Luftwaffe RLM colours 81, 82 & 83:
A Commentary on their Evolution and Usage


part1


By David E. Brown
Experten Historical Aviation Research, Inc.
Bedford, Nova Scotia, Canada

日本語版 


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Copyright (c) 1998, David E. Brown. All rights reserved. Material appearing within this document may not be copied, stored or reproduced in any device or publication, in whole or in part, for the purpose of profit without the expressed written consent of the author. This material may be used for personal use and the free exchange of information if appropriate credit is given to the author.

   
日本語版 by N Dejima

  序文
  他の多くの方々と同様、LWの大戦末期のRLMカラー番号81、82、83に
   まつわる明らかな複雑さや矛盾に関して私自身も混乱して来ました。
   異なった見解の間でさまよう事はもうやめようと考えて、これらに関して
   発行された全ての資料を1つに編集することで、時系列的に事実を
   整理しようと決心しました。
   この文書は私の個人的使用の為であり、多くの記録やコメントや引用
   (その補足を含む)の大筋を整理したものです。

   作成に当たり、私は手に入る資料や文書を調査し、更にLW
   とRLMの命令の日付と内容及び、連合側情報機関の撃墜機報告書を
   確認しました。
   そしてその中から大戦末期の迷彩色を引用し、更に自分のコメント、
   説明、疑問を付け加えました。
   読者の方々にとっては一次資料を自分の手元に置き、これらの色の性状
   や使用状況について、自分自身の結論を導き出す事が最も満足できる
   と信じます。その際、私や他の研究者の説明をどこまで考慮するか
   は、皆さんの選択にお任せしたいと思います。
   更に読者の皆さんの便宜の為に1996年にインターネットdiscussion 
   groupで紹介された私のRLM84に関する意見を加えました。

   最後に:「事実に対する、いくつかの解釈の内の一つ。」と言うことが
   この文章の位置付けです。
   このテーマに対する最終結論では決して有りません。 それでは楽しん
   でください。
   __________________________________________________________________

  Notes
   1) 下に示したのはこのテキストで用いているドイツ語の単語の意味
    です:

  - Luft Druckvorschiften :航空機用サービスマニュアル
  - Oberflachenschutzliste: 迷彩パターン
  - Reichsluftministerium RLM :航空省
  - Sammelmitteilung :規程集
  - Versuchsnummer :テスト又は実験番号
  - Werknummer:ヴェルク番号 (訳注:垂直安定板に書かれた機体の製造番号)

   2)1980年の指標的な書籍である"The Official Monogram Painting
    Guide to Luftwaffe Aircraft"の出版に引き続き、著者である
    Kenneth Merrick and Thomas Hitchcockは彼らがRLM82と83
   について本文中で述べた事を事実上覆しました。引き続く”訂正と
   削除”シートの中で以下のように述べています。

   この本の出版後も著者は、いわゆる末期の色である81,82,83の
   三種の真の色調に関して決定的な公式記録を発見する事が出来
   なかった。しかし全ての資料の多くの証拠から、81はブラウンバイオ
   レット、82は明緑色、83は暗緑色だったと考えられる。
   但しこれが三種の末期色の実際の色調に付いては、航空機の
   さまざまな塗装パターンによって、異なった意見があることを否定
   するものではない。
   

"基礎" November 1941 - July 1943

November 1941
Luft Druckvorschiften L.Dv.521/1:

  この52ページの包括的な文書はRLMによって発行され、1940年6月
  以降実施されたルフトバッフェの迷彩の変更を正式化しました。この
  重要な文書はさまざまな用途のドイツ機に対して用いられた指定
  の迷彩色をリスト化しています。(Smith and Gallaspy, 19
  76, p.45):

  a) 練習機の迷彩(特別な色の指定はない,しかし前に
   述べたように無塗装銀は禁止されている。)
  b) 戦闘機の使用色(74, 75, 76, 65)
  c) 駆逐機の使用色(同上)
  d) 爆撃機、輸送機の使用色(70, 71, 65)
  e) 海洋作戦機の使用色(72, 73, 65)
  f) 熱帯地域作戦機の使用色(78, 79, 80)

