Normandy2
Overlord作戦の内容は皆さんご存知だと思いますが、もう一度イメ
ージをつかむために簡単に内容を御説明します。
上陸部隊の兵員は17万2000人車両20000台と言われており、この部
隊と補給用物資を6500隻の輸送船、上陸用舟艇、約500隻の護衛
艦隊防御によって運び込んだ訳ですがドイツ軍と比較して地上
部隊が圧倒的に優勢と言うわけでは無く、強力な空軍による援護
がどうしても必要と考えられました。
当初、1944年5月の上陸が計画されましたが、舟艇の準備遅れの
為に1ヶ月延期されました。Eisenhowerが上陸を6月5日と決めたの
は1944年5月17日で有り、5月28日に命令が現場指揮官
まで伝えられました。
上陸部隊は英国南岸のNewhaven、Portsmouth、Southernpton等の
港湾から出航する手筈でしたが、一番遠いFalmouthからはNormandy
までは約500km有り、到着までに約丸一日かかることになります。
その間は兵員は完全武装の状態で船室に閉じ込められることになり
それだけでも大変な苦難だったと言えます。
上陸の予定日が近づくと天候が悪化して、6月2日に艦隊の出航が
始まりましたが、予定通り上陸が決行できるかどうかは不明でした。
回顧録によるとChurchillは6月3日にPortsmouthを訪れて、乗船する
大部隊を見守ったと言います。空には雲が低く垂れ込めて強い南西
南西の風が雨を伴い、5日には更に悪化して上陸が危険になると予想
されたためEisenhowerは已む無く6月4日午前4時15分からの会議
で作戦を24時間延期する決断をします。その結果海上にあった全輸
送船団は一旦引き返す事になり、小艦艇はその場で投錨して次の
命令を待ちました。
6月4日21時15分にもう一度会議が開かれ、気候専門家による6月
6日に天候回復の見込み有りとの意見に基き、Eisenhowerは9時45分
に上陸実施を決めます。6月5日午前4時に命令が発せられ、彼の
"O.K. We'll go."の言葉で、一時間後に全ての艦艇の出航が始まり
ました。
結果的に悪天候を押し切っての決行は奇襲に繋がり、Rommelがこの
時ドイツに戻っていたこともあって、上陸作戦は成功を収めました。
合計約7000隻の艦船が24時間掛けた侵攻を途中で発見できなかった
ドイツ側はお粗末でした。
戦後の米軍の分析によると6月1日から5日までの間、LWの海上偵察
活動は全く行われておらず、5日から6日の夜間に予定されていた
海軍による掃海を兼ねた偵察活動も悪天候の為に中止されていまし
た。@
最も早くフランスの地を踏んだのはCotentin半島中央のMontebourg
付近にパラシュート降下した米軍第101空挺師団でした。6月6日午前
2時過ぎにはドイツ側守備隊との交戦が始まり、情報が第7軍司令部
に伝えられて警報発令されましたが、ここはNormandyから遠い事も
あってドイツ側は局地的な撹乱作戦との見方を採りました。
一方、主力上陸部隊は6日未明にNormandy沖に接近し、午前3時に
沿岸を警備していたドイツ海軍部隊がPort-en-Bessinの7マイル沖に
約10隻の敵艦が出現したと言う報告を受けました。
これを受けて、Le HavreとCherbourgから数隻の魚雷艇が出撃しま
したが、連合軍側の反撃と悪天候に妨げられて攻撃は成功しません
でした。 ドイツ側も徐々に事態の重大さを認識し、午前5時35分
に陸上から連合軍側艦船への砲撃が始まりましたが、5時50分に
連合軍側が逆に上陸地点への艦砲射撃を開始しました。
ここで連合国空軍による支援爆撃作戦の内容を見たいと思いま
す。最も早かったのはOMAHA海岸攻撃を担当した米国第2爆撃師団で
5時55分から6時14分に320機のB24が6機編隊を組んで海岸線の奥、3か
ら4Mileに有る軍事目標を次々に爆撃しました。爆撃終了から上陸
開始までの時間間隔は当初5分とされていましたが、悪天候による
爆撃精度の悪化を考慮して10分に延長されました。更に誤爆による
被害を防ぐために、上陸用舟艇は海岸線から300mの沖合で待機しま
した。pathfinderによる照準は、目視とレーダーを用いる方法の二
つが考えられましたが、この日は雲上からのレーダー照準にならざる
を得ませんでした。
海岸の他の区域に対する援護爆撃も同様の方法で続きました。6時5
分から6時24分に第9空軍の双発爆撃機がUTAH海岸を爆撃し、更に6
時58分から7時30分までに第1爆撃師団がGOLD海岸とJUNO海岸の西部
を爆撃し、殆ど同じ時間に第2爆撃師団がJUNO海岸の東部とSWORD海
岸を爆撃しました。
第一波の作戦において目標を発見できなかった爆撃機は、付近の
輸送拠点に対する第二波爆撃に参加する事になっていました。この
攻撃は9時から9時30分に予定されていましたが、目的まで誘導す
るPathfinderが不足して、実際に爆撃を行ったのは37機に留まりま
した。
更にここまででCaenの鉄道拠点の破壊が不足していると判断された
ために第三波の攻撃が計画され、13時30分から56機のB24による爆
撃が行われました。
最後に実施された第4波の攻撃は早朝の第一波に続ぐ大規模な
もので、一層深くなった暗雲を衝いて海岸の南方と東方の輸送拠点
