
変化虎の巻5
「やだっ、バーナビー!その顔どうしたの?」
いつものようにトレーニングセンターに入った途端、開口一番、ネイサンが身を捩らんばかり
に悲痛な声をあげた。もともと不機嫌そうにしかめられていた彼の人物の眉が、ますますつり上
がったことは言うまでもない。
そして、駆け寄ってきたネイサンの視線から逃れるように、バーナビーは顔をそむけて口をへ
の字に曲げた。
「ファイアーエンブレム、そんな大きな声で……」
隣にいた虎徹が、宥めるようにバーナビーの背に手を添えてトレーニングマシーンの方へと押
しやりながら、センター中に響きわたりそうなネイサンの声を慌てて咎める。
「だって、ハンサムの顔なのよ!大変じゃないのよっ」
実際のところ、そんなに大騒ぎするほどのことはない。目の下が、少し赤くなっているだけだ。
もっとも昨日はちょびっと腫れていたのだが……
もとより、犯罪者を相手にしているヒーローが怪我の一つや二つで大騒ぎされることはなかろ
うとたかを括っていたのだが、やはり顔は目立つらしい。穏便に済ましたかったのに、ネイサン
が大声をだすものだから、すぐさま人が集まってきた。
「うわっ、ほんと。ちょっと痛そうー、なにしたの?これ」
「打撲っていうか、殴られたあと?」
カリーナに続いて、ホアンが寄ってきてなにやら観察し始めた。
「別になんでもありません」
オタオタしている虎徹を余所に、バーナビーは至って平坦な声で答えてそっぽを向く。それ以
上はなにも答える気はないとばかりにトレーニングを始めた。
そして、女子3人の視線は自然に虎徹へと集中する。
明らかに不機嫌なバーナビーに、どこか落ち着きなくうろたえる虎徹――
彼女たちに「……ああ、なるほど」という顔をされて、虎徹は顔から火が出そうだった。たぶ
ん推測された状況はほぼ正解だろう。
「なーんだ、自業自得か」
カリーナがふふん、とどこか嬉しそうに笑って自分のトレーニングに戻っていき、ネイサンが
さりげなくバーナビーの肩を慰めるように叩き、ホアンも、なにを納得したのかうんうんと小さ
く頷いていた。
「あの、ごめんなバニー…」
三人が立ち去ったあと、虎徹はこっそり謝った。
「別にいいですよ…、悪ノリした僕が悪かったんですから」
飛んできたパンチを避けられなかった自分も間抜けだったんだしと、どこか自嘲気味に溜息を
つく。
昨日、あの後…実は、なにもなかった。
というか、バーナビーに組み敷かれたとたん、虎徹はそれこそすごい勢いでカウンターパンチ
を繰り出していた。
気持ちの上では虎徹自身、まあいいかくらいの感じになっていたのだが、なぜか身体は素直に
従ってくれなかった。
自分で考えている以上に、この身体でバーナビーに抱かれることに抵抗を覚えているのか、己
自身のことなのにさっぱりわからない。
結局、ぐーで飛び出したパンチをまともに顔面で受け止めたバーナビーは、無言で後ろにひっ
くりかえってしまい、その後はもうぐだぐだである。拗ねまくったバーナビーをひたすら宥めす
かすので夜が明けてしまった。
「先にロッカーいってますね」
ひととおりトレーニングを終えると、バーナビーは虎徹にそう声をかけて立ちあがった。
いつもなら虎徹が終わるのを待っているのに、どうやらまだ拗ねているらしい。立ち去ろうと
したバーナビーに「すぐにあがるから待ってろ」と声を掛けたが聞こえたかどうか。
彼は振り向きもせずに、シャワールームへと消えた。
虎徹は慌ててタオルを掴むと、寝そべっていたベンチシートから身体を起こしつつ、立ち上が
りざまに踵を返した。
けれどその途端、大きな壁のような硬いものに衝突して、跳ね飛ばされるように後へとバラン
スを崩してしまう。
「うわっ?!」
「あ、危なっ…」
かかとが床を捕らえられなかった瞬間、尻もちをつくことを覚悟した虎徹だったが、ふわっと
腰を支えられてほとんど両足が浮いた状態で空中で止まった。
びっくりして琥珀色の瞳を瞬くと、その先には同じように驚いた顔をしているキースがいた。
片手一つでほぼ全体重を支えられていた虎徹は、慌てて両足を床につけた。
「うわっ、ごめっ!重かっただろ?ちょっと急いでて前見てなくって…、腕、痛めてないか?」
「い、いや…、」
後ろに倒れ込もうとする虎徹の身体を、とっさに腕を伸ばして掬うように支えたのだが、重い
