2020.04.24 UP
「二千六百年史抄」
青空文庫
菊池寛

その1 「序」と本編冒頭の「神武天皇の御創業」について


 青空文庫は新たに菊池寛さんの「二千六百年史抄」を読み始めたのだが、運動に出かけた八木山の山頂から、晴天に輝く尾張の国の遠景を見てしまい「桶狭間合戦」に決心変更したことは前編に書いた。その後、HTMLフォーマットを久々に思い出しながら、このHPに整理しつつ、また「二千六百年史抄」に戻った。

 短い文章に、簡潔に、二千六百年の日本の歴史が螺鈿(らでん)のように鏤められ、その螺鈿と螺鈿のつながりがよくわかる。螺鈿とはエッポックメイキング、即ち新時代を切り開くような事件事象の断片であり、それが連綿と繋がり歴史を紡ぐ。

 勢い事件事象に目を奪われ、紡がれた時間の意志を見忘れる癖があり、このような通史はうれしい。

 渡部昇一さんの通史も、最近では百田尚樹さんの通史も、興味深く読ませてもらった。

 菊池寛さんの「二千六百年史抄」(以下本書と云う)は恐らく最も短く、日本の紡がれた二千六百年の時の意味に想いを致すことのできる、日本の通史だろう。  

 本書は「序」を含め、二十五に区切られている。普通それは章立てと云うのだろうが、特にそのような特記はないが、仮に章としておく。その25区分を、それぞれスプレッドシートにキーワードや菊地氏の特記すべき想いなどをメモしながら読んだ。
章番号 章の表題 本書の行数
1 31
2 神武天皇の御創業 103
3 皇威の海外発展と支那文化の伝来 105
4 氏族制度と祭政一致 44
5 聖徳太子と中大兄皇子 168
6 奈良時代の文化と仏教 125
7 平安時代 133
8 院政と武士の擡頭 140
9 鎌倉幕府と元寇 112
10 建武中興 116
11 吉野時代 153
12 足利時代と海外発展 141
13 戦国時代 142
14 信長、秀吉、家康 223
15 鎖国 124
16 江戸幕府の構成 94
17 尊皇思想の勃興 161
18 国学の興隆 114
19 江戸幕府の衰亡 70
20 勤皇思想の勃興 217
21 勤皇思想の勃興 152
22 明治維新と国体観念 134
23 廃藩置県と征韓論 278
24 立憲政治 70
25 日露戦争以後 91
1 本書の「序」に菊池寛さんは、
『今年の初、内閣情報部から発行してゐる「週報」から、最も簡単な日本歴史を書いてくれとの註文を受けた。多くの史学者に頼まず、僕を選んだのは、なるべく大衆に読ませようとの意図からであらう。二千六百年間の出来事を原稿紙にして、わづか百五六十枚で、まとめることは至難中の至難である。「二千六百年史抄」の本願とするところも、勿論国体を明徴にし、日本精神を発揚するところにありと思つたから、その点に微力を尽くした。昭和十五年七月廿八日』

と記している。日付から皇紀二千六百年に刊行されたことが分かる。菊池寛氏のことは文藝春秋の創刊者であることぐらいしか知らなかったが、敗戦後公職追放処分も受けていた。「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤ったらしい。

 注文元の内閣情報部は、国策遂行の基本的事項に関する情報収集や広報宣伝、出版統制、報道・芸能への指導取締の強化を目的として設立された内閣直属機関であり、昭和十五年の内閣の想いが感ぜられる。現代なら差し詰め百田尚樹さんに委嘱しただろうか。

 百田尚樹さんの「日本国紀」は、現代日本を憂いて自ら筆を執られたのだと思うが、菊地氏も元々『二千六百年を記念する意味で、「新日本外史」といふ小著を執筆中であつたので、「週報」からの依頼も、喜んで引き受けた』と云うことであり、官の依頼がなければ、もっと長編の通史が生まれていただろう。