に対し、736機の四発爆撃機による攻撃が行われました。
D-dayにおける米軍の四発爆撃機の活動は目覚しく、延べ2,587機が
出撃し(sorties)、悪天候に妨げられつつも延べ1622機が爆撃に
成功して4,852tの爆弾を投下しました。また第9空軍のB26、A20も823
sortiesの作戦を実施しました。
一方戦闘機隊の働きも負けるものではありません。
最も重要とされた、上陸地域の海岸の防空は、味方からの識別の
容易さと比較的低空での作戦に適していたところからP38部隊が担当
し、第8空軍から4個Group、第9空軍から2個Groupが参加しました。
(GroupはLwのGruppeに対応して3 Squaronが所属。:Squadronには
24から36機が所属する)。作戦高度は1000mから1500m、作戦時間
は、早朝4時30分から夜間23時30分迄とされ、この間を90分シフト
として、4つの海岸領域を、交代で絶えず1個Squadronが飛行する
体制でした。つまり総機数600機前後が参加して100から140機が上
空を警戒していた訳です。
その他の戦闘機隊の作戦時間は3つに分けられ、一番最初のFull
Houseは午前4時25分から10時まででした。主要任務は、爆撃機、
輸送機の援護と進撃する地上部隊の援護とされ、地域を14に分けて
絶えずLWによる攻撃を警戒しました。戦闘機の飛行高度は2400m、
3600m、5100mの三段階とされており、この間は陸上部隊から敵機と
誤認される事を防ぐために、地上攻撃は行わず、また海岸線を越え
て海側へ向けて飛行する事も禁止されていました。
次の作戦はStudと呼ばれ、15の地域の地上目標に対する攻撃を主
任務としました。これには37squadronが参加して作戦時間は1時間
とされました。従ってこの作戦には約1000機が参加したことになり
ます。各squadronは8機を戦闘爆撃機として割り当てて、その他の
機はこれを援護しました。作戦は10時30分から15時30分迄とされ
ました。
最後の作戦はRoyal Flushと呼ばれ20時から22時の夜間にP47とP51
による地上攻撃が行われました。この日戦闘機による援護、
警戒、地上攻撃はトータル約10000sortiesに達しました。
このような周到な計画に基づく連合軍の奇襲上陸に、Lwの対応は
対応は遅れをとりました。
例えば、JG26は前日の命令により、I.GruppeがReimへIII.Gruppe
がNancyへの移動中であり、またII.Gruppeは南方のMarsan
に在りました。指揮官のJ.PrillerはLilleにいて7時にJagddivision
5.司令部から連絡を受けた後、直ちに部隊の呼び戻し命令を出し、
8時にRottenfliegerのH.Wodarczykと共に二機のFw190で南西に向け
、飛び立ちました。彼等はLe Havreから西に海岸線を縦断して
連合軍の上陸部隊に機銃掃射を行って帰到し、初めて上陸部隊を
攻撃したLwの戦闘機となりました。
この間の距離は往復約500kmで、Normandy上空で全速力diveしたと
あるので滞在時間を約10分として、全体で1時間30分位の飛行だった
と考えられます。
有名な話ですが、この日の唯一のLwの作戦だったというのは事実
と異なっています。A
JG26の各Gruppeは午後にはParis近郊の飛行場に移動して作戦を
開始し、その日のうちに176sortiesの出撃を行いました。また
約50機から成るIII./SG4は午前3時には上陸が始まったと言う
情報を受け取た後、9時35分に命令が出て、Paris近郊の
LavalとToursに向けて移動を開始しました。しかし途中でP51とP47
による攻撃に遭遇して、5機が撃墜されました。9./SG4は夕刻に3回
の攻撃をかけましたが、一度は連合軍側の戦闘機に阻まれて、上陸
地点に接近できず、2回は海岸に到達して爆撃は行ったものの、対
空砲火の為に、戦果を確認する事ができませんでした。B
一方6月6日の朝8時にHitlerとGoeringを含んだ緊急会議が行われま
した。Oberkommando Westは、尚Calais方面への上陸の可能性
を捨てきらず、Normandy方面への増援を決断しませんでしたが、
Goeringは低下し続けている彼自身とLwの威信を回復する機会と考
えて増援部隊の派遣を指示しました。最も早く、I.Gruppeと
II.Gruppe/JG1が6日午後2時30分にMontdidierへ飛び立ちIII./JG1
が続きました。しかしIllesheimに在ったIII./JG54は22機のFw190を
発進させたものの、こちらは不安が的中して大部分が方向を誤って
しまい、翌日までに目的地のVillacoublayに到着したのは2機で、
作戦が可能なのは1機だけでした。
11ヶ月に亘り検討されてきた構想に基づき、Lwは上陸の報が入り次第
可能な限りの機数をフランスに集めて連合軍を攻撃しようとしました
が、主力に予定されていた戦闘機隊は全体に乗務員の錬度が低下して
おり、更にフランスで作戦を行う為の知識が無く、地図も読め
ない有様でした。
連合軍の上陸後の戦闘爆撃機による反撃を指揮する予定だったII.
