oil offensive 1
Zwickau、Merseburg-Leuna、Bruex、Lutzkendorf、Boehlenへの
攻撃がこの作戦の開始でした。この日46機(5%)の爆撃機と10機の
戦闘機が失われましたが、約1700tonの爆弾が投下されてドイツの
石油生産は大きな打撃を受けました。時期から分かるように、この
作戦はOverlord(Normandy上陸)に対する 4発爆撃機による支援の
一環です。
人造石油製造施設の攻撃は大戦の早期終結の為に有効だったとされ
ていますが、実施に至るまでの道のりは平坦では有りませんでした。
4発爆撃機はそれまで"United States Strategic Air Forces(米軍)
"と"Bommber Command(RAF)"により独立に運用されて来て
1943年から開始されたPointblank作戦で、両軍は異なった戦法と
目標設定を譲りませんでした。この問題の解決は"all possible
support"の提供と言う名目で先送りされて来ましたが、Overlord
の検討が具体化するに従って、持てる戦力を最大限に活用して勝利
を確実にするため、何らかの結論を出すべき時期が迫りました。
ヨーロッパ上陸の際の空軍支援をどう進めるかという問題は
1943年3月に英軍のFrederick Morganが連合軍最高司令官の参謀
長に任命された時点から検討が始まっていました。
彼と英国の空軍参謀長だったCharles Portalは、最重要課題が
上陸地点の制空権の確保であるという結論に達し、Overlordに
おけるAllied Expeditionsry Air Force(AEAF:連合遠征空軍)
の指揮権を当時の英軍のFighter Command司令官だったTrafford
Leigh-Malloryに与えることになりました。(注1)。
1943年11月15日にAEAFは正式に発足しましたが所属したのは、
戦術爆撃機と戦闘機から成る米国第9空軍、英国Fighter
Command等であり、Overlord成功の為に欠くことができない4発
爆撃機の具体的な活用策はあいまいのまま残されました。
12月19日にDwight Eisenhowerが連合軍最高司令官に任命され
ましたが、事態に大きな変化は無く、Mallory自身は4発爆撃機
部隊の指揮権の獲得を図りましたが、RAF Bomber Commandを指揮
するA.HarrisやU.S.Strategic Air Forces in Europe(USSAFE)を
指揮していたC.Spaatzはこれを支持しませんでした。
1944年1月6日にそれまで地中海戦線の連合国空軍の指揮を執って
いたArthurTedderが連合軍最高司令官代理に就任し、Churchilが
彼にEisenhowerの代理として空軍全体の指揮を執るように指示を
して状況が進展します。(注2)
これには上陸作戦の成功のためには連合国の空軍を統合して運用
する統一司令部が必要だと考えるEisenhowerの意思が反映されて
おり、命令系統はEisenhower→Tedder→の順となり、Mallory
、Harris、Spaatzの三人は下に同格で並びました。
その時点でPortalは空軍全体の指揮を彼とMalloryの二人で分担
する事を主張しましたが、Churchilは「Tedderは経験と能力の面
でMalloryとは比較にならないほど優れている。」と言って主張を
退けて指揮権の帰属が明確になりました。
Malloryの能力と人格が連合軍の上層部に受け入れられなかった
格好ですが、Normandy上陸成功後に南東アジア空軍司令官として
ビルマへの転属の途上、1944年11月14日にフランスアルプスでの
航空機墜落で彼と夫人を含む乗客全員が墜落死するという結末を
迎えます。この事故はMalloryが悪天候にかかわらず離陸すること
を強硬に主張しなければ避けられたと言われました。彼の胸中は
どのようなものだったのでしょうか。
この後も1944年3月13日に英国空軍参謀本部は、Overloadに直接
関係しないBomber Commandの4発爆撃機を自分達が直接運用する
意思を表して米国側の憤激を買いますが、3月22日に合意が成立
し、全ての4発爆撃機はEisenhowerの指揮下に置く事が明確になり
、このルールは4月14日から発効することになりました。
米国と英国のように比較的関係の深い国家間でさえ軍隊の指揮命令
を一本化することには大変な困難が発生する例ですが、戦争行為
は国民の生命に影響を与える深刻な事態なので、指揮を外国人
の手に委ねることは抵抗が出るのは止むを得ないと思います。
ともあれ、この時期までOverlordを成功させる目的の空軍の共同
行動は何も無く、米英両国空軍はそれぞれの判断で勝手に作戦を
