H26.07.22.  富 岡 製 糸 場 〒370-2316 
群馬県富岡市富岡1-1 
 
早朝から車山のニッコウキスゲを見た。生憎の濃霧で晴れるのを待っていたら、車山からの出発時間が大幅に遅れてしまい8時頃になった。昨日諏訪湖SAのコンシェルジュに車山から富岡製糸場までのアクセスを聞いていたのでその案内に従った。
車山から一般道を佐久方面へ走りました。道中には峠道も有りましたが車も少なく快適なドライブでした。途中から中部横断自動車道(現在無料)に乗り、佐久小諸JCTから富岡ICで下りました。車山から100kmを少し越える距離でした。富岡ICから3km程先に有る宮本町の市営駐車場に着いたのは10時前で、名古屋市緑区から約350km程でした。
  コンシェルジェの話によると、富岡製糸場には駐車場が無いので、カーナビで行く時は近くの駐車場の住所を入れて下さいと言う事でした。駐車場は民間、市営、無料駐車場があり、無料駐車場は1km程離れていて歩いて20分ほどかかります、市営駐車場だと500m程で徒歩10分ぐらいだと親切に教えてくれました。
市営駐車場の料金は30分100円で、最初の30分は無料と言う事でした。上限は500円です。
 
   カーナビに従って富岡ICを下り、宮本町の市営駐車場に行こうとしていると、突然駐車場の案内人が現れ、駐車場に入れるように合図をしている。カーナビの市営駐車場の位置とは違うので不審に思い通過して良く見るとそこは民間の駐車場でした。100円と大きく掲げて有りましたが、その下を見ると20分と書かれていたので少し離れた市営の駐車場に入れました。観光地に良く有る駐車車両の取り合いです。近いほど金額は高いのが通例ですが、近くを希望される方には空いているので便利です。観光地で不快に思うのは観光便乗値上げと、有名に成った事を鼻に掛ける横柄な態度です。一部の不心得者の間違った考え方がイメージダウンに成る事を充分に認識して頂きたい。少しの心使いが観光客のリピーターを増やす事に繋がるのですから。  
  市営駐車場に入れると直ぐ小学生の女の子が飛んで来て富岡町の案内書を渡してくれた。小学生が書いた手書きの文字と絵には心からお礼を言った。
夏休みに成り、世界遺産に登録された町を盛り上げるお手伝いをしている事には感心した。町を挙げての観光客召致に力を入れている事が好ましく思えた。
 
国内18件目の世界遺産に「富岡製糸場と絹産業遺産群」がH26.6月に登録された。登録されて以来連日観光客で満員の状態というので、7月の3連休の後の、多分一番空いているのではないかと思う火曜日に行って見ました。
富岡製糸場全体の建物が見えるものと思っていましたが、中を見学出来るのは東繭倉庫と、繰糸場だけで、ブリュナ館や女工館は老朽化もあって非公開です。今後施設全体の公開は行われるのでしょうか?。
富岡製糸場と絹産業遺産群の構成資産は、富岡製糸場(富岡市)、自然の冷風を利用した蚕種(蚕の卵)の貯蔵施設「荒船風穴」(下仁田)、風通しを重視した蚕の育て方を完成させた「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)、養蚕教育機関「高山社」跡(藤沢市)です。
核と成る富岡製糸場は1872(明治5)年、明治政府が設置した国内初の官営器械製糸場。幕末に鎖国が終わり、明治政府は生糸の生産と輸出を殖産興業の柱にした。日本の生糸は一時期、世界で高いシェア占めたが、作れば売れると言う事で粗悪品も出回った。生糸の品質向上と技術者育成の為に模範工場として造られたのが製糸場でした。
明治政府が雇ったフランス人技師ポール・ブリュナが建設を指導した。5万5千uの敷地に二つある繭倉庫や長さ約140mの操糸場は、木の柱にレンガを積み入れる木骨煉瓦造で、屋根は瓦で葺かれた和洋折衷の建物です。
体の小さな日本人向けに改良したフランス式の操糸器や、動力と成る蒸気エンジンなど西洋の技術を輸入した。操糸器は300人繰りで、各地から集まった女工(女性行員)が紡いだ。世界最大規模の工場だった。
製糸場に運ばれた繭は乾燥させて繭倉庫に保管し、生糸にする時は煮てほぐれた繭糸を操糸器で女工が操った。当時は操糸場内にあった揚返機で、一度小枠に巻き取った糸を大枠に巻き直して商品に仕上げた。
西洋の技術を導入した製糸場を核に、養蚕と製糸の技術を革新させ、良質な生糸の大量生産を可能にして日本の近代化に貢献したことが評価され、世界遺産となった。
日本近代化の幕開け 
当時の日本は明治維新を迎えたばかりでした。殖産興業政策を掲げた政府が急務としたのは、輸出品の要であった生糸の品質改良と大量生産を可能とする器械製糸工場の導入と推進でした。日本の工業化は、製糸から始まったのです。
人々の協力と熱意
建設の指導者としてのポール・ブリュナや製図工のオーギュスト・バスティアンなど、当初は10名ほどのフランス人を雇い入れ、器械製糸技術の指導が行われました。
 