Flkps指揮官のBuelowiusはこれを憂慮し、ドイツからフランス
の移動時に、目的飛行場まで誘導機を派遣する提案をしていまし
たが採用されませんでした。C
一方爆撃機による攻撃は夜間が選ばれ、FliegerkorpsX.が海岸の
船団に対して誘導爆弾を用いて40sortiesの攻撃をかけましたが、
大きな戦果を上げる事ができませんでした。この部隊に期待が掛け
られており、Goering自身が、「攻撃の先鋒」と呼んでいただけに
大きな誤算で、同部隊は翌日の攻撃も失敗した為、その後行動を
中止しました。
6月6日夜にFliegerkorpsIX.も双発爆撃機による130sortiesの
攻撃を掛けましたがこちらも戦果は無く、結局6月6日にLwによっ
て沈められた船舶は1隻も有りませんでした。D
ドイツ側が上陸開始時点で、戦力を集中させて大きな損害を与える
事が効果的な戦法として考えられていましたが、爆撃機隊が弱体化
して、頼みの戦闘機隊も本土防衛に主力を充てていた状況では実現
困難な事でした。
こうなるとHitlerがMe262を爆撃機にしたがった気持も分かります。
英米軍のヨーロッパ上陸を許したら戦争は負けだと見て
いたのでしょう。彼が考えていたのはピンポイント爆撃では無く
或る面積に対する絨毯爆撃でした。敵戦闘機の追従を許さない
高速爆撃機を1000機揃えて上陸地点に一度に500tonを投下し、
高速を生かして何度も出撃すれば陸上部隊を壊滅させる
事ができると考えたわけです。しかし飛行場に大量のジェット機を
配備して一気に運用する事は当時の技術を遥かに超えていました。
上陸直後のLwの活動状況(米軍側資料による)。
日付
|
総sorties
|
内地上攻撃分
|
備考
|
6月7日
|
300
|
60
|
|
6月7/8日
|
160
|
-
|
爆撃機による夜間攻撃
|
6月8日
|
500
|
75
|
|
6月8/9日
|
100
|
-
|
爆撃機による夜間攻撃
|
6月9日
|
525?
|
110?
|
信憑性疑問有り
|
6月9/10日
|
資料無し
|
-
|
-
|
6月10日
|
460
|
60
|
(David Clarkによる)
|
6月6日から9日までの戦闘機部隊のフランスでの配備状況
部隊名
|
移動日1
|
from
|
to
|
移動日2
|
to
|
備考
|
stab/JG1
|
6/6
|
Lippspringe
|
St. Quentin-Clastres
|
-
|
|
|
I./JG1
|
6/6
|
Lippspringe
|
Montdidier
|
6/7
|
Le Mans
|
|
II./JG1
|
6/6
|
Stormede
|
Montdidier
|
6/7
|
Le Mans
|
|
III./JG1
|
6/6
|
Paderborn
|
Beauvais-Tille
|
-
|
-
|
|
stab/JG2
|
-
|
Creil
|
-
|
-
|
-
|
フランス駐在
|
I./JG2
|
6/7
|
Cormeilles-en-Vexin
|
Creil
|
|
|
フランス駐在
|
II./JG2
|
-
|
Creil
|
-
|
-
|
-
|
フランス駐在
|
III./JG2
|
6/7
|
Fontenay-le-Comte
|
Creil
|
-
|
-
|
フランス駐在
|
stab/JG3
|
6/7
|
Salzwedel
|
Evreux
|
-
|
-
|
|
II./JG3
|
6/7
|
Gardelegen
|
Evreux
|
-
|
-
|
|
III./JG3
|
6/7
|
Ansbach
|
St. Andre de l'Eure
|
6/10
|
Marcilly
|
|
IV./JG3
|
6/8
|
Salzwedel
|
Dreux
|
-
|
-
|
|
I./JG5
|
6/7
|
Herzogenaurach
|
Montdidier
|
-
|
-
|
|
I./JG11
|
6/6
|
Rotenburg
|
Bonn-Hangelar
|
6/7
|
Rennes
|
|
II./JG11
|
6/6
|
Monchen-Gladbach
|
Beauvais-Nivelliers
|
-
|
-
|
|
10./JG11
|
6/9
|
Aalborg-West
|
Rennes
|
-
|
-
|
-
|
stab/JG26
|
6/6
|
Lille-Nord
|
Poix-Nord
|
-
|
-
|
-
|
I./JG26
|
6/6
|
Vendeville
|
Chaumont-en-Vexin
|
-
|
-
|
|
II./JG26
|
6/6
|
Mont-de-Marsan
|
Guyancourt
|
-
|
-
|
|
III./JG26
|
6/7
|
Nancy
|
Villacoublay
|
-
|
-
|
|
stab/JG27
|
6/6
|
Wien-Seyring
|
Champfleury
|
-
|
-
|
|
I./JG27
|
6/7
|
Fels am Wagram
|
Vertus
|
|
|
|
III./JG27
|
6/6
|
Gotzendorf
|
Connentre
|
|
|
|
IV./JG27
|
6/7
|
Vat
|
Champfleury-la-Perthe
|
|
|
|
II./JG53
|
6/6
|
Oettingen
|
Le Mans
|
6/7
|
Vannes
|
|
III./JG54
|
6/7
|
Illesheim
|
Villacoublay
|
|
|
|
III./SG4
|
6/7
|
Clastres-St. Quentin
|
Laval,Avord
|
|
|
フランス駐在
|
I./SKG10
|
6/6
|
Rosieres
|
Dreux
|
|
|
フランス駐在
|
終わり
|
|
|
|
|
|
|
参考資料:Michael Holm The Luftwaffe, 1933-45
下の図に主な基地の位置を示します。

6月7日から天候が悪化し始めましたが、この日の夕刻迄に、ドイツ
からの増援戦闘機部隊はフランスへの移動をほぼ終了し、作戦を開始
しました。
上表の中で、JG1、JG3、JG11、III./JG54、III./SG4はII.Flkpsに
所属して爆撃任務を担当する予定であり、機体に爆撃用ラックの
装着を開始しました。しかし戦闘機が配備された応急飛行場
の設備や指揮命令系統は不備で、かつ爆撃とサボタージュによっ