進めていました。
航空部隊の指揮権を握ったTedderですが、3人の司令官の考え方は
依然として一致しておらず、MalloryがNormandy付近の飛行場と
鉄道網の破壊を主張し、Spaatzは人造石油製造施設を爆撃目標に加
える事を提案し、Harrisはこれまでの都市や工場に対する広域爆撃
の継続を主張しました。
Spaatzは1944年2月12日から独自にBig Week以後の戦略爆撃の目標
設定の再検討を開始するよう指示しており3月1日に「Plan for
the Completion of the Combined Bomber Offensive」と題された
報告書が完成しました。そこには石油精製が比較的少数の工場に
生産が集中していて、それを破壊する事が軍事力を低下させる
効果が最も大きい事が記載されており、この文書は3月5日
にEisenhowerに送られました。
石油製造施設攻撃は、大戦初期から検討されて来ましたが、
Luftwaffeが制空権を握っていたため、継続的に実行して効果を上
げる事ができませんでした。しかしこの時期には、BIg Weekの攻撃
によってドイツ戦闘機の力が低下したと見られたことがこの提案の
背景になっています。
一方Harrisは強硬で、既に1944年1月13日にBomber Commandが高精度
爆撃を遂行する能力が不足している事や、夜間爆撃の目標の位置
把握に1地点当り30分程度必要なので一夜に複数目標を攻撃する事
が困難である事等を上げて戦術目標への攻撃参加を拒否しました。
配下の能力の欠点を強調する彼の姿勢は滑稽にさえ写ります。
これに対して遂に業を煮やした空軍参謀長のPortalは1944年2月27
日に、満月の夜を選んでBomber CommandがFranceの軍事目標に試験
攻撃をかけるよう直接命令を出しました。被占領地域であるフランス
を攻撃して爆弾が目標を外す事は、住民の支持を失う事につながる
為、慎重に避けなければならないと考えられていました。
最初の試験攻撃は1944年3月6日にフランスのTrappesの操車場に対し
て261機のHalifaxにより行われ、爆撃機の損失や周辺地域の被害
無く、施設に大きな損害を与えました。
この成功によりHarrisの主張は退けられ、残る選択はMallory案
とSpaatz案のどちらを選ぶかと言うことでした。
Tedderは人造石油施設攻撃の効果を理解していましたが、数ヵ月後
に迫った上陸作戦迄に早く効果が出ることを重視して、四発爆撃
機の第一目標に鉄道網を選ぼうとしました。彼とMalloryの案は
単に上陸の成功だけを目的とせず、高度に発達していたドイツから
フランスに至る鉄道網の操車場、荷下ろし施設、機関車修理工場
等を大型爆弾によって破壊する事でフランス全体をドイツの
交通網から遮断して、その後の作戦全体を有利に進めようとする
ものでした。Tedderがアフリカとイタリアでの作戦経験から
補給ルートが作戦の成否を左右することを熟知していた事もこの
計画に影響を与えました。
最終的な決断はEisenhowerに委ねられ、1944年3月25日に開催され
た会議にはEisenhower、Portal、Tedder等の他、戦争経済の専門
家が出席しました。Tedderは鉄道網破壊の効果を繰り返し述べま
したが、他の出席者からドイツがフランスの工業力を活用して
復旧を図った場合、期待した効果が無いのではないかという疑問が
出ました。そうなるとSpaatzの石油施設攻撃案が浮上します。
結局、同席していた専門家がドイツが未だ西部戦線に十分な石油
備蓄を持っている為、人造石油製造施設攻撃が上陸作戦までに効果
が出ないことを指摘して議論が決着しました。
当時、Mussolini政権崩壊時の混乱に乗じてイタリアの備蓄を手に
入れて、ドイツの石油の状況は開戦後最も好い状況に有りました。
会議はEisenhowerの次の言葉で締めくくられました。「他に案が無
ければ、効果がどんなに小さくとも(交通の遮断)を進めなければ
ならない。」
しかし自身の案がドイツの崩壊を早めることを確信していたSpaatz
はあきらめませんでした。
彼は3月31日にEisenhowerとPortalに直接書簡を送り、上陸地点周
辺とフランス北部の鉄道網の爆撃を実行することに同意するものの
戦略爆撃の最終目的が上陸後のドイツの崩壊を早めることにある事
を強調し、ドイツの石油供給を止める事が有効である事を改めて
訴えました。一方で彼は上官であったH.Arnoldと連携して3月17日に
統合参謀本部の内諾を取り、4月5日からPloestiの油田爆撃を開始
しました。
この時点で統合参謀本部とPortalは石油施設を目標に加える事に
公式支持を与えていない為にSpaatzは一計を案じ、目標とした
Ploestiの操車場から爆弾が逸れたとしました。
