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鼓動の滴5

 いつの間にか、夜が明けていた。
 カーテンの隙間から眩しい朝日が覗き込んでいる。
 駆は、窓辺へと歩いていき、窓を大きく開け放った。
 とにかく悲しかった昨夜が嘘のように、駆は清々しい気持ちで
朝日に顔を向ける。
 そして、ふと確認するように胸元を押さえた。
「おはよう、兄ちゃん」
 昨日の晩、久しく聞いてなかった兄の声を聞いた気がした。
 ここに兄がいる、と聞いたからだろうか?
 すると窓から入り込んだ風が、いたずらに机の上のノートのペ
ージを捲った。
 それが日記だと気がついて、悪いなとは思ったけれど、好奇心に
は勝てずぱらぱらと読み解いていった。
 そこに峰先生が言っていたように悪夢に悩まされていたらしい記
述を見つけ、傑が己の死を予感していたのではないかと彼女が語っ
たことを思い出した。
 そしてあの事故の日――
 意外なことに、日記の字は躍っていた。
 久しぶりに見たという、いい夢。
 それは、幼いころに二人で誓い合った夢が、まさに思い描いたまま
実現したという、傑の夢。
 ――いや、傑と駆の夢。
 ノートに綴られた傑の字の上に、ポトンと大粒の涙が落ちた。
 傑は忘れていなかった。
 ほんの子供の頃の、夢物語のような約束を。
 大人になってゆくにつれ、いろいろな壁にぶつかり、すっかり
諦めてしまった駆が忘れてしまった夢を……
 兄ちゃんは、待っていてくれたのに。
 僕は気がつかなかった。
 とっくに置いて行かれたのだと思っていたんだ。
 そう思う方が楽だったから……
 でも、そうじゃなかった。
 むしろ傑をピッチに置き去りにしたのは駆の方だった。
「もう逃げないよ」
 そんなことできない。
 約束どおり、今度こそ一緒にピッチに立つよ。
 無条件で信じて待っていてくれた兄が、今は自分の命になって
見守っていてくれる。
「サッカー続けるよ、兄ちゃん」
 逃げるな、と兄は言った。
 その言葉通り、サッカーを続けようと思う。
 本当の意味で、兄と誓い合ったあの夢は、二度と果たすことは
出来ないけれど……
 ワールドカップは二人の夢だから。
 駆の掌に、傑の心臓の鼓動が優しく伝わってきた。



 事故から一年が過ぎ、サッカー部に選手として復帰した。
 相変わらずレギュラーにはなれそうにもない。
 このままでは中学生最後の試合もゼッケンを貰えないだろう。
 結局のところ、それはひたすら逃げてきた今までの自分に対する
報いなのだ。
 生まれ変わったつもりで今日まで頑張ってきたが、一度失われた
信用はそう簡単に拭い去れるものではないということである。
 しかも練習を上級生に任せきりの監督には、まったく伝わってない。
 案の定、三年生にとっては負ければ最後になる公式試合にも、駆は
選手登録さえされないらしい。
 国松が、監督に進言したが素気無く却下された。
 理由はもちろん、弱点の左と、精神力の弱さ。
 肝心の場面で役に立たない、と言い切られた。
 頑固親父の頭は、想像以上に固かったのである。
 期待を込めて、陰からこっそり固唾をのんで見守っていた奈々は「あの
頑固おやじ〜」と今にも飛び出して行きそうな勢いだ。
 そんなとき、
「セブン、ボール取ってー」
 噂の当事者が、なんとも呑気な声で近づいてきた。
 コロコロと転がってくる罪のないボールに、奈々の八つ当たりが
炸裂した事は言うまでもない。
 見事なボールコントロールは、こんな時も遺憾なく発揮された。
 頑固親父の頭を、ものの見事に直撃する。
 そして恐ろしい形相で振り返った監督の目の前に、いかにもボールを
拾いに来た哀れな駆の姿があったのである。
 身に覚えのない痛烈な報復を受けて、駆にとってはまさに泣きっ面
に蜂のような事件であったが、この日を境に一年生の駆を見る目が変
わっていった。
 それは祐介のフォローのお陰だったが、監督以外のチームメイトに
駆が認められるきっかけとなったのである。