て電話回路の普通が続いた為に、II.Flkpsからの命令の伝達は思う
ようにゆかず、更に連合軍側の通信傍受部隊ULTRAがドイツ側命令
を受信して飛行場に部隊配備されると直ぐにそこを攻撃する事が
繰り返されました。
またIII./SG4を除いてパイロット達への爆撃訓練が不足しており、
せっかく機数が集結しても思うような作戦を進める事ができません
でした。
またJG2、JG26、JG27、JG53がJagddiv5.に所属して上空援護を
受け持つ予定でした。この状況で戦闘機はJagdfreiと呼ばれる
地上からの誘導を受けない警戒任務や、連合軍側の地上部隊
への銃撃を強化しました。
今後連日の航空戦は早朝6時から夕刻21時に及ぶ事になり、
6月7日の双方の損害はその後の戦局を通じても最大で、LW側71機
(内、単発戦闘機58機)、連合軍側89機(地上砲火によるものを含
む)に及びました。
Lw側単発戦闘機の部隊別の損失(判明分55機)は以下のようになり
ます。
II./JG1
|
Fw190
|
2機
|
III./JG1
|
Bf109
|
6機
|
I./JG2
|
Fw190
|
1機
|
III./JG2
|
Fw190
|
2機
|
II./JG3
|
Bf109
|
1機
|
III./JG3
|
Bf109
|
10機
|
I./JG5
|
Bf109
|
1機
|
II./JG11
|
Bf109
|
11機
|
I./JG26
|
Fw190
|
3機
|
II./JG26
|
Fw190
|
1機
|
III./JG26
|
Bf109
|
2機
|
I./JG27
|
Bf109
|
2機
|
IV./JG27
|
Bf109
|
1機
|
III./JG51
|
Fw190
|
1機
|
II./JG53
|
Bf109
|
2機
|
III./JG54
|
Fw190
|
1機
|
III./SG4
|
Fw190
|
7機
|
I./SKG10
|
Fw190
|
1機
|
資料:Jean-Bernard Frappe:
La Luftwaffe face au debarquement allie p313-314
下図はドイツ側単座戦闘機の損失が報告された箇所を整理したもの
です。この中に、30機撃墜のIII./JG1所属のK.Weberが含まれます。
Caenの付近に最も集中していますが、Lw拠点付近での損害も多く
発生した事が分かります。遠いCotentin半島ではこの時点でLwの
活動が少なかった為に損失記録が有りませんが、後でそのツケが
回る事になります。

下はドイツ側が連合軍機機を撃墜したとの報告があった
箇所です。被撃墜箇所とほぼ同じ分布です。中で目立つMontdidier
での戦果は、I./JG5が挙げたもので、内3機をT.Weissenberger
が記録しています。またParis付近でも優勢が目立ちました。

Gallandは初期のNormandy航空戦について、以下のように説明して
います。E
この環境下で戦闘機部隊の移動自体が搭乗員の緊張を伴い大変
困難だった。中継飛行場は大混雑して混乱を助長し、移動の飛行中
に予定した飛行場が連合軍の攻撃を受けて使用不能になり目的地を
変更する事が多く起きた。従って先に到着する筈の飛行場整備
部隊が殆ど間に合わなかった。また移動中に約半数の部隊が連合軍
側の戦闘機とのdogfightに巻き込まれ、指揮官を見失って目的地に
到着できない機が多く出た。
「作戦上最も大きな問題だったのは飛行場不足の為、戦闘機隊の
主力がParisの北や北西の飛行場を基地とした事だった。
その為に海岸から遠く、進入経路が海岸の東方からに限られる事
になった。従って連合軍側の警戒と迎撃が容易となり、西部の
米軍作戦域を殆ど攻撃する事ができなかった。またCherbourgが
行動半径外となった。」
「一番の理想は海岸南方からの攻撃だったが、数少ない飛行場
が連合軍の攻撃で破壊されてしまった事から不可能だった。
また移動完了後も、各部隊がどこから命令を受けて作戦を
行うかが不明確だった。
明らかにLwは上陸した連合軍を攻撃するための情報収集と作戦遂行の
為の明確な方針が欠けていた。それができていれば20対1
の劣勢であっても、もっと敵に打撃を与える事ができた。」
上の地図は彼の言葉を証明しています。Lwは悪条件下で奮戦したと
言えますが、連合軍側は1日当り約2000sortiesの反撃を予想して
おり、AEAFの指揮官であるLeigh-MalloryはLwの一段と大規模な
攻撃が有ると考えて、防空用の予備戦闘機隊を常に確保しました。
また連合軍にとってフランスでの飛行場の確保が急務でしたが、
上陸後二日目のこの日Bazenvilleに応急の離着陸拠点が確保され、
航空機が緊急着陸して補給を受ける事ができるようになりました。
地上では、連合軍側地上部隊の苦難の開始となりました。
東半分の英・カナダ軍地域では、Caenの最も近くにあったドイツ
側21.Panzer-Divisionが装備不足で6月6日の反撃に失敗しました
が、精鋭の12.SS-Panzer-Division HitlerjugendとPanzer
-Lehrer-Divisionが夜を徹した移動で合流して連合軍と交戦を開始
し、長い膠着の始まりとなりました。この部隊は強力で、連合軍
の戦車はドイツ側のTiger、Pantherに敵せず損耗比は連合軍側の記
録でも1:10だったと言われています。
12.SS-Panzer-Div.は1943年の陸軍の敗北による人的資源の不足に
対応して、ハイティーンを中心に編成された約20000人の部隊で
した。国家防衛に未成年を動員してはおしまいで、私は嫌悪感を感
じますが、NSDAPの思想に疑いを持たない少年兵たちは、味方と
献身的な協力体制を保ちつつ英、Canada軍と白兵戦を続け、8月
末迄に数百人を残してほぼ全滅します。この地域で捕虜や取り
残された敵の負傷兵に対する双方の不法な殺傷行為が続いた事からも
地上戦闘の激しさが分かります。
英・カ軍の、早急にCaenを占領して東方に向けたParisへの進路を
確保する計画は困難となり、ドイツ軍の補給と増援を阻止するた
め、ParisからCaenに至る西向きルートと、Le MansからCaenに至る
北上ルートの二つの主要補給線に対して、四発爆撃機と双発爆撃機
の攻撃が強化されました。
西側の米軍地域では、Utah海岸に上陸したVII Corpsは大きな
損害を被る事なくCotetin半島を北上する体制を整えました。
