
鼓動の滴4
駆は何度も瞬きして、
そこに立つ人物を凝視した。
混乱を通り越して、一瞬パニックになる。
今までのことは壮大な夢だったのか?とまで考えたが、
一部残っていた冷静な思考が、あれは兄の変装ではなかった
のかもしれないという回答をなんとか絞り出した。
混乱が去ると、怒りがこみ上げてくる。
どこの誰だと誰何する駆に構わず、
グレイマスクはあの挑発的な態度で勝負を誘う。
そして、駆は不思議な体験をすることになった。
苦手なはずの”左”で、グレイマスクを圧倒したのである。
グレイマスクの正体は、果たして幼馴染の奈々だった。
駆がセブンと呼ぶ少女である。
なぜ彼女がこんなにサッカーがうまいのか、
それを聞くことはできなかったが、彼女は駆に衝撃的な事実を告げた。
心臓に致命的な損傷をうけたにも関わらず、奇跡的に助かったのは心臓
移植を受けたからだと、彼女は静かに語った。
移植……
臓器移植、むろん言葉は知っている。
けれど、それが自分に関係するなどと考えたこともなかった。
では、この胸にあるのは?
「心臓の提供者は、傑さんなのよ」
「……え?」
間髪いれず出された回答に、駆は文字通り言葉を失った。
永遠に失われたと思った兄が、こんなにも近くで脈打っていたなど、想像
を絶する事態だった。
それがどういうことなのか、すぐには理解できなかった。
駆が頭の中でぐるぐるしていると、その混乱を知らない奈々はさらに先を
続けた。
「だから駆忘れないで、
ここに入っているのは傑さんの心臓だけじゃない。
あの人が果たせなかった夢も一緒に詰まってる……」
駆はのろのろと顔を上げた。
まだ思考はついてきてはいなかった。
ただ、奈々の言葉がそのまま言葉として頭に入ってくる。
「だから駆は、決してサッカーを諦めたりしちゃダメ!」
とっさに駆は走り出していた。
頭はまだ混乱している。
だけど、もう立っていられなかった。
聞いていられなかった。
奈々の静止の声を振り切って、駆は闇雲に足を動かしていた。
とにかく、今はゆっくり考えたかった。
これ以上何か聞いたら、意味もなく叫び出しそうだった。
どうやって家まで帰ってきたか覚えていない。
ともすればめちゃくちゃになりそうな思考を、
ただ懸命に抑えつけて玄関の扉に縋りついた。
心臓が早鐘のように響く。
母親の声が聞こえた気がしたが、今の駆には何を答えることもできなかった。
傑の部屋に飛び込み、一人になってみると今度は涙がこみ上げてきた。
心配する両親の気遣いさえも、今は受け入れる余裕がない。
ふと見上げると、
部屋に飾られている写真には幼いころの自分と兄が屈託なく笑っていて、なぜか
無性に哀しかった。
一人になれば少しは冷静に考えをまとめられると思っていたのに、次から次へと
幼いころの思い出ばかりが蘇ってきて、涙ばかりが積もってゆく。
考えてみれば兄が亡くなってから、あまり一人で静かな時間を過ごした記憶がない。
たぶん、まわりが気をつかっていたのだろう。
そして自分自身、
無意識に兄の事を考えまいと努めていたに違いない。
こんなにもすぐ近くに…、いてくれたのに。
駆は、兄の死を受け入れたというより、忘れようとしていたのだ。
それは幼い頃の思い出ごと、失うということなのに……
それこそが本当の喪失なのだと、駆はようやく気がついた。
傑は、いつも弟を大切に想っていた。
思えばどんな時でも味方だった。
ときに厳しく接することだって、結局は駆のことを思ってのことなのだ。
以前、サッカー部の先輩たちが口を揃えて傑は弟に甘い、と愚痴をこぼし
ていたが、当時そんなことは絶対ないと思っていた。
実際、部活の際に私情を挟んだことはないし、贔屓にするとかでもない。
ただ傑の極度のブラコン説は、実は同級生の仲間連中にはとても有名なこ
とだったらしい。
駆には、未だに信じられないが。
いつしか憧れの偶像になってしまった兄の、
ただの生身の人間としての面をあれこれ思い返すにつれ、
かけがえのない肉親を失ったのだという現実が、じわじわと心を押しつぶしてゆく。
身を引き裂かれるほどの悲しみが、どうしようもなく込み上げてきた。
「兄ちゃん…!」
傑のベッドにうつ伏せたまま、白いシーツに泣き濡れた顔をひたすら押し付
け、駆の背中は暗闇の中でいつまでも嗚咽に震えていたのだった。
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