
鼓動の滴2
目を開けると、何もかもが白かった。
それが天井だと気がつく頃には、
いくつかの顔が覗き込んでいることに気がついた。
夢をみていた。
とても大切な夢を。
でも、
今は考えがまとまらない。
目を開けていられなかった。
ただ眠たくて。
覗き込んでくる顔は、なぜか泣いていた。
その理由を聞こうとするのだが、
口は思うように動いてくれず、意識はやがてブラックアウトした。
それから数日後。
事情を聴いて驚いた。
通学途中で交通事故に遭い、心臓の大手術をしたというのだ。
そう言われてみれば、なんとなく覚えている。
とても恐ろしい経験をした気がする。
なんとも曖昧だが、じつのところ
その辺の記憶が飛んであまり鮮明に覚えていないのだ。
おかげで事故自体のショックは
心の傷として残っていなかった。
医師いわく、
精神を守る為に、時としてそういう軽い記憶障害のような事が
起こるといるのだ。
意識を取り戻して幾日か経っているが、
そういえば兄のことを誰も話してくれないのを唐突に気がついた。
なぜ、今までそのことに思い至らなかったのだろう?
あの時、確か兄も一緒だったはずだ。
事故のことはあまり覚えていないが、それだけは確かだ。
だって
あの時、大切な話をしていて……
そうだ、だったら怪我をしているかもしれない。
だからここにも来なかったのだ。
もし、元気なら顔を見せないはずはないではないか。
それとも、
サッカーをやめると告白したせいで怒っているのだろうか?
「ねえ…、兄ちゃんは?」
先ほどから、駆の為に林檎を剥いていた母親の手が、
驚くほど震えたのが見えた。
「母さん?」
一瞬、迷うように駆を見つめたが
何事もなかったように、ふたたび林檎の皮剥きを再開して
きれいに切り分けられたそれを、駆に押しつけるように渡した。
「今は何も考えないで、自分の身体を直すことに専念してちょうだい」
「え?どういう」
駆が、まごまごしているうちに母親は病室を出て行ってしまう。
まだこの頃は精神的に不安定だったように思う。
なんとなく自分でもぼんやりしているな、と感じるほどに。
母親や、妹、ときどきお見舞いにくる奈々の態度が
どこかおかしいと思いつつも、わざわざ問い詰めようとは思わなかった。
それに……
横になってうとうとしていると、時々兄の声を聞いたからだ。
昔のように一緒にピッチを駆けよう。
そして、いつかワールドカップの舞台に二人で立つのだと……
希望に満ちた声で、柄にもなく興奮して話していた。
僕が、あんな話をしたから兄ちゃん気にしているのかもしれないな。
だから眠っている間に来て、そんな話を耳元でしているのかもしれない。
でも、もう決めたんだ。
ごめん、兄ちゃん。
僕はもうサッカーやめるよ。
――サッカー、嫌いになったのか?
兄ちゃんの寂しそうな声が聞こえる。
違うよ。
そんなんじゃない。
でも、これ以上続けても辛いだけだから。
兄ちゃんの様になれないから。
――なぜ?
え?
――なぜ、俺の様にならなくてはならない?
兄ちゃん?
――お前は俺じゃないのだから、
――自分のサッカーをすればいいんだ。お前にしかできないことを。
そんな、僕なんて……
――俺だけピッチに置き去りにして、騎士がまっさきに逃げ出したのでは
サッカーにならないじゃないか。
傑の声が、一瞬悲しそうに揺らいだ。
に、兄ちゃん、でも……
――俺は…、
声はだんだんと小さくなって呟くようになっていく。
――お前に、俺の騎士になって欲しかった……
「に、…兄ちゃ…っ…!」
「駆?駆っ!」
はっと目を覚ますと、
そこには心配そうな母親の顔があった。
どうやら、いつの間にか寝てしまったようだ。
起きようとすると、慌てて母親がその身体を押し戻した。
「どうしたの?ひどくうなされていたわよ」
うなされて?
違うよ、ただ兄ちゃんと話していただけなんだ。
そう口を開こうとして、駆は自分が泣いていることに気がついた。
「あれ?なんで…」
「苦しいの?具合悪い?」
「え?違う、違うよ。なんでだろうおかしいな。なんでもないんだ
心配しないで」
母親は事故にあってから、妙に心配性になっていた。
無理もない。
たくさん心配をかけてしまったのだ。
安心させなければ。
「本当に違うんだ。たぶん、サッカーの話をしていて感情的に
なっちゃったせいだよ」
「サッカーの話?」
「うん、サッカーやめるって兄ちゃんに言ったんだ。あの事故に
あった日。だからだと思うけど、兄ちゃんあれからサッカーの話
ばっかりするから。でも僕はもう……母さん?」
みるみる母親の顔が青ざめていくのに、
駆は不思議そうに言葉を切った。
「……お兄ちゃんが?」
「うん、そうだよ。だからさ、兄ちゃんが毎日サッカーの話を…」
駆が全てを言い終わらないうちに、
母親はガタンと椅子を倒して立ちあがった。
駆がびっくりして見上げると、急に用事を思い出したと言って
そのまま逃げるように病室から出て行った。
「なんだよもう、兄ちゃんのこと聞こうと思ったのに。
だいたい兄ちゃんも兄ちゃんだよ。
僕が起きてる時に来てくれればいいのに」
でも、ちょくちょく病室に来られるということは、
傑の怪我はたいしたことなかったのだろう。
たぶんすぐにでもサッカーに復帰するためにいろいろと忙しいに
違いない。
そう思うと、少し悔しい。
自分はこうしてロクにベッドから出られもしないのに……
などと的外れな嫉妬さえ覚えてしまう。
自分はもうサッカーを捨てたはずなのに……
なんて未練がましいのだろう。
でもこれも傑が毎日毎日サッカーサッカーとうるさいからだ。
などと責任転嫁をしてみるが、やっぱり夢うつつでも認めたように
サッカーが好きなのだ。
忘れるなんて無理かもしれない。
でも、いろいろなトラウマや苦痛の中でサッカーを続けるのは怖かった。
やめてしまえば、それらすべてから逃れられるのだ。
意気地がないと自らを罵りながらも、
その誘惑にどうしても抗えない駆であった。
HPTOPへ