  L.Dv.521/1が発行された後は、暫く安定が続き、2年半以上は
  全てのLuftwaffeの航空機の迷彩は殆ど変化を生じませんで
  した。 一方1941年11月に先立つ期間はLWにとってはっきりした変化
  が生じた時期です。それは1940年7月以降海上の作戦が活発化して、
  効果的な迷彩が緊急に必要とされた為です(訳注:もちろん
  Battle of Britainの事です)。
  英国で撃墜された戦闘機には、地域の部隊が保有していたLWの塗料
  と、その時点で使うことができた捕獲したフランス製塗料を混合した、と
  信じられている多くの灰色の迷彩が確認されています
   (Merrick and Hitchcock,1980, pp.22, 24)。
   興味深い事に, この迷彩の規定は1941年11月に出たにもかかわらず
  、 74/75/76のパターンがこの年の春に Fw 190 As とBf 109 Fで確認
  されています。
  この組み合わせの正式迷彩パターンは、同じ年の6月24日と8月15日
  にそれぞれ発行され、一方Bf109Gに対しては1942年8月18日に発行
  されています (Merrick and Hitchcock,1980, p.24, 27)。


"計画" August 1943 - June 1944 "

August 21, 1943
Message GL/C-E 10 Nr.10585/43 (IVE) Az.82b 10

  RLMはこの文書において新しい迷彩色の緊急の導入を公表しました。

  (訳注:全体の文脈から明らかですが、この重要な文書の原文は
   未発見です。単に他の文書で引用されていることから存在
   が確認されています。しかし旧共産圏で保管されていた
   ものが今後出てくる可能性があります。)

  このメッセージは1944年7月1日の規定集No1で以下のように、引用
  されています。 (Smith and Gallaspy, 1977, p.95):


  迷彩色81と82を急ぎ導入して70と71に置きかえることはメッセージ
  GL/C-E 10 Nr.10585/43 (IVE) Az.82b 10 of 21st August
  1943により公表された。

  このメッセージの内容は、2つの色彩81,82の番号指示だけです。
  尚これまで出版された文献上で、この2つの色彩について
  公式な色名称とカラーチャートやチップが存在しなかったと言わ
  れていますが、著者はとてもそうは思えません。

  (訳注:ここのところをMr.Brownに確認しましたが、何らかの未発見
   文書により、実際には色調の規定がされていた可能性が高いと
   考えており、彼とその友人達は、調査を進めているようです。)


April 1944
Oberflachenschutzliste 8 Os 163B

  この文書はこれまで未発見です。しかしこの機種の為に書き上げら
  れて、発行されたことは疑い有りません。どのような色が記載されて
  いたか不明確ですが、当時の戦闘機迷彩色だった74/75/76
  だったと思われます。 最初のMe163が作戦テスト部隊である
  (Erprobungskommando)Ekdo16に1943年12月24日と31日に引き
  渡された後 (Spaete, 1989, pp.197)、習熟の為の時期を経て、
  I./JG 400 が1944年5月1日に編成されました。
  しかし機体の引渡しは大変遅れ、5月に1機6月に3機7月に12機の
  ペースでした。Me163Bの連続生産は1944年4月に開始されたよう
  です (Spaete, ibid., p.217)。

  Me163Bのゆっくりした生産と引渡しは、最初の引渡し (1943年
  12月)から、生産の終了(1945年2月)までにさまざまな迷彩色が
  存在する原因となりました。
  出版された多くの写真とその他の文書から、殆どのEKDO16の機体
  はMe163BV(V:試作機)で、多くが迷彩ではなくRLM02、もしくは
  RLM76(こちらの可能性が高い)で塗装されてたことが知られ
  ています。その他の機体は、主翼上面が大変暗く明度差の少ない
  塗り分けであり、74/75グレーでは無く70/71濃緑色だったようです。
  胴体は76の上に75でモットリングされていたと考えられています。

  多くの写真が存在する”白05”の機体は、同様に塗装された他の
  EK16の機体と同様にウェルク番号が無い事から、Me163BV中の
  1機だっと考えられています。
  写真から全ての試作機は一度は尾部に黒文字の試験番号を
  描かれていたことが分かりますが、これらの暗い色彩の機体の尾部
  にはそれが有りません。
  このことからもし機体が当初全体65、或いはその後の76で塗装されて
  で直接部隊に渡されたとしても、部隊で迷彩塗装された時に番号が
  塗りつぶされたと考えられます。

