oil offensive 2

             ここでPloseti攻撃に戻ります。Ploestiに対しては1943年8月1日に
             Tidal waveと呼ばれる英雄的な作戦が実行されました。しかし8ヶ月
             後の1944年4月5日に第15空軍によって実施されたPloestiに対する
             爆撃は戦法が大きく違なりました。
             下の表に整理します。


  発進基地 片道飛行距離 重爆機数 目標精油所数 総投弾量 1機当り投弾量 1目標当り投弾量 爆撃高度 損害
43/8/1作戦 アフリカBengazi周辺 約1600km 179機  9箇所 280ton 1.6ton 31ton 数十m 41機
44/4/5作戦 イタリアFoggia周辺 約900km 230機  1箇所 558ton 2.4ton 558ton 6500m 5機


             43/8/1作戦は超低空からの精密爆撃によりPloestiの精油能力の
             90%を一気に破壊する戦法でしたが、実施直前まで、大きな犠牲が
             予想できたこの方法を選択するべきかどうかの検討が続きました。
             1600kmを飛行した後にドイツ軍の弾幕に低空で飛び込む戦法は大胆
             と言わざるを得ません。

             作戦の結果、精油施設を有る程度破壊することはできたものの、
             その後のドイツ軍の作戦行動に影響を与えたかどうかは判明しま
             せんでした。

             爆撃後の検討で、精油所に対する戦法としては有る面積の施設を全て
             破壊する方法が、復旧を妨げるために大規模反復攻撃が有効と判断さ             れ、44/4/5に結局従来通りの高空爆撃に戻った格好です。

             表で分かるように1目標あたりの投弾量は18倍ですが、6月迄に
             大規模精油所に対して4回から5回の攻撃が反復されました。
             またドイツ国内の人造石油精製施設に対しても同様の方法が
             採用されました。Tidal waveは、後の作戦行動を決定する為の大き
             な役割を果たしたと言えます。
             1943年の12月からはMussolini政権の崩壊に伴い中部イタリア
             Foggiaの空軍基地が使用可能になっていた為、乗務員の負担が軽減
             し、更に1機あたりの爆弾搭載量が増加した事も44年の爆撃の成功
             を助けています。護衛戦闘機に関してはP51が配備が始まった直後の
             訓練段階であり、この時は未だ爆撃機の単独攻撃でしたが4月21日
             のPloesti攻撃から随行が始まりました。

             ここでドイツ側の防空体制を見てみましょう。この地域の防空はド
             イツ側も重視していて、1943年6月からLfl4の下にルーマニア地区
             防空専任のJagdfliegerfuehrer Rumaenien(JaFue Rumaenien)を
             設置しました。43年8月1日の時点では実働部隊として、Ploesti
             東方約50kmのMizilにI./JG4が、さらにBucharest北郊外のOtopeniに
             IV/NJG6が展開して、この日の攻撃に対してはそれぞれ12機、3機の
             戦果を上げています。
             その後、地域の担当部隊変更が有り、I./JG4は1943年11月末に
             引き抜かれて(最終配属地は北イタリア)代ってIII./JG77がMizil
             に配置されます。更に1944年2月にJaFue Rumaenienは
             Luftwaffenkommando Suedost(LwKo SO)に所属するJaFue Balkan
             に改組されて、バルカン半島全域を管轄することになり新たに
             II./JG51(在Belgrad:現在Selbia)とII./JG301(時期に疑問が
             残っていますが)が指揮下に入りました。
             4月5日に米第15空軍はPloesti以外にLeskovac(当時のYugoslavia)
             にも爆撃を行っており、これらの部隊が迎撃の結果、Lwの記録では、
             バルカン半島全域で34機の四発爆撃機を撃墜したことになっていま
             す。
             (細かい話ですがTidal waveの時点でJaFue RumaenienがLfl4では
             無くLwKo SOに所属していたと言う説明もあります。私見では、
             LwKo SOは当時アフリカ、地中海戦線で活動していたFliegerkorp X.
             を基に1943年1月1日に正式編成されていますが、当初はルーマニア
             まで担当地域を広げることは無かったと考えています)

