2020.04.13 facebook_UP
「厳島合戦」
青空文庫
菊池寛


 図書館に行けないものだから、以前あまり近寄らなかった青空文庫を散策中。青空文庫は著作権の切れた作品を電子書籍化したもので、もちろん無料です。

 で、今日は菊池寛の「厳島合戦」。同合戦に至る背景はざっとネットでサーフィンしつつ。陶晴賢(すえはるかた)も、毛利元就もその後拠となり、また転戦した地域はほとんど訪れているし、合戦の現場厳島は3年前に、毛利軍の山中接敵経路を含め歩き回ったこともあり、さらにはその記憶を補完するGoogleEarthの援護もあり、正面ディスプレイに青空文庫、右ディスプレイにGoogleEartなどの参考画面を置き、リアルな追体験的な物語として読み進めた。

 また物語だけでなく菊池寛氏の文体や知らない語彙形容にも洗礼を受けた。

陶晴賢は防、長、豊、筑四州からなる二万、一方毛利は芸州半国に満たぬ吉田(現安芸高田市)の三千五百である。陶軍は厳島に大軍を上陸させ毛利築城の要害山宮尾城に対峙する。毛利主力は厳島の対岸、火立岩にある。

 岩国城主弘中三河守は陶晴賢に直ちに攻城することを具申するが月のない朔日(旧暦の一日はかならず新月)を譲らない。その月のない朔日に元就は鼓の浦(現包ヶ浦)に上陸し、使用した舟は本土に戻す。背水の陣だ。そして博奕尾の山中を突破し塔の岡に布陣する陶軍の後背から突撃する。
  毛利軍は鼓の浦(現包ヶ浦)に上陸し、使用した舟は本土に戻す。背水の陣だ。そして博奕尾の山中を突破し塔の岡に布陣する陶軍の後背から突撃する。ここは博奕尾の下り斜面。
 

 大軍の陶軍は崩れ多くは軍舟で矢代島(現屋代島)への逃亡を図る。毛利に組した村上水軍がそれに襲い掛かる。晴賢は毛利の工作で寝返ったと騙されていた、岩国の主弘中三河守等に守られ西方の大元浦から大江浦(現多々良潟)に逃れようとする。

 弘中は大聖院から竜ヶ馬場の隘地に兵を入れ、大元浦に追撃する毛利軍を横撃し、毛利軍に窮地に陥れるが、毛利の援軍に阻止され弘中等は竜ヶ馬場で自刃する。もはや味方周りにおらず、陶晴賢は大江浦から山中に入り自害した。

 火立岩集結地における毛利の軍令である。

一、差物の儀無益にて候。

一、侍は縄しめ襷(たすき)、足軽は常の縄襷仕(つかま)るべく候事。

一、惣人数共に常に申聞候、白布にて鉢巻仕るべく候。

一、朝食、焼飯にて仕り候て、梅干相添申、先ず梅干を先へ給候て、後に焼飯給申すべく候。

一、山坂にて候条、水入腰に付申し候事。

一、一切声高仕り候者これあらば、きっと成敗仕るべき候。

一、合言葉、「勝つか」とかけるべく候、「勝勝」と答え申す可く候。

一、一夜陣の儀に候条、乗衆の兵糧つみ申すまじく候事。

 なかなか簡潔で要を得た命令だ。

 寡兵で大軍とまみえざるを得ない毛利軍。平地で会戦すれば勝利はおぼつかない。陶晴賢軍を厳島に進軍させ、その狭隘地で雌雄を決する。毛利元就は情報戦を仕掛けた。晴賢はそれに乗せられてしまったのだ。哀れ最後まで忠義を果たした岩国城主弘中三河守は、戦いの前から晴賢に疑念をもたれていたのだった。

 晴賢は相当にメタボであったようだ。晴賢が陣を張っていた塔の岡から大江浦まで山は険しく海岸沿いに逃げたであろう。海岸線をたどってもたったの2.5kmである。そこから山中に入り自害したのだった。

 なにを惜しみなにをうらみむもとよりも
   此の有様の定まれる身に

 陶晴賢の辞世である。

 毛利元就は神の島をこれ以上汚さないと、全ての遺体を対岸の本土に運び、晴賢の首も敬意をもって扱い、廿日市の洞雲寺に葬った。

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https://drive.google.com/open?id=15uz9XFtUhPOqpVgduVCJ2pdXlM5l37YF


おわり
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