実際には95機のB-17と135機のB-24によって558tonの爆弾が油田と
Concordia Vega精油所(年間生産量130万ton)を狙って投下されま
した。ここはドイツで二番目の生産能力を持っており、ドイツの
石油生産能力の約8%を占めていました。4月19日迄に第15空軍がこ
の地域に対して合計19回の昼間爆撃を行った結果、約1/2の精製
能力が失われました。
4月17日に発令された戦略爆撃に関する公式命令書には、米空
軍の爆撃目標は@ドイツの単発戦闘機生産工場、Aドイツの双発
戦闘機生産工場、Bボールベアリング工場、CLW戦闘機部隊の
支援施設(ここに鉄道網爆撃が含まれる)、DLW爆撃機部隊とそ
の支援施設とされており、表面的に石油関連施設はリスト外でし
た。それにも係わらずPloesti攻撃は積極的に進められ、6月末迄に
延べ3183機の爆撃機が6,201tonの爆弾を投下した結果、Ploestiの
石油精製能力は殆ど失われました。
その後対空砲火の強化と煙幕による掩蔽の効果で精密爆撃が
困難になって、石油生産がやや回復したものの、8月のソ連軍の
占領によりPloestiの石油はドイツの手から完全に離れました。
Ploesti攻撃の成功を見て、4月19日にEisenhowerは口頭により
Spaatzに対して第8空軍によるドイツ国内の人造石油製造施設攻撃
の許可を与えました。その後V兵器への対応と悪天候により予定
より遅れましたが遂に5月12日に攻撃は実現しました。
oil Offensiveの実現は、C.Spaatzの努力に多くを負っています。
彼は第二次大戦の最も構想力と柔軟性に富んだ指揮官の一人とされ
ていますが、topへの意見具申と結果のアピールによって、戦略目
標を修正することに成功した理由は、@石油製造施設攻撃の意義を
正しく理解して必要性に関して主張を曲げなかった事、A鉄道網爆
撃を否定せず両者で相補的に効果が出ると言う姿勢で臨んだこと、
B上官との連絡を密接に取った事、C建前よりも実効性を優先する
姿勢が有った事、が上げられます。彼が実務的能力に極めて富んだ
人物だった事が分かります(注3)。
(Oil offensive2へ続く)
(注1)Malloryは1892年生まれ、Battle of Britainの後、H.
Dowdingの採ったLuftwaffeを英国上空で迎撃する作戦方針を批判
し、その後Portalと組んでDowdingを辞任に追い込んだと言われま
した。彼は防御線を英仏海峡上空に敷くことを主張しましたが、
この戦法では都市の破壊は減少できるものの、英国の搭乗員の
損耗は増加して逆にLuftwaffeの搭乗員が捕虜になる確率が減少
するので、却ってドイツ側を利することになったのでは
ないかと言う疑問が生じます。
(注2)A.Tedderは1890年生まれで、E.Milchと同じ年齢です。
Cambridge大学を卒業後1916年から当時のRoyal Flying Corpsに加
わり以後空軍の畑を歩みました。1940年以降RAF中東空軍の司令官
としてアフリカでの勝利に大きな貢献を果たしましたが、ここ
でEisenhowerと組んだ事が、彼の以後の経歴を大きく左右した事は
疑い有りません。ドイツの降伏文書の批准の際に、Zhukov(ジュー
コフ)、Kaitelと共に署名を行い、戦後は空軍参謀長を経て
Cambridge大学学長を務め、英国内で大変人気の高かった人物です。
写真を見ると、童顔、痩せ型でいかにも頭の回転が早そうです。
彼については改めて詳しく触れたいと思います。
(注3)C.Spaatzは1891年生まれで陸軍士官学校卒、第一次大戦
にUnited Air Serviceの一員として参加し、始めフランスでの訓練
学校の責任者となった後、戦闘機部隊に転属してドイツ機3機を
撃墜したことが知られています。
第二次大戦では1941年7月から当時のUnited States Army Air
Forces (USAAF)の司令官だったH.Arnoldの下で司令官代理を勤め、
その後英国への供与爆撃機の輸送任務を担当した後、1942年12
月からAfrica戦線での米国空軍組織の設立に尽力しました。
1943年2月からはWestern Desert Air Forceの指揮を執り、その後
H.Arnold、I.Eakerと共に米空軍の昼間精密爆撃を推進しました。
彼の略歴を見ると教育、兵站、組織の確立と言った後方任務の
経験が豊富で、この事が最後に連合軍内部での英空軍との連携に大
きく役立ちました。戦後彼は United States Air Force(陸軍
航空隊)の司令官を勤めた後、US Air Force (独立米空軍)の参
謀長に任命されました。
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