  Me163の生産は徐々に増加し、中間的な明度差の74/75/76の組み
  合わせが出現します。その組み合わせ(またはそのバリエーション)の
  機体が存在したことはレストアの際の文書に残されていて、忠実に再現
  されています (Merrick and Hitchcock, 1980, pp.48-49)。
  また81/83の組み合わせで塗装されたMe163の写真による証拠も存在
  します (Merrick and Hitchcock, 1980, p.50; Sheflin, 1983,
  pp.18-19)。 残された疑問は、この後期の色彩への変更がいつ
  行われて、それが正式に文書化されたかどうかです。
  この変更が1945年2月より遅い事はありえません、なぜなら機体の
  生産がこの月にトータル364機で終了してEkdo.16, I. II. と
  IV./JG 400 and IV./EJG 1へ引き渡されているからです (Smith
  and Kay, 1972)。この変更を認める命令は1944年末から1945年
  初期に出されたものと考えられています。


June 16, 1944
Oberflachenschutzliste 8 Os 234C

  この文書はアラド社によって作成され、RLMにより承認されています。
  これによると4発爆撃偵察機Ar234Cは緑70/71/65迷彩色の組み
  合わせで塗装するよう指定されています (Smith and Creek, 1994,
  pp.247-249)。

  その任務に合わせてAr234爆撃機は承認された70/71/65で塗装
  されることになっていました。しかし直後の1944年7月1日に(下を
  見てください)RLMは新しい緑である81/82の組み合わせに変更
  するよう指示をしています。
  しかし生産が続く間、殆どのAr234は旧い70/71の色彩で塗装
  されていました (Smith and Creek, 1994, p.247)。
  上の指示は4発であるAr234Cシリーズに対するものでしたが、写真
  では双発のB型も同じパターンで塗装されており、単に前者が翼下
  の対になったエンジンに合わたパターンであったことが僅かな相違
  点でした (Smith and Creek, 1994, p.247)。


June 17, 1944
Oberflachenschutzliste 8 Os 262A

  この文書はメッサーシュミット社が作成し、RLMによって承認されまし
  たがMe262Aに対してグレイ74/75/76の組み合わせを用いるよう指定
  したと考えられます (Merrick and Hitchcock, 1980, p.46)。

  Me262は戦闘爆撃機として考えれていたため、RLMは当時一般的
  だったグレイ74/75/76迷彩を許可しています。
  上のAr234は爆撃偵察機として使用されることになっており、
  緑70/71/65の組み合わせでが指定されました。
  著者が知る限りでは74/75/76 Me 262 Os 8 の迷彩図のコピーは
  これまで発見されていません。
  出版物上で、この組み合わせを指定する全ての迷彩図面は写真
  の調査に基づくものです。


"The Die is Cast" July - August, 1944


July 1, 1944
Sammelmitteilung Nr. 1
  この文書はRLMの技術部(GL/C-10 IV E)により発行され、LWの
  塗装とマーキングに重要な影響を与えたいくつかの命令を含んで
  います。また上の1943年8月21日のメッセージを参照しています
  (Smith and Gallaspy, 1977, pp.95-96)
  この文書はカラー83に最初に言及しており、その記載内容から考えて
  カラー83が航空機の製造の指導層に既に有る期間認知されていた
  ことは疑い有りません (Merrick and Hitchcock, 1980, p.32)。

  迷彩色81と82を急ぎ導入して70と71に置きかえることはメッセージ
  GL/C-E 10 Nr.10585/43 (IVE) Az.82b 10 of 21st August
  1943により公表された。
  これらのカラーの導入は以下のように説明されている。

  1)カラー70,71が適用される任務の為の全ての新機種は今後カラ
   ー81,82で塗装されなければならない。
  2)現在生産されているカラー70,71の機種は出来るだけ早くカラー
    81,82に変更されなければならない。
    現在使用可能の70,71の在庫はそのまま使い切ってよい。
    しかし両色を同時に使い切らない事が予想されるので、
    少量の70,71を再発注が必要になることを防止する為、
    残量を以下の組み合わせで使用することを承認する。