             1944年4月1日のドイツ単座戦闘機の配置は以下の通りです

             
ドイツ本国防空  850機
北フランス、オランダ、ベルギー  135機
ノルウェー   30機
イタリー戦線  145機
東部戦線  515機
 合計 1675機


             表のほかに110機の昼間双発戦闘機と500機の夜間戦闘機が本土防空
             に加わります。
             既に北フランスへ連合軍の侵攻が予期されていましたが、それ
             に対する準備を差し置いても本国防空に大きな戦力が割かれている
             事が分かります。更に5月迄にイタリー戦線からの引き抜きと
             Jaegerstabの成功に伴う機数の増加で戦力は一層強化されました。

             この時点でドイツは既にオランダ上空での外郭防衛を断念して、
             戦闘機部隊を引き上げており、1944年4月からは本土を以下の
             三つの地域に分けて、担当divがそれぞれの地域の制空権の確保する
             事になっていました。

             1.Jagd-Division:Berlinおよび中央ドイツ
             3.Jagd-Division:Frankfurt及び、西ドイツの工業地帯
             7.Jagd-Division:北Bavaria
             
             2.Jagd-Division:主に夜間戦闘担当

             5月12日時点での各Jagd-divへの部隊配備状況は下の表をご覧下さ
             い。
             この配備は防空戦力が分割されて、有効でなかったとして戦後
             議論の対象となりました。戦力を一つにまとめて、一部の爆撃機
             部隊を集中攻撃した方が、撃墜機数が増えたのではないかと言うの
             が批判の理由です。
             しかし戦後の尋問でGallandは、実際には離陸した戦闘機隊は、
             その時の状況に応じた地上からの命令で、柔軟に効果的な攻撃対象
             を選んだと述べており、何れが良かったかは簡単に結論が出ない
             問題です。
             彼は本当の問題は、昼間戦闘機を指揮するためのレーダー網が
             夜間戦闘機部隊と共用だった為に、規模の大きな編隊の指揮に
             適していなかった事だと指摘しています。

             1.Jagd-Division

stab/JG1 Lippspringe
 I./JG1 Lippspringe
 II./JG1 Stoermede
III./JG1 Paderborn
 stab/JG3
Salzwedel
  I./JG3 Burg beim Magdeburg
 II./JG3 Gardelegen
 IV./JG3 Salzwedel
III./JG27 Goetzendorf
stab/JG302 Doeberitz
I./JG302 Wien-Seyring
II./JG302 Ludwigslust
III./JG302 Voelkenrode
 I./ZG26 Gabbert
II./ZG26 Koenigsberg-Devau


             2.Jagd-Division

stab/JG11 Oldenburg
 I./JG11 Rotenburg
II./JG11 Hustedt
III./JG11 Oldenburg
10./JG11 Aalborg


             3.Jagd-Division

II./JG27 Wiesbaden-Erbenheim
II./JG53 Frankfurt-Esscborn
stab/JG300 Deelen-Arnhem
I./JG300 Bonn-Hangelar
II./JG300 Dortmunt-Braekel
III./JG300 Wiesbaden-Erbenheim


             7.Jagd-Division

III./JG3 Bad Woerishofen
I./JG5 Herzogenaurach
Stab/JG27 Fels am Wagram
I./JG27 Fels am Wagram
III./JG27 Wien-Goetzendorf
IV./JG27 Steinamanger
III./JG54 Landau-am-der-Isar
stab/JG301 Schleisheim
I./JG301 Holzkirchen
III./JG301 Gross Sachsenheim
II./ZG1 Wels
III./ZG26 Leibheim
I./ZG76 Prag-Gbell & Prag-Rusin
II./ZG76 Prag-Gbell & Prag-Rusin


             (余分なことですが地名の頭にBadとあるのは湯治場を意味して
             おり日本で言う温泉が出る場所です。行って見たいですね)

             旧30JD系のstabがJagd-Division本部近くに配置されています。
             これらはelite部隊として扱われていたのでしょうか

             当時ドイツは月産約19万tonの航空燃料を生産していましたが
             この内の90%を受け持っていたBelgius法による人造石油工場への、
             攻撃はLuftwaffeの活動の死命を制するものでした。
             このような状況下で遂にLeibzig付近及びCzechoslovakiaにあった
             5つの石油製造工場が攻撃されました。
             
