エリキシトップへ

鼓動の滴7

 
 唐突に目を開けた駆は、驚いたことに夢の中の出来事を嘘のように覚えていた。
 確かに、夢の中で傑が語ったことは思いもよらないことばかりで、駆が絶対に知らない
ことだった。
 傑の言うことが本当なら、それは傑が傑たる証拠らしい。
「なんかもう……」
 いろんなことが一度にありすぎて頭がパンク状態だった。
 今日はこれから試合なのに。
 まあ、出られるわけじゃないけどさ……
 ――そんな弱気でどうする!
「ぎゃあっ?!」
 頭を押さえてなんとも言えない悲鳴をあげる。
 ――大きな声を出すな、ほら母さんが驚いて飛んでくるぞ。
 妙に的確な忠告の通り、すぐに母親が慌てて部屋に飛び込んで来た。
「頭の中でっ…!」
 とっさに駆は、頭の中で声がするっ!と叫びそうになって、慌てて口を押さえた。
 これでは危ない人、決定だ。
「ご、ごめん。なんでもない!寝ぼけてベッドから落ちそうになって」
 陳腐な言い訳だったが、なんとか言いくるめて母親を部屋から押しだした。
 心配性の母親にこれ以上追及されたら面倒この上もない。
「……に、兄ちゃん?」
 ――ん?
 がくり、と駆は肩を落とした。
 なにこれ、何の冗談?
 それともこれって夢なわけ?あるいは…、夢が本当だったってことか。
 ――それ正解!すごいな駆。
 ぜんぜん嬉しくない。
 ――なんだよ、兄ちゃんに会えて嬉しくないのか?
「ってか、会えてないし……もうっ!そういうことじゃないってば」
 夢の中で傑に再会した時は、無条件で嬉しかった。
 けれど、この状況を単純に喜べる人はいるとしたら、それはかなり特殊な人物だと思う。
 どちらかといえば霊体験に近いかもしれない。一つの身体に、二つの個体が入り込んだ
ようなものだ。
 そうこうしているうちに、奈々が迎えに来てしまったようだ。
 中学最後の試合の日がついにやってきたのだ。
 どんなに非現実的なことが起ころうと、現実はもちろん待ってなどくれない。
 慌てて支度を済ませると、バックをひったくるようにして身だしなみもそこそこに玄関
へと急いだ。
 ――髪ぐらい梳かないか。だから、いつもあと十分早く起きろと言っているだろう。
 御説ごもっともだが、今日だけは言われたくなかった。
 とても構っていられないので、あえて無視して奈々の元へと走っていく。
 駆がシカトを決めたので、傑は更に頭の中で何事か言っていたが、それははっきりとし
た言葉として届かなかった。
 どうやら意識を外に向けると、傑の意識はある程度フェイドアウトするようである。
 ボリュームを絞ったように、スーッと存在が遠くなった。
 正直少しホッとした。
 傑には悪いが、そうでもなければうるさくて仕方がない。
 口喧しい小姑が、常に頭の中に居るようなものである。
「ちょっと、なにぼーっとしてんのよ。今日は試合だよ、
ベンチ入りじゃないからって遅刻はダメだよ」
 気を逸らしたのを目ざとく察した奈々が、急かすように駆の腕をぐいぐいと引っ張った。
 まだ早いから大丈夫なんじゃないかと指摘すると、奈々はこちらの気も知らないでとん
でもないことを提案した。
 傑の墓参りに行こうというのだ。
 何もなかったなら、別にそれはなんということもなかったのかもしれない。けれど、今
の駆にはひどくいたたまれないような、そんな落ち付かない気分になってしまう。
 なにしろ、本人はここにいるのだ。
 ごめんね、セブン。うちの兄貴は大人しく墓の下になど入っていませんでした。思わず
心の中で奈々に謝ってしまう駆だった。
「駆にとって、中学サッカーで公式戦に出場する最後のチャンスかも知れないのよ。だか
ら傑さんにお願いするの、チャンスをくださいって」
 そう言って奈々は瞳を輝かせたが、駆はとっさに「きっと無理」と口走りそうになった。
 はっきりいって天国になどいない傑に、そんな人外な芸当ができようはずもない。
 もし天国の住人にそれができるとして、だが。
 

 二人は傑の墓前で手を合わせた。
 そして奈々は、ふいに顔をあげると真剣な目になって驚くべき事実を明かした。
 ベンチ入りさえしていない駆が、監督には内緒で選手登録されているというのだ。
 だから、出場するチャンスがあるのだと。
 瞬間、心臓がどくん、と跳ね上がった。
 声は聞こえなかったが、まるで後押しするように力強い鼓動が体中に響いた。
 そんな時、意外な人物がその場に現れた。
 それは奈々が仕組んだサプライズだったが、その偶然の出会いに驚いていたのは実は
駆だけではなかった。
 今度こそ心臓がうるさいくらいに高鳴った。
 その感情の起伏が、自分のものでないと駆にははっきりとわかった。
 彼のことを知らないわけではない。
 けれど彼に対して、駆ならこんな反応はしない。
 気持ちが昂ぶっているのがわかった。目と目が合い、そして握手を交わした瞬間、
ひどく懐かしいような不思議な感覚が駆を襲った。
 それと同時に期待のような不思議な高揚感。
 敢えて言うならわくわくするような感じ、だろうか。
 彼の名は、レオナルド・ジルバ。
 ブラジルの若き至宝である。駆が思わずサインを求めてしまうほどの有名人だ。
 駆にとっては雲の上の人物。
 憧れの対象になりこそすれ、こういう気持ちになるとは思えない。
 だから、これは間違いなく傑の感情。
 本当に力を認め合ったライバルにこそ感じる想いだった。
 駆は、拳を握る。
 素直に悔しいと思った。
 彼らのような邂逅は、駆にはまだ望むべくもない。


 傑の墓の前で、彼は真剣に手を合わせていた。
 その後ろ姿から目が離せなかった。
 それを見つめる瞳には、普段の駆には似つかわしくない昏い光が宿っていた。
 臓器移植のトラウマの一つで、ドナーの命を奪って己が生きることを後ろめたく思う
人がいるというが、駆とてそういう感情と無縁でいられるはずもなかった。
 兄の死を惜しむ人を見る度、どうしょうもない罪悪感を覚えてしまう。
「オレ、今から試合なんです。中学サッカーなんですけど、み…観に来ませんか?」
 いきなり言葉が口をついて出た。
 ……は?
 な、なに、オレ何をっ?
 ちょっとっ、なに言っちゃってくれてるの?絶対、これオレじゃないっ!
 にっ、兄ちゃんっ?!
 胸倉掴んで問いただしてやりたいが、むろんそんなことは出来ないし、己の口から出た
以上、これってばオレじゃないから!なんて戯言は通じない。
 立ち去るジルバを呆然と見送り、あたふたとセブンに泣きつくことしかできなかった。
 まったくロクなことしないっ!
 と、駆は大パニックに陥ったが、凹みかけていた気分が吹っ飛んでいたことに、
本人はまったく気がついていなかった。
 ――やれやれ。
 どこかほっとしたような声が、二人の少年少女の声に紛れて、
その鼓動と共にこっそり呟いていた。



NEXT/BACK

HPTOPへ