織図を書こうとすると、以前私は良く
       分かりませんでした。それで自分の本には
       単に最高司令部とかベルリンと書きました。 
Galland:  一部だけがベルリン残っていたと言うことだ。
       もちろん補給部隊は常にベルリンにいた。

     (本来はRLMはOKLの上部組織に
      なるはずだが、その関係は分かりにくい。
      この事がLWの重要な意思決定に
      影響を与えた可能性がある。)    
         
(5.連合軍のヨーロッパ侵攻)
Caldwell:  連合軍の大陸侵攻の時期のことで
       いくつか質問を させてください
       あなたのオフィスでは前線の各航空団に作戦や稼働率
       についてどこまでつかんでいたのでしょうか?
       また移動時期や、再装備や休養を誰が決定したので
       しょうか?
       それはあなたのオフィスで行ったのですか?
Galland:  いや、それは私の管轄ではなかった。
Caldwell: データを継ぎ合わせるの長い時間が掛かりましたが、
       大陸侵攻後の連合軍の攻撃に従事した殆ど全ての
       Gruppeは非常に大きな損害を受けて、
       再装備の為にドイツに引き上げられたこと
       が分かりました。
       ところがJG26の1Gruppeと3Gruppeは最初の日から
       最後まで前線に留まりました。
       このことはご存知ですか?
Galland:  この時は全ての状況が混乱していたのだ。
       しかし殆どのGruppeはBig Blow [der Grosse
       Schlag]作戦のために訓練を受けていた。
       侵攻に関係する戦闘の為の訓練は全く無かった。
       あのような巨大な敵に対して、何もできなかった。
       連合国の最高司令部は完全に空を支配しよう
       とした。単なる一時的な制空権でなく、
       支配権だった。その違いは20倍も有る。
       そのため我々は前線に全く戦闘機を
       送る事が出来なかった。
       連合側の航空機は我々の飛行場の上空を
       自由に飛びまわり、動くものは何でも、直ぐに
       攻撃された。   

Caldwell: Grosse Schlagはあなたの発案なのですか?                      
Galland: そうだ。Me262を戦闘機として使用することが
      できなくなったので、他のただ一つの可能性は
      巨大な数の航空機を戦闘の為に一ヶ所に
      投入することだと言ったのだ。 
      既にその時は戦闘編隊と呼ばれる飛行方法
      を強いられていた。それは3か4の飛行隊
      から成っていた。
      もちろん、そのような数の戦闘機の編隊を組むのは
      時間がかかり、その間は戦闘機は攻撃を受けると
      大変脆弱だ。
      何度もそのときに攻撃された。
      また我々はSturmjaeger(突撃戦闘機)を持っていた。
      しかしRammjaeger(体当たり戦闘機)ではなかった。
      RammjaegerはWilde Sau作戦から生まれたものだ。
      しかし戦闘機が爆撃機の編隊にそこまで近接できる
      ならば、それを撃墜してさらに脱出するチャンスが
      あり、体当たりして、わざわざ損失を出す必要は
      無い事を議論して、私は体当たり理論を拒否した。

Buerschgens:将軍は良いコメントをして下さいました。最後の
      戦闘機隊の通達で、今話をされたような突撃と体当
      たりの違いがはっきり述べられています。Caldwell
      さんにはこのことをよく調べて欲しい。
      Hajo Herrmannが体当たりを望んでいた。それが
      繰り返し戦闘機隊の通達となった。
      だから将軍は反対の意思を明確にしたのです。
Caldwell:その通達を手に入れて読んでみましょう。
      そこで表現してあることによって、あなたが正しい
      意思を持っていたことを理解しようと思います     
     [Appendix3]
      最後にもう一つお聞きしたいのですが、ドイツが
      戦争に負けるかもしれないと感じたのはいつですか?
Gallnad: 大変早い時期からだ。私はこの事で、1942年の春の
      攻勢の準備のときにJeschonnekと検討したことが有る。
      全ての国内の予備部隊はこの構成に動員された。
      我々は全ての指導者を任務から外したので訓練は
      停止した。戦闘機、爆撃機と特に輸送機だった。
      全てが実戦配備になった。
      そしてJeschonenekは自分たちで訓練の能力を
      破壊したので、もしこのロシアに対する攻勢で勝利を
      収めなければ、戦争は負けだと言った。 
Caldwell: Jeschonnekがそう言ったのですか?
Galland:  Jeschonnekは公式にそう言った。
      勿論命令には従う他無い。
      訓練組織は犠牲になった
      Jeschonnekは結果を知って、自殺した。
      しかし戦争は続き、そして攻勢は実行されなかった。
      なぜならロシア側の攻勢が起きたからだ。
      この時に私は少なくとも戦争に勝つことが
      できないと悟った。
      我々は戦った。より良い条件を見つけ出す
      ためにそうしなければならないと感じたからだ。
      無条件降伏は最悪だった
      私はいつもロシア側を西側連合軍から切り離す事を
      望んでいた。それが暗黒の中で唯一求めているもの
      だった。
      もし西側連合軍が条件付き講和を受け入れると言えば、
      戦争はもっと短かったと思うが、実際はそうならなかった。 
          