どころかキースにはまるで羽根のように感じた。
「というか…、そっちこそ平気か?」
腕に残る感触になぜか動悸を覚えながら、キースは添えた手を名残惜しそうに離した。
「オレ?ああ、全然平気だ。でも、思いっきり鼻をぶつけた。お前の腹、鉄板でも入ってるんじ
ゃないのか」
鼻がもげるかと思ったぜ、と虎徹は笑いながらキースの腹に拳を当てた。
丁度立ち上がりざまに振り向いたので、鳩尾付近に顔面から突っ込んだのだ。普通なら、そん
なところに頭突きを食らったら悶絶するのはぶつかられた方なのに、弾き飛ばされたのは虎徹の
方だった。さすがは鍛え方が違うということかも知れない。
息がかかりそうなほど至近距離で虎徹に腹を触られていたキースは、なぜかドキドキと高鳴る
心臓を持て余していた。無意識のうちにもう片方の手で、その虎徹の握られた拳に手のひらを重
ねた。
「あ、悪い。くすぐったかったか?」
触られるのを嫌がったのだと思った虎徹は、ぱっと手を離した。
「でもよ、俺だって以前は腹筋割れてたんだぜ、お前ほどじゃないけどな。それが見ろよ、これ。
女になったら、つるっとなくなりやがった」
「…っ、…っっ!!」
ぺろんとシャツを捲って、すっかり筋肉の消えた腹を晒した虎徹に、キースはそれこそ言葉を
失って後ずさった。口を押さえてなかったら、危うく悲鳴をあげていたかもしれない。
「……スカイハイ?」
「っ…う」
キースが詰まるように声をあげた途端、虎徹の身体が無理やり引き離された。
同時にいつの間に駆けつけたのか、虎徹の前に回り込んだカリーナが捲りあげたシャツの裾を
スゴイ勢いで引き下ろしていた。
後ろから虎徹の肩を掴んで引き寄せたのは、もちろんバーナビーである。
二人に寄ってたかって押さえつけられた虎徹は、何が起こったかわからず呆然としている。
「まだこんなところにいたんですか?虎徹さん」
「お?バニー、お前先に行ったんじゃ……、っていうかブルーローズ、シャツ伸びるんですけど」
「先に行くわけないでしょう?この次は一緒に雑誌の取材ですよ」
「シャツ捲るとか信じらんないっ!……タイガーのばかっっ!」
嫌味たらしく上から睨むように言うバーナビーに重なって、カリーナはワケのわかない癇癪を
起してツンと踵を返した。立ち去ろうとして、もう一度「ばかっ!」と重ねて、床を踏み抜くよ
うな勢いで歩いていった。
「なんなんだ、ブルーローズのやつ?」
「今日ばかりは、彼女に味方します。こんなところで脱ぐなんてありえません」
「別に脱いでねーだろうが。ちょっと、こう…」
再度シャツの裾を掴んだ手を、ビシッと叩き落とされる。
「痛い……」
ブルーローズなんか、いつも下着みたいな恰好で外を闊歩してるくせに、なんで俺ばっかり…
と虎徹は納得がいかない。
「いいから、早くシャワー浴びて来てください。もう時間押してるんですから」
虎徹の事情のため、コンビでの仕事はもっぱら絵を伴わない取材のみである。だから、撮影な
どは今はバーナビーに任せきりであった。今日は、久々のコンビでの仕事なのだ。
それに気がついて、虎徹は慌てて立ち上がった。
「そうだった!すぐ着替えてくるから、バイクつけといて」
「わかってますよ。ほら、急いでください」
虎徹は、ふと気がついたように「スカイハイ、ごめんなーっ」とかなんとか言いながら、ロッ
カールームへと走っていった。キースはと言えば、先程から一歩たりとも動けずに、ただ呆然と
虎徹の方へと視線を送って佇んでいた。
虎徹が入っていったシャワールームからは、またしても折紙が転がり出てきた。
どうやらシャワーを終えて着替えている最中だったらしく、まるで暴漢に襲われたような恰好
で飛び出してきたのだ。
すごい勢いで脱ぎ出した虎徹に仰天した折紙は、えぐえぐと涙目になりながらネイサンに泣き
ついていた。
バーナビーはやれやれと溜息をついて、ちらりと立ちつくしたままのキースを一瞥した。
折紙先輩はともかく、なんだかひどく面倒なことになりはしないかと、どっと気が重くなった。
今の状態で虎徹と一緒にシャワーを浴びて平静でいられる自信がなかったので、わざと距離を
置いて先に着替えて戻ってみれば、さっそくとんでもない状況に陥っていた。むろん、虎徹はそ
れに気がついてなかった風だが……
