training the Luftwaffe part 1(その3) Eagles in the Nest by Peter D. Evance

suppliment originally presented free with Aviation Scale Modeller


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原文と写真はこちら

translated by N.Dejima


使用機材(の続き)

  1939年の夏までにOKL (High Command of the Luftwaffe)
  RLM (Air Ministry)はA/Bschool で用いる機材の明確化に
  同意し、ルール上は各A2schoolは45機、B1schoolは21機
  、B2schoolは30機を保有することになりました。論理的には、この
  時にあまりに多い使用機種の統合整理を行い、生産と保守の
  簡便を実現するべきだったと考えられます。

  もし合理化が実現していれば、訓練ルールの整理も容易
  だった筈でしたが、訓練実務の無視が続く実情下で、これ
  は1944年10月迄真剣に取り組む課題とされず、その時には
  遅すぎて、理論的な検討以上に進む事はできませんでした。

  ドイツの航空機産業に対する実戦機増産の圧倒的な要求の
  為に、新しい訓練機の生産は多くの場合主にチェコやフランス
  のような占領地域でゆっくりと行われていました。はっきりしない
  これらの品質レベルを除外して考えても、これらの占領地の
  開放が進むにつれて、生産拠点が失われて行き、訓練システム
  への負担が増加しました。殆どの場合、訓練学校では驚嘆する
  程多くの機種が用いられており、その中には命令により任務に
  留まっている捕獲した敵国機が含まれていました。戦争初期に
  初等訓練や基礎訓練に用いられた機体の種類を以下の表に
  示します。

A2 Land
Bu131, Bu133, Bu 181, Fw 44, He 72, 
Kl 25, Kl 35

Bl Land
Ar 65, Ar 66, Ar 68, Ar 76, Ar 96, Fw 56, 
Go 145, He 45, He 46, He 51, Bf 108 

Bl Sea
He 42W He 60W, He 114

B2 Land
Fw 58, He 70, Ju F13 

B2 Sea
Ju W33 W Ju W34 W



  この他にはAlbatros L101のような奇妙なほど旧式な機体が
   swastikaを付けて生き残っていた例が有ります。また戦争中に
  専門教育の為の実戦機の訓練仕様の必要性が遅れ馳せながら
  認識され、Focke-Wulf Fw 190、 Messerschmitt Bf 109 、
  Messerschmitt Me 262の複座型が生産されました。

  ドイツが生産した機種の他にも多くの捕獲機がLuftwaffeの基地で
  見られました。中でも特に多いのはチェコのPragaとAvia製の機体
  でした。またかってFrance陸軍で任務に付いていたNorth
  American NA 57(Texanの固定脚型)が多く使用された例があり
  ました。更に特にD520を初めとする多くのフランス軍戦闘機も
  高等練習機として用いられました。一般的に言って、捕獲機は
  使えさえすれば全てLuftwaffeの訓練機リストに入れられ、SB-2
  のようにソビエトで設計された機体でさえも役に立っていました。

Markings

  Luftwaffeの存在が公式に明らかになるまでは全ての使用中の
  航空機は民間機としてされていました。1934年3月20日にNazi
  が政権を取った後、民間の登録システムは広範囲に見なおしを
  受けました。それまでは、航空機は文字/番号の組み合わせ
  で識別されていました。例えば1930年にMesserschumittの工場
  に所属したBFW M.23b軽水上機はD-1836と登録されました。
  またRDL Travemunde実戦試験所で任務についたHe60Bは
  とD-2325と登録されました。Dは勿論Deutschlandを意味します。
  Naziが導入した新しいシステムではDの先頭文字の後に先に
  ご紹介したように4文字の組み合わせが続いていました。
  このシステムは最初の導入が始まった1936年春以降主流となり
  ました。

  第一線の作戦部隊の航空機には、1918年末に用いられたのと
  同様の幅の狭い直線的なフチを持つ十字記号が、胴体にでは
  識別記号の中央に、主翼上では標識記号の末尾に標識される
  ようになりました。言うまでも無くこの為に記号で大変込み合った
  状態となりました。6月までに更に見なおしが行われ、最初に
  それまで垂直尾翼の左側だけに表示されていた、Hakenkreuz
  またはswastikaを両側に表示する事が義務付けられました。
  これは赤い帯の中央の白丸の中に黒で全ての航空機に描かれ
  ました。もう一つの変更は、数字と文字の組み合わせを用いた
  軍事コードの使用の開始です。ここでは新しい規則が作戦機
  にどう影響を与えたかを見ることは止めて、練習機への使用状況
  を見たいと思います。基本的はコードは5文字から成っていま
  した。最初のは文字「S」でSchool(Schule)の記号でした。この
  仕組みはしばしば訓練に転用さた旧い実戦機に広く適用され、
  その目的の為に特別に設計された機体には適用されません
  でした。例えば、Arado Ar68Eは戦闘の訓練に使用され、記号
  S3+R01が付けられていました。

  最初の文字、最初の番号
  二番目の文字
  第三、第四の番号
  =Schule=Luftkreis。
  
  S3+R=学校(Schule)の部隊又はStaffelの表示。01=学校の中の
  機体識別番号(又はLuftkreisの中のschoolを識別している
  可能性も有る)。
  (訳注:分かりにくいので、他の文献を参考にご説明します。
   最初のSはSchuleを意味します。
   次の番号は、以下のLutkreisを意味します(1939年5月迄)。
     1:Luftreiskommando I  Koenigsberg
     2:Luftreiskommando II  Berlin
     3:Luftreiskommando III Dresden
     4:Luftreiskommando IV Muenster
     5:Luftreiskommando V  Muenchen
     6:Luftreiskommando VI Kiel(see)
   ここでは以下のRが学校の識別、最後の二桁数字が機体識別
   番号と言っています。)