世界遺産に登録されてから、観光客が押し寄せ大変な賑わいだと報道されていた。混雑する場所は嫌いなので、空いている日を予想した。そして観光する日は3連休後の火曜日と決定した。海の日の月曜日の午後名古屋市緑区を出発し、諏訪湖SAで仮眠し、早朝車山のニッコウキスゲを見に寄りました。その後富岡製糸場に向かい、10時前に現地に着きました。券売所で500円の入場料を支払いました。混雑は全く無く、嘘のような少ない人出に、予測が的中したとほくそ笑んだものでした。    世界遺産とは・・・・・・。
世界中のあらゆる場所には、国や民族る文化や自然があります。これを世界中の人びとが共有し、未来に引きいでいくべき人類共通の宝物として守っていくために、「世界遺産条約」が1972年のユネスコ総会採択されました。この取り決めに基づいて世界遺産一覧表に記載された文化遺産自然環境が世界遺産です。
日本国内には富岡製糸場を含めて18カ所の世界遺産が有ります。日本には文化遺産(歴史上、芸術上研究上重要な建造物・記念碑・遺跡)と自然遺産(保存上、観賞上、研究上重要な自然環境や生物生息地)しか登録されていません。複合遺産の登録は有りません。
2014年6月25日現在、世界遺産一覧表に記載された文化遺産は779、自然遺産は197、 複合遺産は31の総計1007。これらの世界遺産サイトを有する国や地域は161です。
 
  東繭倉庫
明治5年(1872)建築     長さ 104.4m 幅 12.3m  高さ 14.8m
1階は事務所・作業所などとして使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵しました。倉庫1棟には最大で2500石(約32t)の繭を貯蔵する事が出来ます。
建物は木で骨組を造り、柱の間にレンガを積み上げて壁をつくる「木骨レンガ造」という工法で建てられ、西洋の建築技術に、屋根は日本瓦で葺き、漆喰でレンガを積むなどの日本建築の要素を組み合わせて建てられました。使用されたレンガは、日本の瓦職人が甘楽町福島に窯を築いて作りました。レンガ積みの目地には下仁田町の青倉、栗山産の石灰で作られた漆喰を使いました。また、礎石には甘楽町小幡から切り出された砂岩が使われました。
 
 
 
見学順路として最初に東繭倉庫に入りました。そこにはボランティアによる無料ガイドツアーが行われていて、二十数人の方がガイドの話を聞いていました。しかしこの集団は見学するには非常に邪魔な存在に成っていました。それは狭い通路に二十数人が固まって動かないと完全に通行が遮断されてしまうからです。
操糸場に入った時の事です。入口から満員で中へ入る事が出来なかった。ここは人気があるので見学者が多いのかと思っていたら、中央の部分から簡単に見学出来ました。入口でガイドツアーの話を聞く為に、動かない塊が居たからでした。非常に憤慨しましたが、聞きたい人も大勢居るので仕方のない事かも知れません。
 
 
東繭倉庫を入口に向かって撮りました。
富岡の絹産業。
日本を外国と対等な立場にするため、産業や科学技術の近代化を進めました。
明治3年、横浜のフランス商館勤務のポール・ブリュナらが 武蔵上野信濃の地域 を調査し、上野(今の群馬県)の富岡に場所を決定しました。
繰糸場 は長さ約140.4メートル、幅12.3メートル、高さ12.1メートルで、当時、世界的にみても最大規模でした。
工場建設は明治4年(1871年)から始まり、翌年の明治5年(1872年)7月に完成、10月4日には歴史的な 操業が開始されました。繭を生糸にする繰糸工場には300人りの繰糸器が置かれ、全国から集まった工女たちの手によって本格的な器械製糸 が始まりました。
 
 
東繭倉庫の中。
パネルや実物で説明されていました。
富岡に選ばれた5つの理由。
1、富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料
  確保
できる。
2、工場建設に必要な広い土地が用意できる
3、製糸に必要な水が既存の用水を使って確保できる。
4、燃料の石炭が近くの高崎吉井れる。
5、外国人指導の工場建設に地元の人たちの 
  同意られた。
 

