軍用機のパイロットと乗組員の訓練は歴史研究者 からは全く忘れられる分野です。Luftwaffeの場合 が最も当てはまっており。多くのパイロットや、 組織に属する機体が少なからず大きな結果を達成 したことが著述家やモデラーの注意を引きつけて いますが、補給任務は全く無視されて来ました。 しかしどの空軍も、正しく構成された訓練組織と それを実行する手段無しには生き残る事ができま せん。そのことは、バトルオブブリテンにおける RAFで強く感じられ、更にそれが避けられない事は 1943年以降のLuftwaffeが徐々に証明することに なりました。Luftwaffeが公式に誕生する1935年 3月1日の少し前は、ドイツの航空活動は全体として 訓練に重点が置かれていましたし、作戦行動する 軍用機は有りませんでした。第一次大戦の停戦条約 上から秘密を保つ必要に迫られ、ドイツが築く軍事 航空組織は民間活動の体裁の下だけで機能する事が できました。軍事的な基盤上に訓練を受けた多くの 乗務員が存在しましたが、この制約は航空機と戦術 の両方の発展を妨げました。Luftwaffeが急に出現 した時には、あたかもHiterがその政敵達を最終的に 欺いて彼のいつもの騒がしい政治的要求を受け入れ させる避けがたい力となるような、戦闘機や爆撃機 の飛行隊が続々と現れる組織のように思われました。 しかし実際は異なっており、隠匿が続いた年月と 経済的な制約がその負担となっていました。 Naziの宣伝とは逆にドイツの航空機は当時のベスト では無く、数量も言われていたようなものでは有り ませんでした。 Adolf Hitlerの日和見主義的、ご都合主義的な政治 姿勢から、軍事スタッフ達は時局がドイツが直面した 長期間の作戦に耐える根を張った軍事力の育成を要求 していないと認識しました。逆にこのことは電撃戦の 理論の発展−相手の重要地点に可能な限り大規模かつ 圧倒的な攻撃を加えることで数的に優勢な敵を短期間 に倒すこと、に大きな影響を与えました。この状況下 では、初期の電撃戦において長期的な訓練計画よりも、 短期的に予備部隊までを含む軍事的能力を活用する 必要性が優先されていたことが容易に分かります。 ロシアで反撃を受けるまでに、この大きなギャンブル は完全につきを使い果たしており、戦局の素早い展開 が、絶え間無い消耗戦に変化して、ドイツの敵国が装備 と訓練をやり直す時間を得るや否や、長期戦に対する 準備がないと言う問題点は、何とか時間を稼ごうと する空想的なトリックではごまかしきれず、終局へと 進んだのでした。 訓練−無視された必要性 ミュンヘン協定(1938年に英仏が同意したナチドイツ にチェコとスデーテンを引き渡す議定)の後でHitler は作戦部隊を5倍に増強するよう命令しました。この ような過大な重点目標を与えられた後、1939年の初め にLuftwaffeはGenerall Staffの再編成を行い、訓練 を担当していたLuftwaffe Branch3の任務は新しい軍隊 の破壊力を完全にする為の戦術訓練に限定されました。 一方でで長期的なパイロットの訓練は新たに創設された Chef des Ausbildungswesen(chief of training)の 事務局に移管され、Generalinspekteur der Luftwaffe のErhard Milchに直属しました。戦争への足取りが明確 になって来る1939年4月にはもう一度組織変更が行われ、 Luftflotteが設立されて、第三帝国の特定の地域を担当 しました。信じられない事ですが、この事務局は、訓練 組織を管理しておらず、Luftflotteの司令官が担当地域 の訓練学校と機材に責任を持ちました。当然作戦司令官 は長期的な利益をもたらすに過ぎない訓練組織よりは実戦 部隊に強い関心を置きます。戦争が始まると共に、 Luftflotteの司令官達は急速な電撃戦を継続する必要に 迫られて、訓練部隊の技術の高い航空教官達と彼らが使用 する航空機を学校から抜き出して輸送や連絡部隊で使用し ました。技術の高い教官に、輸送機の絶望的な不足の 補充を継続して要求した結果、学校を終えた訓練生達の 質と量が大きく低下する結果を導きました。1942年から は燃料の不足が実感されるようになりましたが、作戦上 の要求が最優先され、訓練学校は長い優先順位の最後でし た。Luftwaffeの幕僚長であるHans Jeschonnek大将への 抗議には「まずロシアを倒せば、訓練を開始できるのだ! 」と言う返答が返って来ました。 当初よりドイツの訓練システムには欠陥がありました。 Luftwaffeが存在した間ずっと、離着陸時の高い事故率が 続き、それは若者の危険を犯そうとする自然の傾向がより 増長しました。初期にはLuftweaffeは期待されていた ようなよく訓練された戦力ではなく、自信過剰や自己顕示 が原因であまりに多く致命的な事故が発生し、Goering 元帥はそれを天罰と呼びました。ここで生き残った者達は 天性と、乗務員が休み無しに何年も任務に就くという ドイツ独特の戦争システムの結果が組み合わさって高度の 技能者に成って行きました。 