Caldwell:ドイツにとってもっとも有利な状況を仮定した場合、Me262
      はどんな影響を与える事ができたと思いますか?
Galland: 262について多くの誤りが有ったことは間違い無い。
      この機体の設計と開発はHitlerの命令によって
      1年遅れた。彼は短期の開発計画を促進して、長期
      の計画を止めさせたのだ。
      Hitlerはは空軍について殆ど分かっていなかったし、 
      空中戦に関しては全くだめだった。
      彼は3次元を考える事が出来なかった。彼は陸軍の
      人間だったのだ。もし全てが完全にうまく行ったなら、
      開発期間は4から5ヶ月短縮し、更に生産は2から3ヶ月
      早まって、1943年の末までには確実に600から800機を
      実戦に投入する事が出来ただろう。
      もしそうならば侵攻を遅らせることができただろうし、
      間違い無く、連合軍の空の支配権を変化させた
      だろう。
      しかしもしそうなったら、[西方の]連合軍の進度は遅く
      なったので、ロシア軍が、もっと奥まで入っただろう。
      それは破壊が一層進んだことを意味する。
      究極的には、Hitlerの全く誤った命令が
      良い結果をもたらしたことになる。
      Big Blowは262の代りだった。
      私は最終的にGoeringの承認を得て、毎日全ての戦闘機を
      敵に対して投入する事を止めるように納得させた。それは
      敵の侵攻の速度に追いつくための方法だったのだ。
      それまで我々は全兵力を戦闘に投入した。その結果
      予備は無く、損失を回復する時間は無く、訓練もでき
      なかった。
      私は最後に予備戦闘機隊を作る許可を得て、プロペラ式の
      戦闘機は2000機に達した。これらはフランスのような前線
      で戦う為の訓練がなされていなかった。しかしHitlerの
      命令で直ぐに前線に送られた。知ってのとおり彼等は
      到着しなかった。彼等は飛行場を見つける事が出来ず、
      飛行場は敵に占領されていた。
      恐ろしい混乱だった。何百機もが毎日このような状況で
      失われたのだ。
       
Buerschgens:その時訓練はどのような状況だったのですか?
      また平均した訓練時間は何時間だったのですか?
Galland: ああ、とても短かった。飛行機は沢山持っていた。
      単発戦闘機の毎月にの生産数は3000機に達していた。
      しかし燃料がなかった。そして時間が無かった。
      最も重要なことには訓練の為の燃料が無かった。
      我々は総飛行時間40時間で戦闘に投入
      しなければならなかった。
      我々は戦闘に投入する事で訓練しよう
      としたが、それは難しい事だった。
      これを実行するためには、我々は特に経験あるパイロット
      を必要としたが、子供達の為に残しておく事は
      出来なかったのだ。 

Caldwell: 前線での問題は計画の不十分だったのですか?
      あるいはLuftflotte3の実行力の不足だったのですか?
      フランスでの飛行場は準備されていたのですか?
Galland: 準備はあった。確かに準備されていた。飛行場の不足は
      起きなかった。
      多くの正式或いは予備の飛行場があった。
      しかし情報がなかったし、見ることも、発見することも
      出来なかった。
      それは炎につつまれており、連合軍に完全に支配されていた。
      もう一つの問題は悪天候だった。
      我々は同じ理由、時間と燃料の原因で、悪天候への対応力
      が無かった。

Caldwell: 戦闘機部隊がドイツへ引き上げられ部隊の戦力が立てなおされた
       後であなたはもう一度Big Blowの為の戦力を確保しようとしました。
       しかしこの時、航空機はBodenplatteの為に取り上げられ、Peltzの
       指揮下に入りました。
       あなたはこの計画が進んでいることを知っていましたか?
       またそれを知ったときどう思いましたか?
Galland:  その目的をArdennes攻勢の10日前まで知らなかった。
       私は全く賛成できなかった。
       私は西部で攻勢を開始することは誤りで、持っている戦力は
       全て東部で戦うべきで、西部は空けておくべきだと
       考えた。皆にこの事を話し、賛成者を探した。
       しかし私はそれを続けると投獄されるか、殺されると警告
       された。なぜならこの時Hitlerの命令に反対する言動を
       採ることは最も危険な事だった。
       それを考えることすら許されなかった。
       私はBodenplatteをPeltzが準備していることを知っても、
       それに対して影響を与える事が全く出来なかった。
       彼等が考えているのは恐ろしい事だと感じた。
       しかし現実に起きた事はもっとひどく、
       準備不足の為に空路がV2の発射地域の上空となり、ドイツ
       の対空砲火が多くの味方機を撃ち落とした。
       本当の悲劇だった。これで完全にLWは終わった
       のだ。

 Appendices
    1. Galland司令官のJG26離任に当たってのGoeringの演説
       5.12.45    
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    2. 戦闘機隊総監の最も重要な任務。1945から1946年の英国での
       記述。    
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    3.  「答える義務がある。」体当たり攻撃と自己犠牲作戦に関する
       意見。 by Adolf Galland-Jaegerblatt誌 VOL.XL(2),p.17,9.1991)    
                
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