ほんものの蚕が
桑の葉を食べていました。
繭から生糸を取る。
蚕が作った繭から糸を取るには、繭をお湯に浸して、繭のセリシン(にかわ質)をとかしつつ、引っ張るようにして糸を取ります。ですが、繭は中に睡眠中の蚕のサナギがいる生もので、早くしないとサナギが目を覚まし、脱皮してカイコ蛾となって、繭を破ってでてきます。
まず、繭を4個〜11個を温かいお湯に浸して繭を柔らかくし、繭の繊維質をほぐしていきます(解繊)。そしてほぐれた繭の繊維部分を引っ張るように引き出して一本の糸にしていきます
蚕はセミやキリギリスと同じ昆虫で、季節的な生き物です。そこで、一定の時期に大量に収穫した繭をいっぺんに製糸処理できないのならば、糸を取るまで保存しておく必要があります。そこで考え出されたのが乾燥処理です。
繭を熱乾燥する事で中のサナギもミイラのように乾燥します。これならカイコ蛾になって繭を破ってくることもありません。乾燥状態なのでカイコの死骸で真っ白な繭が汚れる事もありません。かさかさ状態ではカビも生えないので保存管理さえしっかりしていれば何年でも取り置きが可能です。
左の写真の5齢というのは5回脱皮をしたということです。普通は5回目が最後の脱皮です。
 
 
東繭倉庫の奥に有る映像コーナー。
 
複数の繭をお湯に浸して糸にします。
ここでは、富岡製糸場の事が分かり易く説明されています。この映像を見てから場内を見学すると理解が深まります。ポール・ブリュナ(役者)が解説しています。所要時間は20分です。
 
記念碑(入口に有る。)
創業翌年の明治6年(1873)6月、明治天皇の要請により皇太后・皇后ご一行が富岡製糸場を行啓されました。それから70年後に建立された碑がこの行啓記念碑です。
台石は当時女工が皇后から賜ったといわれている扇をかたどっており、台石上に置かれている台座の石は三波石が使われています。また行啓された際に皇后が詠まれた「いと車 とくもめくりて大御代の 富をたすくる道ひらけつつ」という和歌には、製糸場の発展が日本の繁栄につながることへの期待感が表されています。
  ブリュナ館
明治6年(1873)建築
指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナが、政府との契約満了となる明治8年(1875)末まで家族と暮らしていた住宅です。
広さ320坪ある建物は木骨レンガ造りで建てられ、高床で廻廊風のベランダを持つ風通しの良い造りに成っています。
のちに建物は女工の夜学校として利用され、片倉時代には片倉富岡高等学園の校舎として使われました。その為内部は大幅な改造が加えられており、当初の面影はほとんどありません。しかし、現在は講堂となっている部屋の床下には、食料品貯蔵庫に使われたと考えられるレンガ造りの地下室が残されています。
 
診療所
昭和15年(1940)に建てられた、3代目の診療所です。(明治時代には病院といっていました)。
当初の診療所は敷地の北東部分に建てられ、フランス人医師が治療に当たりました。また、官営時代においては治療費・薬代は工場側が負担していました。官営から片倉までの全期間を通じ厚生面が充実していた事がわかります。
大煙突近くの乾燥場の建物の老朽化が進み屋根の部分が大きく破壊されていました。その事を帰りに寄ったガソリンスタンドの女性店員に話すと、2月の大雪で、富岡製糸場に限らずこの付近の多くの場所で雪害にあったと言われました。それはこの辺は積雪が余り無いので、積雪対策の不備が被害を大きくしたそうです。
 
  操糸場
明治5年(1872)建築     長さ 140.4m  幅  12.3m   高さ  12.1m
操糸場は、繭から生糸をとる作業が行われた場所でした。創業当初はフランス式操糸器300釜が設置され、世界最大規模の工場でした。明治5年から操業停止の昭和62年(1987)まで115年にわたって一貫して生糸生産を行いました。現在、建物内部には昭和40年以降に設置された自動操糸機が残されています。
建物には従来の日本にはない「トラス構造」という小屋組が使われており、建物内部には中央に柱の無い広い空間が保たれています。さらに採光のための多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの「越屋根」(こしやね)が取り付けられました。現在は、昭和40年代以降に設置された自動操糸機が保存されています。
全国から応募した女性達は、工女として働き多い時は700名程が寮に入り交代制で仕事をしました。富岡製糸場で器械製糸の技術を学び、のちに地元の工場で指導者と成る事で、器械製糸技術の普及と日本の近代産業の発展に大きく貢献しました。
官営工場として創業された工場は、やがて民間の企業へと払下げとなりました。しかし操業停止までの115年間に渡り休むことなく製糸工場として活躍し続けました。一貫して生糸の生産が行われた事と、操業停止後も今日までほとんど旧状を変じる事無く保存管理されてきたことにより、建造物は創業当初のままで残されています。
 
