H27.03.10.  長 命 寺  滋賀県近江八幡市長命寺町
 
  長命寺を目指しましたが、1km程の狭い山道が有り、対向車が来た時は困ると思いながら恐怖の道を進みました。
狭い駐車場が有りそこから100段そこそこの階段を登ります。登り掛けた時上の方の階段を横切った男性が挨拶をしてきました。普段着だったので地元の人かな?と思いましたが、住居の方へ入って行かれたので、御住職だったのでしょうか?
以外に立派なお寺なので感激しました。
 
 
   
 
  長命寺
長命寺本堂へは、湖岸から「八百八段」と呼ばれる石段の参道があり、登りには約20分を要するが、現在は本堂近くまで自動車道も整備されている。石段下の右には穀屋寺、左には日吉神社がある。穀屋寺は、かつて寺領から上がる米を納めたところである。石段途中に冠木門があるのみで、山門はない。石段の途中左手に妙覚院と真静院、さらに上ると右手に禅林院、金乗院があるが、元禄5年(1692年)の記録によると、当時は上述の4か院を含め19の子院が存在した。石段を登りきったところが本堂の縁下である。南に面した境内には本堂のほか、右方に三重塔と護摩堂、左方に三仏堂、護法権現社、鐘楼、やや離れて太郎坊権現社がある。主要堂宇は屋根を瓦葺きでなく檜皮葺きまたはこけら葺きとしており、独特の境内風景を形成している。本堂裏の「六所権現影向石」をはじめ、境内各所に巨岩が露出しており、かつての巨石信仰の名残と考えられている。 
 
 
長命寺本堂
 
長命寺本堂
本堂は永正13年(1516)の焼失後、大永2年(1522)から大永4年(1524)にかけて再建された事が勧進書に記されており、寺内で現存する最古の建築である。昭和5年(1930)から昭和7年(1932)にかけて解体修理が行われた。
市の北西端、長命寺山(333m)の標高約250mの山腹にある寺院。西国三十三カ所第31番札所で、「八千年や柳に長き命寺、運ぶ歩みのかざしなるらん」という詠歌のとおり、「寿命長遠」の御利益があるとされています。3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰(すくね)がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられます。
本堂(重要文化財) - 入母屋造、檜皮葺き。桁行7間・梁間6間の和様仏堂である(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。寺の文書から室町時代・大永4年(1524年)の建立と判明する。手前の奥行3間分を外陣、後方の奥行3間分を内陣及び後陣とする。内陣須弥壇中央には秘仏本尊を安置する厨子を置き、厨子外の向かって左に毘沙門天立像(重要文化財)、右に不動明王立像が立つ。厨子も堂と同時代の造営で、重要文化財の附(つけたり)指定となっている。
 
三重塔(重要文化財) - 本堂の東方、やや小高くなったところに建つ。高欄擬宝珠銘から慶長2年(1597年)の建立と判明する。こけら葺きで全面丹塗(にぬり)とする。和様の一般的なであるが、初重の両脇間に連子窓を設けず板壁とすること、初重に和様には珍しく腰貫を用いる点が特色である。初重内部は須弥壇を設け、胎蔵界大日如来像(桃山時代)と四天王像(鎌倉時代)を安置する。大日如来像は像底の銘から天正17年(1589年)、七条大仏師康住とその子の大弐の作とわかる。 長命寺鐘楼 
鐘楼は慶長13年(1608)に再建された事が、上棟用木槌に墨書されています。昭和49年(1974)に部分修理も行われました。
入母屋造、檜皮葺で、一見したところ普通の袴腰(下方に広がって城の天守台の様な形の部分)付の鐘楼ですが、柱の配置が少し違っており、下層は(二間二間(各面3.33m)であるが、上層は南北面二間、東面二間、西面のみ三間(各面3.03m)である。これは撞木を釣る関係で三間にしたと考えられ、興味ある方式である。一重、二重ともに三手先組物を備える本格的な建築で、概ね和様を基調としているが、妻飾りや懸魚の形は禅宗様を取り入れている。
他の諸堂と共に重要な伽藍の一つで、寺観を整えるのに大いに役立っている。
なお、内部の梵鐘は鎌倉時代に遡る古鐘で、県指定有形文化財になっている。
 
 
如法行堂と鐘楼
 
  
拝殿と渡廊下を経て三仏堂へ
 
   長命寺護法権現社拝殿及び渡り廊下
護法権現社は長命寺の御法神として開山武内宿禰を祀り、本殿は江戸時代後期の再建と見られる。
拝殿は小屋貫に永禄8年(1565)の墨書銘があったと言われており、形式技法からみてもその頃の建立と考えられる桁行三間、梁間二間の入母屋造、檜皮葺で、切目縁を四周に巡らし、角柱に舟日肘木をのせ、二軒の疎垂木とした簡素なつくりである。
三仏堂へ続く渡り廊下は、拝殿と同時期の建設とみられ、造りにも同様に簡素である。三仏堂側につけられた唐破風及び蟇股、兎毛通の意匠が優れ、時代の特徴をよく示している。