ある程度までは訓練システムの問題点は戦術によって相殺 され、それは予期しない事態に対応する輝かしい能力の 発揮となりました。しかし戦争が続くにつれて圧力は 増加しました。装備の不足は生産拠点の増加で対応できま したが、訓練された人員の不足は簡単につりあわせる事が できません。単に訓練学校を増やす事は、訓練に1年 を要する戦闘機パイロットを作り出す事に殆ど役立たず、 更に爆撃機の乗務員の場合だと状況は一層悪く2年を要し ました。1943年中には訓練計画は必要性とつりあっていま したが、皮肉な事に1944年に航空機生産がピークに達する とパイロットの実数は絶望的に置き去りにされました。 この時に平均的なドイツのパイロットは実戦に投げ込ま れるまでに約160時間の飛行訓練を受けていましたが、一方 敵対する英国と米国のパイロットは各360と400時間の訓練 を終了していました。ドイツのパイロットの損失が急速に 増大したのは少しも不思議なことでは有りません。 自分たちの装備への習熟の不足、あらゆる天候の下で飛行 する技術の不足、敵軍の急速な増加等がその力を加速度的 に低下させ、かっての誇り高いLuftwaffeの破滅的な結末 につながったのです。 人 航空乗務員になろうとするLuftwaffeの新兵達は直ちに スターへの道が大変厳しい事を思い知らされました。 1935年以降Luftwaffeの先駆者達は準軍事組織である RAD(Reichisarbeitdienst:帝国労働サービス)と協力 して、例えば道を作り溝を掘るような準備期間に有りま した。一方空へのより強い要求を持つ多くの人々は、訓練 と教育を受ける機会を選びました。その場合民間の政党に よる管理組織であるNSFK(Nationalsozialistischen Fliegerkorps:国家社会党航空軍団)でグライダーによる 基礎訓練を受けました。Luftwaffeの専従者としての道が 定まった後は若い新兵、士官候補生、地上要員はまず FEA(Fliegerersatzabteilung:航空乗務員補充局), 後にFAR(FliegerAusbildungsregiment:航空乗務員訓練 連隊)へ送られて6から12カ月に亘り基礎訓練、軍事訓練、 自然科学教育を受けました。この時期の航空分野の教育 は電波と地形図の説明の講義だけでした。戦争の後半に なるとこの過程は僅か2から3ヶ月に短縮されました。 FARが終了すると飛行訓練に適性が有ると認められた新兵 だけがFluganwerterkompanie(航空評価会社)として 知られる集まりに2ヶ月間送られ、そこで一般的な航空 航法を学習しました。また士官候補生はLuftkriegshule (LKS:航空戦闘学校)へ送られました。ここでLuftwaffe によって発表されたいくつかのパイロットライセンスに 関して説明したいと思います。NSFKによって発行される 3段階のグライダーパイロットライセンスとは別に、基礎 的な動力付航空機に対するA-1認定が有ります。そのため には訓練生は1回の宙返り、3回の着陸を失敗無くやり 遂げる事、高度2000mの飛行、300kmの三角コースを飛行 することを要求されました。その時の使用機材は単座 又は複蓙の重量500Kg以下の航空機が指定されました。 A2認定は内容は同等でしたが、航空機は少なくとも複蓙 以上が必要でした。Luftwaffeの殆どの操縦者は二重 操縦装置を持つ機体で訓練したので、実質的にはこれが 最初のライセンスになりました。これに続くのがB1ライ センスで、生徒は3000Kmの飛行経験、600kmの三角周回 飛行を9時間で行う事。高度4500mの飛行、少なくともB1 カテゴリーの航空機での最低50回の飛行経験(単発、単座 から三座、重量2500Kg以下)を要求されました。更に その上にパイロットは3回の正確な着陸、2回の夜間着陸 最低30分の夜間飛行の達成が必要でした。B2の認定では 更に困難さが進んでおり、6000Kmの飛行経験とその中に 3000KmのB1クラスの航空機での経験を含むこと及び50回 の夜間飛行が必要とされました。 より大型の多発機を飛行させるためにはCライセンスが 必要でした。これにはBクラスの航空機による最低 20000Kmの飛行(単発、単座から六蓙、重量2500Kg以下 )が要求され、その内6000Kmは正パイロットとして飛行 しなければなりませんでした。これだけでなく生徒は C1クラス航空機(単発、六蓙、重量2500Kg以上)での 30回以上の飛行および航空通信の一般知識に付いて 優れた成績が必要とされました。最終的な最も取得が 困難な認定はC2でしt。これはC1の取得が前提で、その 上で30回の訓練飛行、数回の800Km三角周回飛行、2回の 片発飛行、200Kmの夜間飛行の経験が必要とされました。 以上の事から質の高いパイロット、特に多発の爆撃機や 輸送機の、それは簡単には見つからない事が自明です。 また、この基準迄育成できる指導者は更に稀でした。 更に訓練学校を軍事作戦の補給に投入するようになって からは一層その傾向が強まりました。