 上の表で、菊地氏がどのように二千六百年を区分けし、それぞれの区分けにどれだけ筆を費やしたかを示した。
2 「神武天皇の御創業」
 皇孫(ママ)彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)の神勅(しんちょく;神の与えた命令、またその文書)を奉じ(ほうじ;謹んで承ること)日向の高千穂に降臨され、御三代の後、神武天皇の御世に東方によき国あり(原文では、東に美地有り、青山四周・・・と続く)と、所謂「神武の東征」と云う言葉を使わず、当方へ御進発、当方への御発展と書いている。
 その過程で、吉備高島(岡山)に八年御滞在し大和に向かう。大和上陸したが長髄彦(ながすねびこ)等の反攻に苦戦し、神武の長兄の五瀬命(いつせのみこと)は矢に射られ絶命するなど、日向以来の多くの武士を失われた。

 このため紀州の南端迂回し大和に入るべく航海中、颶風(ぐふう;暴風)に神武の次の兄、稲飯命(いなひのみこと)と三毛入野命(みけいりのみこと)をまた失う。

 稲飯命は「あゝ、わが父祖は天神、わが母は海神であるのに、何故にかくも我を陸でも苦しめ、海でも苦しめるのであるか」と仰せられて、剣を抜き持ちて海中に入り給うた、とある。

 紀州の熊野からの北進経路は以前訪ねたことがある。神武軍が熊野上陸の痕跡は神社の形で今日に伝えられている。那智の滝にある飛龍神社、熊野那智大社、御縣彦社。
 御縣彦社では八咫烏(有力な地元豪族なのであろう)が顕れ神武軍を先導することになる。

  

 八咫烏の先導を受けこの地を出た神武軍は北進する。やはり神社に残る痕跡だが、まず熊野速玉大社、熊野本宮大社、そして玉置(たまき)神社だ。玉置では兵を休め「十種神宝(とくさのかんだから)」の「玉」を鎮め(置き)武運を祈願された、それが玉置(たまき)の名前の由来と云う。

 十種神宝イメージのレプリカ、玉置神社



玉置神社から至り来た南方を望む
 ようやくたどり着いた大和。そこには「頑敵たる長髄彦を初め、八十梟帥、磯城賊、猾賊、土蜘蛛など、兇悪な蛮賊が到る処に、皇軍を待つてゐた」が、神武軍は漸くにしてこれを征服した。

 その征服の形態について菊池寛氏は、

「帰服(まつろ)はぬ者こそ、平定したが、天つ神の子孫が、この中つ国を支配すべき名分を信じて帰順したものには、最大の仁慈を垂れたまうたやうである。 たとへば、天皇は帰順した弟猾(おとうかし)の献策を用ゐさせ給ふばかりでなく、股肱の臣たる椎根津彦(しひねつひこ)と一しよに、香具山(かぐやま)に潜行して、その土を取ると云ふ大役を命じ給うて居られるのである。 論功行賞に際しても、さうした降臣をも、日向以来の重臣と同様に、県主(あがたぬし)などに為したまうてゐるのである。

 大和地方を悉く平定せられた後、神武天皇の詔を下される。
 夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随(したが)ふ。苟(いやしくも)も民に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且(ま)た当(まさ)に山林(やま)を披払(ひらきはら)ひ宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、恭(つつし)みて宝位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮(しず)むべし。上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養ひたまひし心(みこころ)を弘めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦可(よ)からずや。夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原(かしはら)の地(ところ)を観れば、蓋し国の墺区(もなか)ならむ、可治之(みやこつくるべし)。
 かくて「辛酉春正月朔日、橿原宮に即位し給ふ。此の年を日本の紀元とする」ことになる。
 これはグレゴリオ暦でBC660年のことだから、今年同暦2020年だから660を加えて、日本は紀元2680年となる。

 この即位式に
「大伴(おおとも)氏、久米(くめ)氏、物部(もののべ)氏の祖は、矛(ほこ)を執つて、儀衛に任じ、
 斎部(いむべ)氏、中臣(なかとみ)氏の祖*は、恭々しく御前に進み出て、祝詞を言上し奉つてゐる。

 いづれも、日向以来歴戦の艱苦を顔に刻みつけた戦場生き残りの士であり、その盛儀に列した感慨は、どんなであつたであらうか。」 とこれも菊池寛氏の本文から。
*それぞれ氏の祖は
   大伴氏は、道臣命(みちのおみのみこと)。
   久米氏は、大久米命。
   物部氏は、可美真手命(うましまでのみこと)。
   斎部氏は、天富命(あまのとみのみこと)。
   中臣氏は、天種子命(あまのたねこのみこと)。
つづく

 

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おわり
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