一方Omaha海岸から南進してVireを奪う計画だったV Corpsは上陸の
際に大きな損害を受けましたが、ドイツ軍司令部は情報不足のまま
好機を生かせず、戦線は各所で動きを止めます。

6月8日も悪天候が続き、II.Flkpsは依然として大規模な爆撃作戦の
命令する事ができず、主な行動はIII./SG4による河口部のRiva-Bella
からBenouvilleに至るOrne川流域地域に対する攻撃だけが知られて
います。しかし連合軍側の防空体制が固く、効果は僅かでした。
この時の上空援護をI./JG11が担当しました。
この日は連合軍の戦闘爆撃機の出撃数は第8空軍だけで1405
sortiesを数えました。英軍の出撃数は不明ですがほぼ同数と
考えて合計3000sortiesとすると、前掲のドイツ側単座戦闘機
地上攻撃の75sortiesと比較して、出撃比は1:40となります。
Lwは空中戦で善戦しており、戦闘機の損害29機に対して撃墜
数は30機と報告されています。Lwにとって打撃だったのは、
70機撃墜のII./JG2 Gruppenkommandeur H.Huppetzと54機撃墜の
I./JG11 Gruppenkommandeur S.Simschが戦死したことでした。
この後も戦線を支え若手を指導して来た、Expertenの損失
が続きます。
地上ではCaen西方でSS-Panzergrenadier Regiment 25がCanada軍の
Royal Winnipeg Riflesを包囲し、翌日にこれを後退させます。
Rommelの反撃計画はCaen付近の機甲部隊を海岸まで突入後、西進さ
せてOmaha地域の米軍を掃討しながらBayeuxまで進撃し、一方南
からはII.Fallschirmjager-KorpsとI.SS-Panzerkorpsが北上し、
St-Lo付近から米軍地域に突入し、Bayeuxでの合流を目指すもの
でした。
成功すれば上陸部隊が大打撃を受ける可能性が有りましたが、
連合軍側の戦闘爆撃機によって部隊の移動が間に合わなかった為に
、この作戦を進める事ができませんでした。第7軍司令部は、
Heeresgruppe Bを通じて部隊移動時のLwによる上空援護を依頼
しましたが、準備不足の為に不可能と回答があったと言われます。F
この日の夕刻までにOmahaの米軍V Corpsは、西方のIsignyへ進撃を
開始しました。この時点でドイツ側から見て自軍の課題は
IsignyからSt-Loにかけての約35kmの間に散開した歩兵352師団しか
存在しない事で、米英軍が合流してBayeuxから南西方向に
一気に突入した場合、防御線が一気に崩れるところでした。
しかし米軍がまずOmahaとUtahの両軍団の合流を図ったため、
ドイツ側にとって最悪の事態が避けられ、連合軍側から見れば
奇襲上陸の効果を失った逸機と言えます。
6月9日に天候は更に悪化して、英国を拠点とする連合軍側空軍は
早朝から殆んど行動を停止しました。II.Flkpsはようやく戦闘爆撃
機の準備が整い各部隊は離陸を開始しましたが、低い雲と霧雨に妨
げられてこちらも作戦中止を余儀なくされました。
しかし損失は増加し続けました。例えばII./JG53は午前8時に
Cotentin方面へ向けて離陸しましたが、作戦中止して低空飛行で
帰投する途中午前9時前後に、Lorient上空の味方対空砲火の誤射に
より少なくとも3機を失い搭乗員2名が戦死しました。またI./JG26
も午前6時15分前後に、自軍のBoissy-le-Bois基地付近で2機を失い
1名が戦死しました。
夕刻に入ってフランスの天候が回復すると両軍が作戦を再開しました
が、連合軍側では4回に亘り誤射被害が発生し、spitfire 3機
、p51 4機が撃墜されました。
ドイツ側では、III./SG4が午後8時10分に14機を発進させて前日に
引き続きRiva-Bella付近の連合軍部隊を爆撃しました。
その攻撃でKommandeurのGerhart Weyertの搭乗機が帰投しませ
んでしたが彼は負傷した帰還したのみでその後の作戦に参加する事が
できました。夕刻の敵味方の接触でLwの損失は更に増加し、この日
18機を失いました。
9日から10日の夜、D-day後初めて四発機によるLw基地への爆撃が
始まり、Bomber Commandが約400機を以って4箇所:Flers,
Le Mans(I.II./JG1),Lavals(III./SG4),Rennens(I./JG11)を
攻撃しました。これらは何れも上陸地点の南方にあたります。この
地域が選択された理由は不明とされていますが、使用困難の鉄道に
代わって、これらの飛行場にドイツ側が増援部隊を空輸する事を
阻止する為だったという説が有ります。G
1回でも多い出撃が必要なこの時期ですが、これにより
Le MansとLavalsの基地は二日間にわたり使用不能になりました。
地上戦ではCaen地域の英・カ軍の停滞が見られましたが、
Cherbourg港の早期確保へ向けて、米軍VII CorpsがCotentin半島
中部のMontebourgへ向け北上を開始しました。
Rommelは夜の作戦会議で、Cotentinの米軍の背後を衝いて
孤立させあくまでCherbourgを守る決意を強調しました。
ここもドイツ側は兵力不足で、実際にVII Corpsに対峙している
のは歩兵709師団のみでした。従ってもし米軍が北でなく、西に
向けて直進した場合に防御できない為至急増強が必要とされました。
双方とも手探り状態の戦いで、ドイツ軍がどこかで戦力集中に成功
して、海岸までの僅かな距離を逆方向に突進することができれ
ば、連合軍の作戦全体が失敗する可能性が十分に有りました。
ドイツ側はこの時点でCaen地域の4個機甲師団を指揮する
Panzergruppe Westの作戦に期待をかけていました。しかし
連合軍側の無線傍受部隊ULTRAがこの日Caenの南南西25kmの
la Caineに移動した司令部の位置を正確に捕捉する事に成功
しました。
6月10日は天候が回復に向かい、第8空軍の約600機の四発機が
下記の飛行場に対して数十機の編隊による飛行場爆撃を行いまし
た。
6月10日に第8空軍によって爆撃された飛行場
地点
|
攻撃機数
|
投弾量
|
ドイツ側の配属部隊
|
備考
|
Dreux
|
36
|
46
|
IV./JG3
|
|
Chanteaudun
|
45
|
124
|
|
後にMe262配備
|
Nantes/Chateau Bougon
|
55
|
100
|
4./FAGr5?