質の高い指導者の 不足は直ちに訓練の効率の低下を招き、生徒の不合格率 は25%に達しました。 ここでもう一度、新入学生の状況に戻りましょう。飛行 訓練学校に入学した後はA-2級とB-1/2級の航空機を 用いた100から150時間の初等訓練を受けるために Flugzeugfuhrersschule A/B(FFS A/B)に入学します。 戦争の終了までにはこの時間が少なくとも理論上40時間 まで短縮されました。その結果十代のパイロット達が 経験を積んだ連合軍側のパイロットと戦った際に、 チャンスを得ることが無くなりました。 最初の5時間は教官が同乗しますが、その後単独飛行に 移行し、25時間程度で、周回飛行、強風飛行、離着陸、 簡単な旋回の訓練を行います。この時期は扱いやすい BuckerやKlemm製の訓練機を用いました。訓練生が経験 を積むにつれて、彼らの適性がどこにあるかの見極めが 行われ、その結果で以って初等操縦者認定を得た後の 訓練内容が決められます。将来の戦闘機搭乗者は3ヶ月 間のWaffenschuleに送られて、様々な形式の航空機を 用いた50時間の飛行訓練を行います。実際には形式の 旧い実戦用の機体が用いられました。この後で実戦部隊 配属になりますが、まだ未熟とはいえ200時間の飛行 時間を持ちました。(訳注:Murrayによればドイツの 戦闘機パイロット訓練生の総飛行時間は大戦初期には 240時間程度でしたが、44年末には約140時間に低下 しました。一方英軍の場合は約200時間から約340時間 に増加しました) 急降下爆撃機の操縦者は4ヶ月続く教育の為に、Stuka vorschuleに送られます。そこでは単独飛行に移行する 前に、教官が同乗して15回の急降下訓練を行いました。 急降下時には身体的ストレスが加わるために単独飛行 による急降下訓練は1日15回に制限されていました。 訓練の主目的は爆撃の正確さの習得であり、航法と戦術 は二次的に考えられていました。 爆撃機と偵察機の操縦者はFFS Cへ送られました。訓練 には双発機が用いられて、3ヶ月から6ヶ月続き、この コースは約60時間の昼間夜間飛行、地域横断飛行、 無視界飛行を含みました。ここまでは旧式機を用いた 訓練でしたが、その後更に6週間の、専門の Blindflugshuleへ送られ、更に50から60時間の無視界 飛行訓練を受けました。最終段階は約3ヶ月の爆撃また は偵察学校での教育でした。ここで乗組員チーム(Crew) が形成されて実戦機を用いた訓練に移行し、約250時間 の飛行後にCrewは実戦部隊へ送られました。 海洋作戦に従事する操縦者に対しては特別な要求が有る ため、異なった訓練が行われました。C認定のレベル迄 は他と共通でしたが、その後、Flugzeugschuleで用いる 航空機が異なりました。 訓練計画における驚くべき省略が行われたのは、輸送機 操縦者の場合でした、Luftwaffe High Command(OKL)は 最新の攻勢作戦における補給の必要性を大変低く見積 もっていました。その結果、練度の高い教官を飛行学校 から引き抜いたことに加えて1943年迄は輸送部隊は、 Kampfgeschwader zur bezondern Verwendung(KGzbV) として分類され、文字上は特別任務につく爆撃豚と されていました(訳注:輸送機用の専門の訓練は行わ れず、爆撃機乗務員が輸送任務に当っていたという事 でしょう)。 乗務員の訓練に関するもう一つの側面をここでご紹介 します。第一次大戦からの伝統を引き継いで、ドイツ 爆撃機では偵察員が機長を兼ねており、パイロットは単に 命令に従って機体を操るだけの役割でした。従って 偵察員はクルーの中で最も経験を積んでいる必要があり、 緊急時には他メンバーの任務を引き継ぐ必要があり ました。彼の訓練は多種且つ包括的なものでした。 150時間の訓練を受けたCクラスライセンスを過去に取って いる事。特別の偵察訓練、航法の集中訓練教育、夜間 および盲目飛行、爆撃照準、無線通信、射撃!が含ま れていました。言うまでも無く戦争の圧力からこれらの 模範的な位置付けは見なおしを受けて、1942年以降は 偵察員の訓練は減少し、機長の役割が取り除かれた後は 4-6ヶ月のコースが普通になりました。 以前指摘したように戦争が始まると直ぐにLuftwaffeの 訓練システムはばらばらになりました。そのしくみは 特に短期間の急激に立ちあがる作戦の要求に適合して おり、初期には比較的効果的で、良く組織化されて いました。その後の手荒い経験から直ちに手直しが必要 になり、例えばパイロットが割り当てられた部隊や機体 の特別な種別に応じた戦術や習熟の為の訓練の必要性が 明らかになりました。その結果、実戦部隊と直接繋りを 持つ多くのErganzungsgruppen(実戦訓練部隊)や、例 えば対船舶攻撃のような一時的な必要に対応した専門 養成課程が設けられました。大きな省略は夜間飛行で した。それは最も重要度の高い専門的な訓練でしたが、 OKLの先見性不足の実例であり、一方では新型機、新兵器 、戦術は一層増殖して行きました。 その2へジャンプ