  学校は各Luftkreis(Air District)に数校ずつ存在しましたが、多数
  の機体を保有していたので、可能な文字を直ぐに使い切ってしまう
  でしょう。従って筆者は二番目の文字は、学校を識別していたと
  考えています。そうならば識別が簡単になります。これは後の4文字
  コードの先駆だったのかもしれません。1939年1月迄は、供用された
  無武装の練習機は民間機コードを付けていましたが、その時点から
  はD-の文字は取り除かれて、WLの文字で置きかえられました。多数
  の機体にこの変更を実施する事の難しさが想像がつきます。1939年
  9月の戦争の勃発の結果、全ての軍用機にBalkenkreuz(棒十字)が
  適用されました。多くの場合スペースが不足したのでWLと他の4文字
  を分けるハイフンは十字のベースとして利用されました。

  変更は次々に行われ、WL記号は1939年に10月に廃止され、
  以後戦争終結まで使用された単純な4文字記号に変わりました。
  これはアルファベットの4文字から成っており、途方も無く多くの
  組み合わせを提供しました。基本的にこのしくみはアルファベット
  の順番に進みました。つまりまずAA+AAからAA+AZが与えられ、
  次にAA+BA、AA+BZが使用されました。製造者と訓練部隊毎
  に記号のブロックが決められましたが、秘密保持の為に各ブロック
  は孤立していました。この文字は例外無く胴体側面と主翼下面に
  黒で描かれ、上面が暗い色で仕上げられていた場合、しばしば
  白で細い縁取りがされました。

  初期には最初の二文字はしばしば部隊識別に用いられました。
  例えばPF+??はチェコのPrague西部の飛行場を基地とする機体
  に用いられたと信じられています。しかし新しい機体の引渡し又は
  移動が行われた際に、記号が入り混じる事は避けることができず、
  多くの場合に三番目の文字は機体が所属したStaffel又は飛行
  部隊を識別していました。また最後の文字は個々の機体の識別
  しました。例えば、1940年から41年にMarienbadを基地とした
  何機かのKlemm Kl25は全てPF+V?で識別され、一方他の一群
  は、PF+W?と表示されていました。不運な事にこの論理は、連続
  した文字が多くの製造者に割り当てられた為に複雑になりました。
  GV+CE、GV+CI,GV+CV等を含むAradoAr96の一群がその例
  です。この分野には多くの研究の余地が残っています。

  戦争が進行するともっと単純な練習機の識別がしばしば訓練飛行場
  でみられるようになりました。これは単に多くは3桁からなる目立つ
  大きさの数字で、普通白又は黄色で尾部の先頭のような、航空機の
  都合の良い部分に描かれました。恐らく基地の各機体に機種とは
  無関係に与えられたものです。練習機は十字とswastikaに関しては
  (訳注:同時期に製造された)他の機体と同じ様式を用いました。
  これらには大戦初期の特別大きな主翼の十字から、戦争の進行と
  共に現れた白い縁取りだけのものにまで亘りました。しかしながら多く
  の練習機は最初のオリジナル塗装のままで、何年も生き残っており、
  実際、1945年に捕獲された少なくとも1機のKlemmKl25はまだ戦争
  前の銀ドープ塗装と民間機記号のままでした。また目立つマークでは
  有りませんが、戦争の全期間を通じて広く見られた小さいデータ表が
  あり、機体の尾部に描かれ、機種と所属する飛行学校の所在地と電話
  番号が分かるようになっていました。これは基地から離れた地点で
  不時着した場合に大変役立つものでした!

  いくつかの機体の特別の表示が有り、例えば計器飛行学校所属機は
  胴体周りに二重の黄色い線が描かれ、またBu133には胴体側面に、
  下向きに白で縁取りされた緑色(赤では無い)の派手な電光マーク
  が見られました。
  
  最後になりますが、殆どの飛行学校は部隊マークを持っており、それ
  は、戦争末期の訓練が大変困難な時期にも多くの機体に描かれまし
  た。

COLOR
    
  これまでの説明から分かるように、Luftwaffeの練習機の塗装の一般
  規則が有りましたが、特別な迷彩を施す事は有りませんでした。
  航空機の再塗装資源の途方も無い消耗の為に、練習機は最初製造
  されて長い時間が経過した後も、最初の塗装状態を保っていました。
  初期には全ての機体が銀ドープ(RLM01)で仕上げで有り、しばしば
  胴体の背面は反射を防止する為、紺か緑で塗られました。一例は
  1936年に任務についた所属部隊不明のFw44B、D-EVYMでした。

  その後支給された機体は、標準の多目的色である灰緑色(RLM02
  又はRLM63)で仕上げられる事が増え、多くは光沢が有りました。
  Bucker製の機体はしばしば多くパールグレー色で仕上げられ、
  この単色は連合側戦闘機が増加して、訓練生の生命を脅かすように
  なるまで継続しました。上面全体を普通RLM71のような濃緑色で仕上
  げることは、空中でも地上でも迷彩として機能しました。より暗い色が
  普及するにつれて、東部戦線で用いられいたような黄色帯や主翼端
  、ラダー、カウリングへの黄色マークが安全上の理由から採用されま
  した。

  訓練用に格下げされた旧式機は新しい部隊マークを付ける場合を
  除き、作戦時の色彩を変更することが稀でした。このため、訓練飛行
  場に多くの色彩パターンが存在することになりました。

  練習機として使用された、鹵獲機は殆ど例外無く下面全体を黄色
  (RLM04)で塗装して、友軍機であることを表示しました。

  終

  写真は間もなく掲載されます(訳注:冒頭から原文と写真に入って御覧
  下さい)。
  
  Best wishes

  Peter Evans-moderator
  Luftwaffe Experten Message Board