 5月12日の目標となった工場
都市名 工場名(何れもBelgius法Plant) 年間生産量
(含航空燃料以外)
攻撃機数 投弾量
Merseburg/Leuna Ammoniawerke Merseburg G.m.b.H
(I.G.Farbenindustrie)
62万t 220機 500t
Zeitz Braunkohle-Benzin A.G. Brabag 34万t 111機 260t
Boehlen Braunkohle-Benzin A.G. 32万t 89機 194t
Luetzkendorf Wintershall A.G. 30万t 89機 172t
Bruex
(Czechoslovakia)
Treibstoffwerke Brabag
Braunkohle-Benzin A.G.Sudentenlaendische
69万t 140機 311t

             資料は主にAFHS No。122 the combind bomber osffensive による。

             上の表とoil1冒頭の、935機、1700tと合いませんが目標を発見でき
             なかった機数を含む為です。また資料によって機数と投弾量は多少
             異なります。

             Gallandによるとによれば爆撃機隊の主力はベルギー、オランダ
             から侵入しFrankfurt地域で方向を変えて、工業地帯に到達ました。
             またBruexを攻撃した一隊はKarlsbadを経由してPrag地域に到達
             しました。Luftwaffeは400機以上の戦闘機で迎撃しましたが
             (Luftflotte Reichがほぼ全力を繰り出しました)、多くの迎撃機
             が護衛戦闘機に阻まれて爆撃機の編隊に接近できずFrankfurt上空
             だけで迎撃に成功したとされています。
             USA側の記録ではBruexとZwickau(航空機工場攻撃)へ向かった第8
             空軍の3d Bombardment Divisionが集中攻撃を受け、全46機の爆撃
             機の損害の内43機を占めました。一方ドイツ側の記録では72機を撃
             墜した事になっています。ドイツ側も石油の供給が戦争継続の為の
             生命線で有る事を熟知しており、Gallandは次回以降の攻撃を断念
             させる程の損害を与える事ができなかったと書いています。

             しかし、約1000機の護衛戦闘機が付いていたことを考慮すると
             この日のLuftwaffeの戦果は決して悪いものではなく、ドイツ上空
             では迎撃戦闘機の不足を戦法でカバーして連合軍とのつばぜり合い
             に持ち込んでいたと見て良いと思います。
             実際の戦争はコンピュータゲームではありません。この日の米側の
             戦死行方不明者は444名と作戦参加人員の約5%に達して小さなもの
             ではなく、この後も大きな犠牲を出しながら米側は必死で作戦を続行
             しました。
             よく言われるように、この時迎撃戦闘機の数が二倍あれば、戦局の
             帰趨は異なっていたと思われます。
             但し本当の米空軍の本当の凄みは同日イタリアの第15空軍が1143機
             の四発爆撃機を発進させてイタリアのドイツ地上軍を攻撃していた
             ことで、これに対する反撃は全くできず、物量の差は既に大く開い
             ていました。

             ドイツ側は破壊された施設の回復を急ぐ一方、1944年5月22日に、
             Hitler、Keitel、Goering、Milch、Speer等の軍側と企業側の各責
             任者が集まって報告が行われましたが、何も新しい方針を決める事は
             有りませんでした。それどころか翌23日にHitlerは本土防空
             の危機を忘れたかのようにGoeringとLWの爆撃機隊の増強を検討し
             、同日のLieferplan226に関する会議ではドイツ最後の希望を
             砕いたと言われるMe262戦闘機の爆撃機への転換命令を出しました。
             Speerの回顧録を見てもHitlerは既に現実を見る姿勢が無く、NSDAP
             政権は戦争指導の能力を失って側近による権力争いに明け暮れて
             いた事が分かります。

             第二回目の米空軍の石油製造工場への攻撃は5月28日に行われまし
             た。この日第八空軍は1341機の爆撃機を発進させましたが悪天候に
             妨げられて、実際に目標を攻撃できたのは半数以下で、損失は
             32機でした。一方ドイツ側の資料では54機を撃墜したことになって
             います。米側の戦死行方不明者は292名でした。