    カラー82を70と共に用いる事(71を置きかえる)
    カラー81を71と共に用いる事(70を置き換える)

    もしどちらかの色の在庫が多く、規定された迷彩の実施が
    はなはなだしく遅れる場合は、 在庫を外注業者か、社内の
    工場か、他の航空機製造者に売却する努力が払われなけれ
    ばならない。

  3)この色彩の適用方法(モットリング)に変更は無い。
  4)航空機製造工場側は色彩変更の際にその事と、変更された
    迷彩パターンをGL/C-E 10 IV(技術部)へ報告しなければ
    ならない。

  RLM色81,82に対する色見本の配布は現在不可能である。
  従って正しい色調に対する確認を省略してよい。

  ポイント1で特に重要な注意点は新しい81/82パターンを
  使用するよう計画された範囲です。これまでは研究者が過大
  に考えてきました。この命令が出された時点で、旧い70/71
  色で仕上げられていた航空機は爆撃機と輸送機に過ぎません。
  なぜなら1941年11月(もしくはそれ以前)から、戦闘機と駆逐機
  は74/75/76/65の色で塗装されたからです。
  7月1日の命令は明瞭に「カラー70,71が適用される任務を
  目的とする全ての新機種」だけに言及しており、それは結局
  爆撃機と輸送機を意味します。
  戦闘機と81/82色については述べられていません。
  逆説的ですが、殆どの新規生産のAr234Bジェット爆撃機が70
  /71の組み合わせで1945年4月の終了時まで生産された明らか
  な証拠があります。恐らく旧い塗料を(アラド社により確保され
  ていた為に)使い切る事が無く、新色が必要としなかったのでしょう。
  この例や、他の同様の事情を考えると、戦闘機に新しい81/82の
  色を塗るよう決定が成されたのは一体いつだったのかという疑問
  が生じます。またそれはなぜだったのでしょうか。

  もう一つの重要な81と82に関係する手がかりはポイント2にあり
  ます。二つの旧い色である70と71で、暗い色調が前者で、明る
  いのは後者です。その二つの明度差は限られた範囲ですが、
  目で確認することができます。
  70/71と81/82の組み合わせに関する上の指示は二つの色の
  81が暗い色調で、82が明るい色調であることを示しています。
  このことから二つの色の内容を理解することができます。
  ポイント3はRLMが迷彩色の変更をできるだけ混乱無く進めよう
  としていた事を強く示唆しています。

  ポイント4から我々は一つの機種に対していくつかの公式迷彩図
  が存在したのではないかと考えます。
  :つまり一つの標準といくつかの修正された迷彩図という意味です
  。すべての迷彩図が分かっていなければ、正しい迷彩パターン
  だったかどうかを一つに決定ことができなくなります。

  カラー83はその存在をこの命令から確認することができますが、
  RLM83の色名称が疑い無く暗緑色であると特定できる公式書類
  は未だ発見されていません。 (訳注:これらの色の)相互関係は
  写真や墜落機の報告書や残存機の比較報告書や機体の破片等
  を研究解釈することで得られたものです。 (Smith and Creek,
  1994, p.247; Smith and Gallaspy, 1977, pp.134, 136-137).
  興味深いことに Hitchcock (1983, p.13) ではカラー83は公式に
  は緑と記録されていると述べています。

  戦争が進むにつれてこの濃緑色の使用が一般的になります。
  恐らくグレーグリーン74の在庫切れが考えられているより早く発生
  し、その時点で迷彩パターンを何も変更すること無しに色74に
  代わって色83で置きかえるよう、RLMが命令したと考えられます。
  このことが、Bf109とFw190戦闘機に対するこの色を(単独で)表現
  する迷彩図が発見されない理由を説明しているのかも知れません。
  実際RLMは混乱を避けるためになにも発行しなかったのでしょう。
  75/83の組み合わせは後の81/82に至るまでの長期間の経過処置
  だったのでしょうか?
  或いは戦闘機に81/82を使用することは、爆撃機の生産が打ち切ら
  れた後で塗料のストックを使い切るための方策だったのでしょうか?