|
|
Orleans/Pricy
|
66
|
182
|
I./KG40
|
|
Gael
|
37
|
72
|
|
|
Vannes
|
59
|
117
|
II,/JG53
|
|
Conches
|
39
|
101
|
|
|
Evreux/Fauville
|
65
|
165
|
stab,II./JG3
|
|
更に戦闘爆撃機や双発爆撃機も、ドイツ側の飛行場を攻撃すると
ともに補給を絶つために鉄道や道路への攻撃を継続しました。
Evereux、Druexは損害が少なく、作戦継続に支障は有りません
でした。また上表とは別に早朝に戦闘爆撃機による攻撃を受けた
St. Andre de l'Eureは損害が少なかったものの、駐屯していた
III./JG3は危険を考慮して直ちに6km南西のMarcillyへ移動しまし
たが、これに関わらずIII./JG3の16機のBf109は9時55分に作戦を
開始しました。
Vannesは損害が大きく48時間に亘って使用不能となりました。
この日も空戦は午前から21時以降まで継続し、Lw側の出撃
470sorties、損害32機に対し、連合軍側は出撃3500sorties、損害
42機でした。
連合軍側に、約40機の戦闘爆撃機の編隊を迎撃した記録が
残っており、他に数十機の編隊が目撃されている事から、
いくつかのGruppenが合流して作戦を行っていたことが分かります。
Lwは本土防空部隊を中心に19Gruppenを引き抜く計画であり、混乱
の中で6月7日までに14Gruppen:約400機がFranceに到着しまし
た。増援に地上攻撃部隊が含まれない為、6月10日までに戦闘機
の25%に当たる約150機に爆撃用ラックを取り付けて応急の
戦闘爆撃機に改修しましたが、当時のHeeresgruppe Bの命令書にLwの
地上作戦に対する支援が期待できないと明記されるに至っており、
Lwと陸軍の連携不足に対する大きな不満を生じていました。H
連合軍側ではこの日までに数箇所のALG(advanced landing grounds)
と呼ばれる連合軍側の前線飛行場の供用が開始され、1週間後に
いくつかの戦闘機Groupがフランスへ拠点移動しました。これに
より100km以上離れた飛行場から発進するLw側と比べ連合軍側
の作戦はますます有利な展開が可能になりました。
10日の午後Rommelはla CaineのPanzergruppe West司令部を訪れ
応急の会議室として使用されていたバスの中で指揮官のLeo Geyr
freiherr von Schweppenburgと戦況を検討し、機甲部隊による
総攻撃に同意しました。しかしRommelが去った直後、Schweppenburg
に連合軍側の先制攻撃で大きな損害が出て攻勢に必要な戦力集中
が不可能である旨の報告が入り、攻撃準備中止を命令しました。
実際はCaen地域で英カ軍側も大きな損害を出しており、
この時のShwappenburgの判断の適否は議論が残ります。
SchweppenburgはRommelに対し、連合軍側戦闘爆撃機の低空攻撃に
注意する様告げましたが、約1時間後に、40機のtyphoon
と60機のB25 Mitchellが、Chateau de la Caineを攻撃しました。
これによりPanzergruppe Westの参謀長を含む18人の上級将校が
戦死し、Schweppenburg自身も負傷した為、残った幕僚と伴に
一旦Parisへ引き揚げました。この時の通信部隊の損失も大きな
痛手でした。
またRommelがCaen周辺で戦況を視察する写真はいくつか残っており
、彼が戦況挽回の為に前線を絶えず廻っていた事が分かります。
米軍地域では最初にヨーロッパの地を踏んだ第101空挺師団が
Carentanの北方からからドイツ軍を掃討しながら南下を続け、10日
にはCarentanの東方に回り込んだ為に、米V corpsとVII
coprsの連絡を妨げるものは、Carentanに残るドイツ軍のだ
けとなりました。付近に居た歩兵352師団は南方のSt-Lo付近に退い
て防御線を構築する事になり、更に増強の為にAmiens付近に在った
2.SS-Panzer-Divisionをここに移動させて、防御の
穴を埋める事が決定されました。同部隊は6月12日に到着して
St-Loのドイツ軍は強化され、その後大激戦が展開されます。
10日の夜は、RAFの413機の四発爆撃機がAcheres、Durex、
Orleans、Versailles地域の鉄道を爆撃しました。Lwも効果的に
反撃し、RAF側で18機の損失が記録され、Lw側の記録で21機の
撃墜となっています。
6月11日に天候が悪化し、空軍の活動を阻害しましたが、
米第8空軍は予定通りB17、B24による爆撃を決行し機606機が
Conches、Cormeilles、Pernay、Beauvais等の飛行場や、その他の
地上目標を攻撃しました。また鉄道によるドイツ側の増援
の動きが報告された為、戦闘爆撃機に悪い視界を衝いて低高度から
目視攻撃を実行するよう指示が出ました。約1500mの高度から鉄道や
道路網を爆撃しました。
Lw側の活動は少なかったとされていますが、いくつかの空戦が有り
Lwの損失は10機、連合軍側の損失は地上砲火によるものを含めて
27機でした。