 
 
操糸場内部。
 
繰糸場入口
操糸場
フランス式の300人繰りの操糸器械を導入していた。天井には大きなガラス窓を設置し、自然光を取り入れている。季節によって操業時間が変わった。フランスから輸入された窓ガラスの多くは、今も創業当時のままです。巨大な三角屋根で真ん中に柱が無い「トラス構造」で、広い空間を確保している。
生き血をとられる?
当初、工女募集の通達を出しても、なかなか人が集まらなかった。それは、フランス人が飲むワインを血と思い込み「富岡製糸場へ入ると外国人に生きる血をとられる」とデマが流れたためでした。
政府はこれを打ち消し、製糸場建設の意義を記した「告論書」を何度も出しました。また、初代製糸工場長の娘を工女第一号として入場させて範を示しました。こうして、当初予定していた7月より遅れて10月4日から操業が開始されました。
 
 
器械にはカバーが掛けられています。
 
同じ形の繰糸機が並び壮観でした。
 
   シルクの歴史・・・・。
シルクの歴史は麻や羊毛などと同様に大変古く、今からほぼ5,000年前に中国で使われはじめてから今日に至るまで、絶えることなく常に「繊維の女王」として世界中の人たちに愛用されてきました。
 シルクは人間が大切に育てたカイコの繭から糸をていねいに解きほぐして作ったもので、私たちが使う衣服や装飾品になるまでには長い時間と熟練した沢山の人の手をかけなければならないのが普通です。そのためシルク製品の値段は大変に高<、普通の人たちには高嶺の花のようなものでしたので、シルクと同じものを人工的に作ろうとする研究が250年ほど前から始められ、今から、ほぼ110年前にパルプを原料とする再生繊維が、60年ほど前には石油を原料とする合成繊維が発明されました。そしてナイロンやアクリル、ポリエステルなど、見た目にはシルクに良く似ていてしかもはるかに丈夫であり、洗っても早く乾きしわにもならないなど、大変扱い易い合成繊維がつぎつぎに開発されて安いコストで大量生産されるようになりました。そのため、シルクの用途は段々に狭められてきましたが、今でもドレスやスーツ、ブラウスなどの洋装用の高級衣料のほか、スカーフ、ハンカチ、ネクタイなどの洋品小物類に多く使われており、とくに日本ではシルクといえばきもの、きものといえばシルクといわれるほどに和装分野でたくさん消費されております。
 
  繭から繰糸へ・・・・。
カイコはほぼ25日間エサを食べ、途中脱皮を繰り返しながら(普通は4回)成長して体内に液状のシルクをたくわえたのち、成虫(ガ)になる前のサナギの期間を安全に過ごすため自分の身体を包むように糸を吐いて繭を作ります。カイコが吐糸する長さは平均してほぼ1,500mに達するが、最初に繭作りの足場として吐糸された毛羽は農家で出荷前に除かれ、さらに製糸工場で正しい糸口を探し出すときに出るキビソ(緒糸)と繰糸したあと繰り残って出るビス(ようしん)などの分を除くと、実際に生糸になる部分は、全体の85%弱1,300m前後である。
カイコはサナギになっから10日程するとガになり繭に穴をあけて外に出る。 したがって製糸原料繭はそのようになる前に冷蔵または冷凍してサナギの成長を止めるか、熱をかけるなどしてサナギを殺してしまわなければならず、さらに常温で長い間貯蔵する場合には、途中でカビが出たり腐敗したりすることの無いように乾燥しておくことが必要である。
繭糸は大変に繊細で、繭に振動や衝撃を与えると、となりあっている繭どおしの表面がこすれあって繭糸が切れてしまい、繰糸に際して糸口が出にくくなり、生糸量歩合や繰糸能率が低下する。そして、管理が悪い場合には繭にカビが生じたり、害虫が繁殖して繭層を食害したりして繭の品質を損ねてしまうことがある。繭がカイコという昆虫の作ったものであるために個体によって形や性質が異なっており、汚れや節、均一な太さの無いものなど8階級に分けて格付けが行われています。
繭から取り出される糸は均一した太さではなく、太い所があったり細い部分があったり、コブのような節があったりします。それを複数の繭から糸を取りだしながら、切断されたものを繋いだりし均一の太さに整えます。この技術を女工さん達が習得していました。吹けば飛び僅かな力加減で切れてしまう繊細な糸を操作し世界に誇る品質を生み出した技術は、絹製品と共に世界に誇れ技術で有ると思われます。
 
 
 
入口にはガードマンがいました。
 
製糸場までの距離と方向が路上に表示されています。