  75/83の組み合わせが最初に用いられたのはBf109とFw190
  戦闘機(もしくはその派生機種)だったことは明らかです。
  戦闘機の生産に対する要求が1943年末以降急激に高まった事と、
  結果として生産の単純化と時間短縮を必要としたことはこれらの
  機体の迷彩色に明らかな影響を与えたに違いありません。
  上の文書からRLM技術部自身が色81と82に対する正しい色見本
  カードを供給できない事を認めています(この時未だRLMによる
  命名が無い事に注意して下さい)。
  そのため恐らく航空機製作会社自身により行われる筈だった、協力
  工場から塗料を受け取った時点での色調の正確さの検査は削除
  されるか不要とされたました。 
  また提出されたこの新色の色調の違いが大きかったので、RLM
  は色名をつけることができなかった(或いは敢えてそうしなかった)
  のでしょう。しかし引き続いた文書で塗料メーカーまたは航空機
  製造者またはその両者が手持ち分に対して調合を安定させる
  ために(訳注:色名を)決定することを求めています。
  このことが現在多くの色名がある理由かもしれません。

  最後に触れておきたいのは、RLMがこの新い色を導入した時の
  事情が、1941年11月のL.Dv.521/1の場合と全く同じだと言う事
  です。ここで新色74,75,76の色見本は含まれていましたが、
  78,79,80(そして77)は色の指定と使用方法の指示だけで、色見本
  は含まれませんでした (Smith and Gallaspy,1977, pp.45-46)!
  グレーの組み合わせは少なくとも1941年3月から使用されたことが
  証明されていますが(Merrick and Hitchcock 1980, p.24),
  新しい砂漠色は同年の末までに北アフリカに導入されました (ibid.,
  p.100)。



August 15, 1944
Sammelmitteilung Nr. 2:

  この文書はここに書かれた日付で公式発行され以下の文節を
  含んでいます (Smith and Gallaspy, 1977, pp.96, 125, 129):

  応急的な昼間用仕上げである7126.76が導入されて7126.65は置き
  換えられた。新しい青色仕上げは恒久的な夜間仕上げがされた
  航空機を昼間任務の為に再迷彩する為に用いられる。
  マークを塗りつぶす必要はない。仕上げは刷毛塗りによるため、マス
  キングテープの使用が必要である。

  注意:7126.76は主に部隊レベルで使用する為のものである。迷彩
  色と航空機への適用方法は最近完全に見なおされた。迷彩図を
  作成する工場はT後ほどravemunde試験所から必要な情報を全て
  含んだ迷彩指示書を受け取る。
  指示書が発行された後は他の色調や図案の使用は禁止する。
  実戦部隊からの特別な提案であっても実施の為には
  Travemunde試験所の正式許可を必要とする。
  この見なおし以後、65,70,71,74は使用しない。但し色70は金属
  プロペラ用として使用を認める。

  国籍マークの形状と使用方法は3種の新しい色の存在と共に述べ
  られているので興味があります(Smith and Gallaspy, 1977, p.129):

  単純化と経済的配慮等から繰り返し指示があったにもにも拘わらず、
  十字章とスワスチカの表示はまだ従来通りに行われてきた。
  今後は十字章の外形線とスワスチカの黒部分と白い周辺部は以下の
  様に塗られる。

  明るい色76と21の上では(例えば雪上迷彩)十字章の黒い外形線と
  黒いスワスチカを描く。暗い色72,73,75,81,82,83の上では白で
  十字章とスワスチカの外形線を描く。

  1944年8月になってもRLMの技術部は未だ正式な迷彩色の見本を
  迷彩図を作成する企業へ送ることができませんでした。このことは
  図が別々の会社で作成されて全てが完成後に塗料メーカーと航空機
  製作者に送られた事を示しているようです。
  補給と経済の悪化状況の下でこれがいつまで続いたのか?
  という疑問を誰しもが持っています。
  しかしながら塗料メーカーがこの図を受け取る前に迷彩の色調のばら
  つきが塗料の質の低下を伴って拡大してしまったようです。