II.Flkpsの司令官であるBuelowiusは、引き続き最重要の任務は
敵地上部隊を攻撃する事と判断しましたが、この日はIII./SG4の
稼動機数が遂に4機まで低下し、更にFw190Gが配備されたI./SKG10
を夜間爆撃の為にIX.FlkpsIに転属させる命令が出ました。戦闘
爆撃機の不足に対応するため、Lf.3.は全ての戦闘機に爆撃ラック
を取り付けるよう命令しました。
地上では、Carentanを守備するFallschirm-Jager-Regiment 6が弾薬
不足に苦しみ、Ju52とHe111による空中からの補給が行われました。
(この時期にNormandy方面で活動した輸送部隊として、Luft Vekehr
Gesellschaft Bronkowおよび LVG Mobilが知られています。)
しかしFJR.6は戦力損耗により米軍に防御線を突破される事を
避ける為独断で市街地から撤退して南西の郊外に新たな防御ラインを
築き、この動きにLXXXIV.Armeekorpsの司令部も承認を与えました。
ところが撤退直後に、17.SS-Panzergrenadier-Divisionの司令官が
現れ、同部隊の主力が11日夕刻にLorieからCarentanの増援の為に
到着すると告げたことから食い違いが明白になりました。
後にFJR.6の司令官は17.SS-Panzergrenadier-Div.の到着時期連絡が
無かった為の早期撤退であったと弁明しましたが、LXXXIV.
Armeekorpsと連絡が緊密に行われていたことから、信憑性に乏しく、
彼が戦局の不利に耐えられなかった為の誤断だとの批判が生じまし
た。結局両部隊は翌12日からCarentanを再奪取する作戦を開始しよ
うとします。
一方Caenの北方では、Orne川周辺のBrevilleからSt.Honorineに
かけての地域で英カナダ軍と21Pz.Div.の間で激しい戦闘が続きま
す。この戦闘はIV号戦車10両の戦車中隊の内4両が5分間に吹き
飛ぶと言った激しいものでした。ドイツ軍はIV号戦車の後方に
歩兵が続く隊形で何度か英軍の陣地への突入を試みますが、
戦車が後退する際には歩兵の姿は既に見えず、取り残された
負傷兵の上を乗り越えつつ引き上げると言った状況でした。
夜になると無人となった戦場から、母親を呼ぶ負傷したドイツ側の
若い機動歩兵の泣き声だけが聞こえたと形容されています。
Rommelは戦局を悲観し、この日Keitelに宛てた書簡中で
連合軍の圧倒的な空軍の優勢下で補給が続かず戦局好転の見込み
は無いと述べるに至りました。
しかし、激しい戦闘は未だ始まったばかりであり、この地域への
Michael Wittmanの登場も2日後の6月13日からのことでした。
6月12日までに、Lf.3の損失は大きく362機を失っています。
この日にII.Flkpsの方針は覆されて、Ob.d.L.が戦闘機が爆撃任務を
受け持つことを禁止する命令を発し、爆撃用ラックは取り外される
事になりました。その結果戦闘機の任務は連合側空軍への反撃と
されて、地上攻撃は専ら銃撃で行う事になりました。
指揮権も大きく変更され、II.Flkpsの本部がCompiegneから
後方のChartresに移動し、全戦闘機はII.JKps(Chantilly:Werner
Junck)及びJagdfliegerfuehrer Bretagne(Rennes:Erich Mix)の
指揮下に入る事になりました。I
また爆撃機迎撃専門部隊温存の為、IV./JG3をドイツに戻す
命令が出されました。これが出た理由は、
地上攻撃の経験の無い部隊が爆撃任務を担当する事が無理だと
判断された為と考えられますが更に詳細を調べたい点です。
しかし陸軍からの地上支援の要求は止まず、JG26がWGr21ロケット弾
を地上攻撃に用いる等の試行が続きます。
この日から爆撃機の作戦内容も損失の少ない機雷敷設と円形
自走魚雷の投下に切り替えられ、その後6週間の間に、毎夜60から70
sortiesの作戦が行われて、3000から4000個の機雷が投下されま
した。この作戦は連合軍側の物資補給に遅れをもたらしましたが、
容易にわかるように戦局に大きな影響を与えるようなものでは有り
ませんでした。
またErhard Milchによって長く準備が進められていたV1 flying
がついにこの日の夕刻、実戦発射に漕ぎ着け、10発がLondonへ向け
飛び立ちました。4発が直後に墜落し6発が飛行に成功しましたが
2発が行方不明になり、Londonに到着した4発の内、1発は
鉄道橋に命中し、3発が市街地を破壊しました。
余りにも有名なV1ですが少し説明を付け加えると現代の巡航ミサ
イルのさきがけで、全長7.9m、全幅5.37m、全高1.42m、全重量
2.15tの比較的小型の機体に推力300kgのArgus As 14パルスジェッ
トエンジンが取り付けられていました。弾頭重量830kg、飛行速度
656km/時、射程240kmなので、3発目標に到達すると連合軍の四発
爆撃機1sorties分の威力が有りました。
戦後、英軍がV1の価格を見積りました。1発当り120ポンド前後で
Lancaster爆撃機に爆弾、燃料をフル積載する費用とほぼ同等と
されています。爆撃機は再出撃可能で、行動半径が大きく、攻撃精度
も勝りますが、V1は乗務員が不要だという利点が大きく