5月28日に攻撃を受けた工場
都市名 工場名(何れもBelgius法Plant) 年間生産量
(含航空燃料以外)
攻撃機数 投弾量
Merseburg/Leuna(第2回) Ammoniawerke Merseburg G.m.b.H
(I.G.Farbenindustrie)
62万t 63機 151t
Zeitz(第2回) Braunkohle-Benzin A.G. Brabag 34万t 184 447t
Ruhland/Schwartzheide Braunkohle-Benzin A.G. 35万t 38機 70t
Luetzkendorf(第2回) Wintershall A.G. 30万t 66機 155t
Magdeburg/othensee Braunkohle-Benzin A.G. 30万t 55機 114t
Leipzig Mobil ? 8機 20t



             第三回の攻撃は攻撃を受けずに残されていたPoelitzの石油製造
             工場に対して行われました。
5月29日に攻撃を受けた工場
  都市名   工場名(何れもBelgius法Plant) 年間生産量
(含航空燃料以外)
攻撃機数 投弾量
Poelitz Hydierwerke 62万t 224機 547t


             この日は他の目標をあわせて、合計993機の四発爆撃機が発進して、
             その内34機が失われました。ドイツ側の資料ではこの日94機を
             撃墜したことになっており大きな食い違いを見せています。
             米側の戦死行方不明者は329名でした。

             ドイツ側は石油生産回復へ莫大なresourceを投入し、Leunaの場合
             5月12日の攻撃の後殆ど生産が停止しましたが、数千名の労働者を
             確保して復旧に当った結果、10日後には部分的な操業再開に成功
             しました。5月28日の再攻撃後も6月3日には操業を再開でき、7月
             始めまでに石油生産量は爆撃前の75%まで回復しました。
             努力の甲斐あって爆撃にも関わらず5月のドイツの航空燃料の生産は
             2割減に踏みとどまり、Speerの回顧録では5月は日産量が5850ton
             から4820tonに低下したとされています。

             更にSpeerは1944年5月30日に部下の中で最も有能と言われてい
             たEdmund GeilenbergをGeneralkommissar fur Sofortmassnahmen
             bei den Treibstoffwerken に任命して生産能力の回復に当らせま
             した。7月末にはHitlerの反対を押し切って労働力と資源の
             最優先配分を獲得し、その結果1944年秋には35万人の労働者が石油
             生産工場の復旧と疎開工事に従事して、連合軍の爆撃に対抗しようと
             しました。
             こうした中で6月6日に連合軍がNormandyに上陸します。
             この前後、4発爆撃機の任務は上陸地域に対する交通の遮断と地上
             部隊への作戦支援に集中しました。更に6月12日のV1号の攻撃開始
             以降は発射サイトへの攻撃任務が加わり、人造石油工場への攻撃
             は、弱めざるを得ない状況になりました。Spaatzはこれを憂慮し、
             1944年6月28日に書簡を送り、上陸後の作戦の最終的な成功の為に、
             Luftwaffeの無力化が必要であり、その為にドイツ本国への、戦略
             爆撃に再び優先する事を訴えました。

             しかしEisenhowerはこの見方に同意せず、1944年6月29日のTedder
             への指示によると第8空軍の4発爆撃機はCrossbow、つまりV兵器の
             発射基地への攻撃を最優先し、ドイツの空軍力を弱める為の、航空
             機工場、石油製造工場、ベアリング工場への攻撃の優先度は二番目
             とされました。また地上部隊に緊急の必要が生じた場合はその支援
             に当たる事とされました。

             英国での民間人の被害を防止する為の作戦行動が、政治的観点から
             優先された訳ですが、このような軍事面を超えた判断能力があった
             事が戦後Eisenhowerが米国大統領になれた理由の一つでした。

             一方で第15空軍はイタリアでの地上軍支援に従事しながらRomania
             Austria,Italy,Poland,Czechoslovakia等にあるrefinary施設への
             爆撃を粘り強く継続しました。爆撃は1944年4月に3日間、5月に6日
             間、6月に12日間を数えました。
             
                         

             Normandyへ続く
             oil offensive 3へ続く


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