  またここで改めて色65,70,71,74の使用を禁止するよう命令して
  います。これは単に先の7月1日の命令の繰り返しなのでしょうか?
  それとも製造者はその命令を無視したのでしょうか?または
  これらの色は既に残り少なくなって、色81,82の使用が広範囲に
  一般化していたのでしょうか?
  後段は国籍マークの簡単化に関する命令で、特にこれらの(訳注:
  旧い)色を排除して、81,82,83を共に、驚いた事に「暗い」色と呼ん
  でいます。83に対するこの言及はFw190が新しいグレーと緑の
  組み合わせで塗装されていて、83がより暗かったグレーグリーン74
  の置き換えになっていることと一致しています (Aders, 1986,
  pp.22-23;Merrick and Hitchcock, 1980, p.32)。

  そろそろRLM84として非公式に呼ばれている色の議論をしても
  良いと思います。
  RLM84と言う呼び方は公式でなく、この呼び方が続くと考えるべき
  では有りません。
  この名称は、グリーンブルーからグレーブルーに至る、戦闘機を
  中心としたドイツ機の下面に用いられた4種の明るい色を記述
  する為に、1980年代前半に始めて文献に現れました。
  これらの色は最初Merrick and Hitchcock (1980) により紹介され
  実際の4色の見本が提示されましたが、RLMの正式名称は示され
  ませんでした。

  RLM84の名称はIvie and Sheflin (1985).が彼らの著述の中で
  最初に用いました。その中で彼らは、多くの写真の説明やある
  Fw190D-9のカラープロファイル/写真のスカイカラーの例に
  おいて「...84、いくつかの軍用機に見られる文書化されていない
  ブルーグレー下面色。」(p6);「文書化されていない下面色84」
  (p9);最後には「下面は文書化されなかったブルーグレーで塗装
  されることになっていたと信じられている(仮に84の番号を与える)
  。この色の見本は戦後にいくつかのLWの航空機から採取されて
  いる。」(p31)と繰り返し述べています。
  Sheflinは書簡の(個人的通信、1996)中で、RLM84の呼び名は
  (上の引用にあるように)仮のものであり、MerrickとHitchcock
  が観察確認したこれらの色調を、その当時知られていた大戦後期
  のLWの迷彩色やRLMによる命名法にうまく当てはめるための
  個人的試みだった事を認めています。
  ともかくこれは公式文書に基づくものでは有りませんでした。

  強調したいのですが、Kenneth Merrick とTom Hitchcockが
  1980年にMonogram Painting Guideを著した以降、特に色84
  について述べたLW公式文書は、多くの研究者が調査したにも
  拘わらず一つも発見されていません。
  これらの色(或いは関連色)が大戦末期に広範囲に系統的に
  使用されたことは疑いの無い事であり、最も重要なことに、戦闘機
  または関連機種だけで発見されています。
  しかし全ての塗装図と指示書(Oberflacheshutzliste or
   Os-liste) は、それに従って塗装される機体の下面はRLM76
  又は無塗装にするよう述べています。
  実際1945年2月23日に発行された最後のMe262用塗装図である
  「8-262 A-1」では新しい81/82/76の組み合わせをMe262に
  用いる事を指示しており、その色をカラー文書によって、81を
  ブラウンバイオレット、82をヘルグリーン。下面色を76ライト
  ブルーと名づけています (Merrick and Hitchcock, 1980,
  p.47; Smith and Creek, 1983, p.20; Radinger and Schick,
   1993, p.110)。もし新しい下面色が公式に導入されたとしても、
  その使用は降伏までに航空機が生産、回収される以後8週間に
  限定されると思われます。

  これらの多種の下面色の起源については2つの説が考え
  られます。一つは4種のスカイ色はRLMが意図的に導入したもの
  ではなく、RLM76の品質不良の例だと言うものです。
  当時のドイツ経済が被っていた極端な圧力及び部品製造と
  最終組み立ての分散及び原材料の不足の為に、材料の
  置き換えと、使用範囲の拡大が大幅に検討、実施されて
  いました。
  塗料に対しても、顔料と染料の変更(無機材からより安定度
  の低い有機材へ)、下塗り材の質を落とすこと、プライマーを
  迷彩色に使用すること、コーティング回数を減らすこと、
  プライマー処理を止めること、特定個所を無塗装で残す事
  等が実施されました。
  このようなシステム上の制約が1944年から発生したことを
  考えれば、何かの関連があると言っても良いでしょう。
  爆撃機の計画が1944年半ばで取り消された後、RLM65,70,
  71,72,73を含む良質の塗料の大量の在庫が発生しました。
  RLMは賢明にも手持ちの在庫とその他の色(つまりRLM75)
  を使い切るか新しく導入された色と組み合わせて使用する
  よう命令しました。
  迷彩パターンの文書やDo335、He162,Me163等から採集
  された見本からこの事を確認する事ができます。