費用対効果の良い、Milch好みの兵器でした。(ちなみにV2は一発
約6500ポンドとされており、コストはV1が遥かに優れていまし
た。)
発射サイトは三種類知られており、最も初期のものはlarge site
と呼ばれV2ロケットとの共用を予定していました。
2箇所がCotentin半島、5箇所がCalai付近に作られました。
連合軍がこのサイトの使用目的を知る事ができませんでしたが、
ロケット計画と関連すると考えられたので、約8000tの爆弾を投下
してこれらを破壊し、ここからV1が発射される事は有りませんでし
た。
2番目のものは、V1を貯蔵する建物の片側端の彎曲形状から
ski siteと呼ばれ、1943年末までに96箇所が作られました。この
建築には捕虜等の強制労働者が動員されましたが、彼等から
位置情報が連合軍側の諜報機関に伝えられ、Crossbow作戦に
より1944年5月末までに82箇所が破壊されました。
ドイツ側も1943年末にはski siteが連合軍側の攻撃への抗甚性
が足りない判断して計画を放棄し、一部は連合軍側
の攻撃をひきつけるdammyとして用いられました。
実戦発射に用いられたのはmodified siteと呼ばれる小規模
siteでした。コンクリートべース、プレハブ方式の建物と
発進用レールから成り、3から4日と言う短期間で建造されました。
1944年初めに64箇所が設置されましたが、連合軍側は
使用目的を1944年4月まで知る事ができず、実際に爆撃が開始され
たのは7月に入ってからでした。しかし規模が小さく、掩蔽も巧み
だったので攻撃は殆ど成功しませんでした。
発射はLwのFlak-Regiment 155 (W)が担当し、12日夜の攻撃は
Pas de Calais地域から行われました。直後の設備不調によりこの
日は10発の発射で終わりましたが、2日後に整備完了して244発が
発射され、6月22日までに1000発がLondonへ向けて飛び立ちました
。しかしこの時点でMilchは失脚しており、彼の労が報いられる事
は有りませんでした。
視点をNormandy地域に戻すと6月12日に19箇所の飛行場が攻撃を受
けます。また激しい空中戦が起きた場所が徐々に東方のLwの拠点地域
へ移行しており、連合軍側のLwが上陸地域へ侵入する事を阻止する
作戦が成功しつつある事を意味します。

Lw側は基地防空に力を削がれると共に、攻撃の為に集結した50から
60機の中から護衛に戦力を割く必要が有り、実際に地上攻撃に投入
できる機数は10から15機に減ってしまうと言う状況に陥りました。
このようにドイツ側の作戦が困難だった理由の一つは、前述のように
連合軍側が暗号解読により部隊の配備、移動情報を掴んでいた事と
、個別の攻撃、偵察、機雷敷設等の作戦行動を細かく察知して対応
準備を整えた事が有ります。
一例を挙げると17.SS PzGrがCarentan奪回の為の作戦を12日の朝
開始する計画でしたが、12日13時からのLwによる同地域への爆撃を
先行させる為に同日15時からの行動開始に変更しました。この情報を
連合軍側は12日13時16分に入手して反撃態勢を取りました。
結局準備の遅れによって、実際には13日朝から地上作戦が始まり
ましたが、電話通信網の遮断からLw側の作戦変更は間に合わず。12日
の爆撃は効果の薄いものになりましたJ。
この日のLwの損害は50機にのぼり、連合軍側は43機を失いました。
また連合軍側はドイツ側の燃料弾薬の集積場の情報を入手して
爆撃を加えました。更に連日の作戦よる大きな消費によりLwは6月末
に掛けて徐々に燃料不足が深刻な状況になってゆきました
6月13日から19日までの1週間もLwの損失は大きく232機にのぼりま
した。
圧倒的な劣勢にも関わらず、Lwが敢闘した戦闘の激しさは
Luftwaffe1935-1945のdiscussion boardの書き込みから
察する事ができます。
ここで1944年6月22日の戦闘でP47を撃墜したIII/JG54の3人のパイ
ロット達は8月5日までに全員戦死しています。
discussion board を見る
ここで一旦 Normandy2を終了し、Cherbourgを巡る攻防からParis
開放までの状況をNormandy3として説明します。
@G.A. Harrison CROSS-CHANNEL ATTACK p275
AD.Caldwell JG26 p230
BA.Price The Last year of the Luftwaffe p57
CG.A. Harrison CROSS-CHANNEL ATTACK p266-p267
D
E参考文献15 p208
FUnited States Army Historical Division War Department
OMAHA BEACHHEAD p135
GM.Middlebrook The Bomber Command War Diaries p525
HD.Isby Fighting in Normady p112
ID.Caldwell JG26 p273
JR.BENNETT ULTRA in the WEST p72
Normandy3へ続く
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