バーナビーには過剰に警戒するくせに、どうしてキースには危機感ゼロなのか。おそらくまだ
キースが自覚を伴っていないからこそなんだろうけれど、あの警戒心皆無の様子では気がついた
時には手遅れになりかねない。
現に同姓のバーナビーと恋人同士でありながら、なぜか虎徹は男からみて自分がそういう対象
になるという思考が抜け落ちている。ましてや、今は女性なのだから異性愛者からみても、恋愛
対象になりうるのだとなぜ気がつかないのか。
鈍感な恋人が、ここまでやっかいな存在だとは考えもつかなかった。
しかも、ずっとお預け状態――
なんでもいいから、どれか一つでも解決してくれないと色々ヤバくなるのはたぶん自分の精神
ではないかと自己判断するバーナビーだった。
1時間近くに及んだ取材を終えた虎徹達は、その雑誌に届いたというヒーローへのファンレタ
ーやプレゼントの詰まった段ボールをしこたま渡されて、おまけになんやかやと引きとめられた
揚句、ようやく解放されたのはとっぷりと陽がくれた後であった。
当然というか、虎徹の状態を根掘り葉掘り聞かれたのである。
とはいえ、まだ緘口令が敷かれた状態で、もちろん他言は無用とお達しが来ているので雑誌も
下手なことは書くことはできない。要は、興味本位といったところであろう。
サイドカーに虎徹と一緒に荷物を放りこんだバーナビーは、さっさとバイクを会社へと向けた。
始終、ほとんど無口なバーナビーに、虎徹もどう反応してよいかわからず先程からまったく会
話が成り立たなかった。別に怒っているとかではないようだが、こういう時のバーナビーを構っ
てもいいことはないと知っているので、虎徹は敢えて黙っていた。
今日は直帰していいとのことだったが、この手紙の山には他のヒーローに当てたファンレター
もある為、その仕訳をしなくてはならない。ともかく、家に持ってかえってもまた持ってこなく
てはならないので、一度会社へと運ぼうということになったのだ。
ロイズに連絡をしておいたので、すこし遅い時間だったがオフィスを開けて待っていてくれた
ようだ。
どっさりと山になっている手紙やプレゼントの箱を、3人で手分けしてオフィスへと運んだ。
「おっと……」
積み上げた箱の、更に上へ段ボールを置こうとしたが持ち上げきれず、虎徹の頭上に手紙のた
っぷり詰まった重い荷物がぐらりと傾いた。とっさに手を持ち替えて受け止めたが、口のあいて
いた箱の上部から、ざーっと手紙の一部がなだれを起こす。
「わーっ!?」
「なにやってるんですか、虎徹さん」
なんというか、女になって一番困ったことはコレである。
腕力、というか筋力が目に見えて落ちたことだ。
頭では、元の力加減でいろんなことをやってしまうので、持てると判断したモノでも持ち上げ
られなかったり、こうして支えられると思っても実際はうまくいかなかったりする。
なんとか箱そのものは上に押し上げることが出来たが、かなりの量の手紙が床にばら撒かれて
しまった。
「あーあ、もうっ!」
思い通りにならない己の身体にイライラしつつ、虎徹は落ちた手紙を拾い始めた。他の荷物を
運び終えたバーナビーも、それを手伝った。
けれど、手にいっぱい抱えた手紙を虎徹はいきなりばらばらと床に落とした。
「虎徹さん?どうかしましたか」
「あ、…いや」
一瞬、ざっと血の気が引いた。
思わずうしろへ倒れ込むようにすとんと尻もちをつく。バーナビーが怪訝そうな顔をして、い
ましがたバラ撒いた手紙を拾い、座り込んだ虎徹を引き起こした。
「……?疲れたんですか」
「だ、大丈夫だ。なんでもない」
なんというか…、うまく説明出来そうになかった。ただ、急に力が抜けたようになったのだ。
「今日は適当に元にもどしておくだけでいいから、後は明日にでもやりましょう」
ロイズはそう言って、オフィスのキーを取り出した。
追い出されるように部屋から出てきた虎徹は、鍵をするロイズの様子をじっと見つめていた。
気にはなったが、どうにもはっきりしない感覚でもどかしかった。
ただ、あの手紙の山がなにか不気味なものに思えたのは確かだった。
そして、翌日。
他のヒーロー達のファンレターを運び込んだトレーニングセンターで、再び事件は起こったの
である。
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