  もう一つの説明はこれらの下面色は、84と呼ばれる筈だった
  新しいRLM色のバリエーションだったと言うものです。
  予感から出たものだったにせよ、Ivie and Sheflin (1985)の
  これらの色の定義についての推定は正しかったのかもしれ
  ません。
  公式文書は発行されていませんが、これらの色は大戦末期
  の機体において、数多く確認されています。
  RLMが新しい迷彩色の組み合わせを導入する時は新しい
  下面色を含んでいたことを考えると:つまり74/75/76(ライト
  ブルー)、そして78(ヒンメルブルー)/79/80のような場合
  です。81/82/83の迷彩色が新しい下面色を含んだ可能性が
  無い訳では有りません。それが84だったのでしょうか?
  この色の導入が大変遅かったことと、文書が無い事はこの塗料
  がテスト中だったか、色が実験中だった事を示しているので
  しょうか?

  どのような状態であったにせよ、このスカイカラー(とその変種
  が)どのように作られたかは疑問が残ります。
  これは非戦略物質を用いた全く新しい色かもしれませんし、
  旧いRLM色の混合物かもしれません、また他の新しい色81,
  82の為の下面色だったのかもしれません。
  Merrick and Hitchcock (1980) が書いたように、この
  下面色には少なくとも4種(或いはそれ以上の)変種が
  あり、著者(RLMでなく)は「グリーンブルー」、「グリーン
  ブルー」、「グリーンブルー」、「ライトブルー」と表記して
  います。公式に「ライトブルー」又は「ホワイトブルー」として
  知られているRLM76のロット間において、このようなばらつきが
  生じる事は良くありました。
  この色の変化は間違い無く、塗料製造者は大戦末期において
  正しい原材料を入手して製造中の品質管理を維持することが
  困難に成ったことの結果です。
  塗料の色を公式の色調に合わせることが出来ないということは
  すぐに入手できる原材料、言いかえるとRLM色65,70,71,72,
  73を用いて、正しい色調に近似させなければならないことを
  意味するかもしれません。
  薄められたRLM02と明るくされたRLM65とを混合すると手品が
  できるのでしょうか?又はプライマー塗料が65の代りに用い
  られたのでしょうか?薄めて白味を強くした65に少し71を
  加えたら?72では?73では?
  可能な混合の組み合わせと比率は作られた航空機の数だけ
  有ります。

  この色がどこで、いつ、どのように、誰によって作られた
  かは分かっていません。研究者は「84」と書かれた文書を一つも
  発見していませんが、指定されたRLM76とは異なったいくつかの
  下面色が大戦の最後の数ヶ月にドイツ戦闘機に対して製造者に
  よって(或いは分散されたサブアッセンブリーメーカーによって)
  使用された事実が残っています。
  私は、色を特定する目的から考えて、現在ある情報に基けば、
  これらの色はRLM84と呼ばれていなかったと信じています。
  ここではMerrick and Hitchcock (1980)によって上のように
  それぞれにつけられた色名称を用いて、「大戦末期下面色
  XXXXXバリエーション」と呼ぶことを提案したいと思います。この
  用語を用いる事で、新しい研究とその結果がこれらの魅力的な
  色調に関する疑問を最終的に解明するまで状況を明確にする
  ことができるのでは無いでしょうか?

