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鼓動の滴6

 

「うーん、どうやって説明したものかな?」
 あんまりの状況に目を回している弟に、あらゆる意味で非凡な兄は、あくまで落ち着
いた仕草でその頭を撫でてやった。
 どちらかというと硬い髪質の傑と違って、駆の髪はさらさらとまっすぐで猫毛である。
夢とはいえ、傑の手のひらに伝わる感触は現実と寸分の違いもない。
 そして駆が感じる兄の手のひらの感触もまた記憶のそれと同じだった。
 二人はなんとなく顔を見合わせた。
 たぶんお互い思ったことが伝わったのだろう。
 傑の指が、すこし名残惜しそうに弟の髪をさらりとひと撫でして、ゆっくりと離れて
いった。
「兄ちゃん…」
「心残りだったんだろうな。サッカーのこと、お前のこと……それで心が残ってしまっ
たのかもしれない。まさか、こんな風にはっきりとした意識として残るとは思わなかっ
たけど」
 そう言って、ははっと小さく笑う。
「気がついたら、ここに立っていた。ぽつんと一人ぼっちで…、それはあの悪夢を思い
起こさせて、ひどく恐ろしかった。でも、すぐにお前がやってきたんだ。始めのうちは、
まるでオレが見えてないみたいにサッカーをやっているだけで、話しかけてもなにも
答えてくれなくて…、それが何度か会ううちに、少しずつだが話してくれるようになっ
ていった。その頃のオレは、ここがなんなのか知らなかったし、考えることさえなかっ
た。今思えば、まだそこまでの思考能力がなかったのかもしれない。そもかく孤独なこ
の世界で、お前はオレにとって唯一の慰めだったんだ。だけどある日を境に、お前は突
然来なくなった……」
 そこまで聞いて、駆ははっとした。
 確かに、しばらく傑の夢を見なくなった時期がある。
 傑が死んだと聞かされた後だ。
「そして、オレにとってはずいぶん長い時間が過ぎ、久しぶりに現れたお前は、なぜか
笑うようになっていた。会話らしい会話ができるようになったのも確かその頃だ」
 たぶん、心臓移植を聞かされた後……
 託された傑の命を、ある意味受け入れたからかもしれない。
 つじつまは合う。
 でもつきつめれば全ては自分がそう思っているだけかもしれない……
「まだ疑ってるな?まあ、いいけどな。別にオレがオレであることなんて、オレが判って
いればいいことなんだから」
 また傑が、ワケのわからないことを言いだした。
 昔からなんでもできる兄を宇宙人みたいだと思ったが、今は違う意味で宇宙人に見えて
きた。
「でも、そうだな……なんなら、お前の知らない事を話してやろうか」
 もう、さっぱりついて行けてないけれど、兄がなにか思いついたことは間違いない。
 なんだかすごく楽しそうだ。
「な、なんでそんな…」
「オレがお前の知らないことを知っていたら、このオレはお前の想像の産物なんかじゃなく、
ちゃんとオレ個人なんだと証明できるだろう?」
 なんだかもう意味がわからない。
「これはオレが生前…、ん?なんか変な言い回しだな」
 兄は弟を置いてけぼりにして、さっさと始めた。
「あれは、二年くらい前だったか、あるテレビ番組で見たんだが……」
 それは、あるドキュメンタリー番組で、心臓移植を受けた患者が、ドナーの記憶を自分の
もののように感じるという体験談を特集したものだった。
心臓が記憶するという体験をもとに、いろいろな研究も数多く行われており、その中でも特
にある研究者の論文に興味深いものがあった。
 心臓の細胞は、記憶機関である脳細胞と酷似しており、その組織には間違いなく記憶する
機能が備わっているはずだというのだ。
 だから心臓は、それ単体でも記憶することが可能なのだという。

「その時は面白い話だなと思った程度で、まさか自分が体験する羽目になるとは夢にも思わ
なかったが、こうしてオレが存在するんだしな、あれは本当の事だったんだと、ちょっと感
動したってわけだ」
 うんうん、と一人で納得している兄に、駆はむしろ記憶機関が変わると性格まで変わって
しまうのだろうか、などと現実逃避するように的外れなことを考えていた。
 成長とともに距離を置くようになった駆は、兄の性格を実のところ正しく把握していなか
った。
 傑だってただの十五歳の少年なのだ、同級生や友人にはもっぱらこんな風だったことなど、
すっかり兄を偶像化していた弟には知る由もなかったのだ。
 結局その日は、現実世界の「目覚め」による意識の強制ダウンに救われるまで、駆はほと
んどリアルと変わらない鮮明な夢を見続けることになった。





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