 その夜、グレイマスク=奈々が、自分と同じ高校に行くと言ってくれた。
 駆は、新たな気持ちでサッカーをするためにも鎌学を出ることをきめ
ていたのだ。
 奈々の真意は知らないが、ともかく新たな道への道連れが少なからず
好意を寄せている少女で、嬉しくないはずはなかった。
 なんだかとても幸先がいい。
 これで試合にも出られたらもっといいんだけど、
 などと、調子のいいことを思いながら、単純な駆はとても上機嫌になった。
 実はこの頃から、駆は再び傑の声を聞くようになっていた。
 入院していた頃よりも、それはずっと確信に近い感覚となって……
 夢の中ではもちろん、最近では白昼夢のように不意に傑の声を聞く
ときがある。
 とは言っても、それははっきりとした言葉というより、ぼんやりと
そう感じているんだな、とわかる程度のものだ。
 あきらかに自分なら考えないようなことを、ふと思ったり考えたり
することがある。
 はじめはよくわからなかったが、それがもしかしたら傑が感じている
のではないかと思ったのだ。
 事故の後、駆の体調に神経質になっている両親に、こんなことが言える
筈もなく、カウンセラーの峰にさえ打ち明けていない。
 日ごとはっきりしてくる兄の意識。
 しかし、始めの頃こそ混乱していた駆だが、元来の大雑把な性格が幸い
してかそれほど深刻には受け止めてはいなかった。
 夢で逢う傑はいつも穏やかで、意識で触れる兄の思考はどこまでも
駆に優しかった。
 はっきり言うと、駆も本当の意味で傑の存在を信じていたわけでは
なかったのかもしれない。
 ただ、肉体の一部を共有しているのだから、そんなこともあるのかも
しれないな、と勝手に解釈していただけだった。
 けれど、運命の日は唐突にやってきたのである。
 いつものように、駆は傑の夢を見ていた。
 とりとめのない会話や、小さな頃の思い出話し。
 起きたら、そのほとんどを忘れてしまうようなぼんやりとした、いつもの夢。
 だが、今日は様子が違った。
 はっきりとわかる。
 これは夢だと。
 駆は、夢の中で自分が夢の中にいる事を確信した。
 確認するように、掌をひらひらと動かしてみる。
 夢だとわかっていてもちゃんと体があるように感じた。
 どうやら夢の中でまでサッカーのユニフォームを着ているようだ。
 ゼッケンを貰ってないところまでリアルな演出だ。
 思わず苦笑していると、
「駆!」
 と、よく知った声が、自分の名前を呼んだ。
 もう、随分と聞いてない…、オレを呼ぶ声。
 姿を確認するまでもない。
 一気に目頭が熱くなる。
「に、兄ちゃ…ん?」
 つぎつぎに溢れる涙でぼやける視界。
 そこには間違いようのない人物が立っていた。
「なんて顔してんだ、お前は。
 だいたい、なんでいきなり泣いてるんだよ?」
 当たり前のように兄の顔がそこにあった。
 予想通りいつものユニフォーム姿だ。
 しかも十番のゼッケンが燦然と輝いている。
「だって、だって…久しぶりで、オレ」
「久しぶり?ああ、やっぱりそうか!」
「…え?」
「そうだと思った、お前、ずっとはっきりと意識がなかったんだな?」
 納得したとばかりの兄に、駆はワケもわからず呆然とする。
「意識?なんのこと」
「今までだよ、オレ達ずっと前から会ってるだぜ?」
「や、うん、兄ちゃんに会ってたような気はするけど、
 でもこんな風に話したのは初めてだから……」
「初めてなものか。オレは最初から普通に会話してたぞ。なのにお前
ときたら、時々トンチンカンなことを言い出してきたりしてな、絶対
に寝ぼけてるなあとは思ってたけど」
 楽しそうに笑う傑に、まるで鳩が豆鉄砲でも食らったかのように、駆は
その様子を凝視していた。
「なんだ?またそんな顔をして」
「いや、なんか……これって夢だよね?めちゃくちゃはっきりしてて、
なんというかすごく変な感じ。本当に兄ちゃんと話ししてるみたいだ」
「おいおい、まだ寝てるのか?あ、そうか実際には寝てるんだったか。って、
そうじゃなくて、お前は正真正銘オレと話しをしてるんだよ」
 んー、どうやって話すべきか、と前置きをして傑が続ける。
「ま、オレもまだ信じられないんだが、こうしてオレの…、逢沢傑の意識は
ちゃんとお前の中に存在するんだ」
「オレ……」
「ん?」
「オレ、頭がおかしくなったかも」
「……駆?」
「兄ちゃんが、自分が兄ちゃんだって言ってる」
 これって、オレの想像?夢だから、願望?
 とかなんとか言いながら、駆はオタオタと動揺している。
 そりゃ、オレの中に兄ちゃんの心臓があるんだから、兄ちゃんの僅かな
意識や気持ちの欠片みたいなものを受け継いでも、ちっともおかしいこと
じゃない。
 でも、これは違うよね?
 欠片どころか、意識の本体だもん、親玉だよーっ
 これを現実として受け止めるには、駆はとても平凡でありすぎた。
「そうか、夢だ!」
 ぽん、と手を叩く。
「ね、兄ちゃん!これ夢だったよ、そういえば」
「まあ、これは確かに夢だけどな」
 じたばたと往生際悪く現実逃避しようとする弟を、傑はしばらく観察
したあと、にーっこりと笑った。
 世間一般には、普通の微笑みにしか見えなかったかもしれない。
 けれど駆は知っていた。
 この兄の顔は、とてつもなく状況を楽しんでいる時の笑顔だった。
 自分の夢な筈なのに、
 駆には兄が何を考えているのか、まったくもってわからなかった。


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