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"Reality Strikes" September - October, 1944


September 13, 1944
Oberflachenschutzliste 8 Os 155:

  Blohm & VossによりリリースされてRLMにより承認された
  文書によるグリーン81/82の迷彩色をBV155に使用する指示
  です。色名は「オリーブグリーン81」と「ヘルグリーン82」でした。
  下がこの文書の正確な翻訳です。Kenneth Merrickのご好意
  によります。
.
  Sch/01 Advance announcement B&V 13 Sept. 1944
  Camouflage BV155
  Travermunde試験所の専門家が以下の指令を出して
  いる。

  BV155は81オリーブブラウンと82ライトグリーンの上面塗装を
  施す。モットリングの間隔と場所はBf109の迷彩と同じとする。
  胴体側面、垂直尾翼の側面、主翼と水平尾翼の前縁は
  色76を塗装する(名称は示されていない)。
  その後で主翼と水平安定板の前縁を除いて,81と82を用いて
  機体に雲状の上塗りを施す。
  また塗装の図柄は単純化される予定であり、それは近日中に
  連絡、公開される。
  今後昼間に使用される上記の機種では下面の迷彩を省略
  する。

  モットリングは、迷彩(訳注:上面の色81と82の部分)と塗装の
  線(訳注:色76)の線の中間の、航空機の金属薄板の上に
  施される。パターンは柔らかい曲線状とする。
  色の分割パターンの塗り分けは現在の方法にて、吹きつけで
  行う。もしパテ仕上げ(航空機パテ7270.99)を施す場合は、
  塗装の境界を越えた金属露出個所に行う。
  金属露出個所は通常の方法で磨き仕上げを行い、パテの上
  には迷彩を行わない。
  下面は経済性の確保の為に無塗装とする。
  
  機体表面保護材料テスト部門発行

  ここに書かれている事は、この時期の迷彩文書の完全な例だと
  私は信じています。重要なことは色81と82の使用が初めて指示
  されており、これらの色名の指定が製造者により行われた証拠
  が含まれている事です。輸送供給が破綻しており、この早い時期
  であっても、下面を無塗装にする事が指示されています。
  もう一つ注意しなければならないことがあります。
  オリーブブラウンというのは、実際は余剰があったRLM80
  オリーブブラウンで、まだ公式に明確にされていなかった
  RLM81の代りとして使おうとした可能性は無いのでしょうか、


September 1944
Factory Camouflage Directive, Fw 190 A:
  この文書と関連する命令書は(恐らく文書だけで、迷彩図はついて
  いないと思われる)Fw190D-9に対する75/83の組み合わせ
  の指示と併せて存在した可能性が高いものです。

  Doraの最初の作戦行動は1944年10月の初めに、V/JG54により
  行われ、その機体は写真による証拠から、75/83で塗装されていた
  ことがわかります(Smith and Creek,1986,p.10)。しかし1945年
  初めに迷彩色の変化があり、標準の75/83から81/82の組み合わせ
  に変化しましたがが、多くの中間的な組み合わせが存在したよう
  です(例えば、81/83、82/83、75/81等)。さらにJumo213エンジン
  の組み立てとRLM83(又は71)で仕上げる場所が離れていた事も
  迷彩を一層複雑にしていました。



October 1944
Oberflachenschutzliste 8 Os 109K:

  この文書はMesserschmittによって発行されRLMに承認され
  ました。ここでは74/75/76の迷彩の組みあわせをBf109Kに
  使用するように指示されています
  (Hitchcock, 1979, p.18-19)。

  この文書の存在は他の文書を通じてだけ知られており、迷彩の
  図案と色調は知られていません。現物と写真の証拠からBf109
  Kには大戦後期に2種類の色調があったと考えられます;1.
  グレーバイオレット75/ダークグリーン83、そして2.ブラウン
  バイオレット81/ダークグリーン83です(かってこの色調は、
  ダークグリーンをRLM82と考えられていましたが、現在は
  RLM83とされています)。


  前に述べたように75/83の組み合わせは、74/75から81/82
  に至る際の中間的なものかもしれません。Bf109の異なった
  G型に対してはそのサブタイプにより4から6種の異なった
  迷彩色の組み合わせがあったようます(Hitchcock,1979,
  p.13)これらの色調がいつ導入されたかは知られていま
  せん。しかしグレーからグリーンへの変化が1944年中期から
  1945年初期に起きたように考えられます。このように混沌が
  始まりました。
  


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