H27.2.16.  小 牧 山 城  愛知県小牧市堀の内1−1
 
  R41や名古屋高速を走行していて、さほど高い山でもない小牧山が以外に目立ちます。それは周囲に高い建物がなく、見晴らしが良いからです。その頂上に城が有る事が良く分かります。以前からその城の事が気に成っていたので、2月の中旬の天気の良い時に、登って見る事にしました。
駐車場は小牧警察署の方に2時間無料があり、小牧市役所には用事の有る方のみそこに停める事が出来ます。そして買い物をする方はアピタの駐車場が良いでしょう。ここは閉店まで置く事ができます。
 
 
    
  小牧山
 小牧山は標高85.9m 面積21万u(約6万3千5百坪)ですが、以外に大きく見えます。小牧市のほぼ中央に位置しています。市街地の西側にあって、濃尾平野に孤立する小さな山で、昭和2年に一般に公開されました。この年国より史跡の指定を受け、その後徳川家から小牧町(当時)へ寄付されました。この山は古くから桜の名所としてしたしまれ、現在では4月上旬に「小牧さくらまつり」が開催されています。
 
 
 
小牧市役所から見た小牧山城

名古屋城は金のシャチですが、小牧山城は銅だそうです。 
 
上空から見た小牧山
 
  立地からの分類
お城は、その立地から大きく3種類(平城・山城・平山城)の3種類に分類されます。
  1、平城とは周辺との標高差がほとんどない城で名古屋城がそうです。
  2、山城とは山頂部に築かれた城で岐阜城がそうです。
  3、平山城とは周辺との比高差が小さい城で小牧山城がそうです。
 
 
  小牧山の山頂に有る城を、「小牧城」だと思い込んでいた。たかが標高90m以下の山だから、丘みたいなものであろうと楽観していた。入口は8カ所有りましたが、小牧市役所裏の「大手口」から登りました。階段が続き楽観していただけに、以外に急な階段に体力を消耗し、2月半ばの寒い日でしたが軽く汗をかきました。道は3差路や4差路が多いので、どの道を通るのか判断に迷った。そして行きかう人に聞きながら、最短距離を選んでお城を目指しました。しかし、道中の案内表示板は、「歴史館」とか「小牧市歴史館」と表示されているので、歴史館と小牧城は違うのだろうかと疑問を持った。兎に角、歴史館の近くに小牧城も有るのだろうと、勝手に想像し山頂へと急いだ。
撮影しながら山頂に着いた時は30分程の所要時間だった。歴史館入口の下では、中程度のカボチャぐらいの大きさの石を20数人掛かりで、石の土や砂を取り除き、保管していた。これが発掘された石垣の一部なのかと思いながら、受付へ行った。そこで疑問に思っていた、歴史館の事を聞くと、小牧城と言う城は有った事は確認されていますが、建物の外観や構造が分からなく、その資料が一切ないので、想像して建てられたので、小牧城としての、再建ではなく、一応歴史館としています。と言う事でした。この説明が有り、初めて歴史館と小牧城の違いが分かりました。
 
  当初、山頂に見える城を小牧城だと思い込んでいました。しかし、実際は小牧歴史館と言うのだそうです。
歴史館(小牧城)は昭和43年、平松茂翁(故人)が私財を投じて建設し、小牧市に寄付されたもので、鉄筋コンクリート3層4階建て、高さ19.3m、秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして名古屋工業大学城戸久(故人)の設計によって建てられました。歴史館内には市指定文化財の銅鉾、銅鏡をはじめ考古・民族・歴史資料や小牧・長久手合戦のパノラマ等が展示されて小牧市の歴史を知る事ができます。
永禄6年(1563)織田信長が美濃(現岐阜)に進出する大志のもとに、地の利を得たこの山に目を付け、清須(洲)城から移ると共に山全体を要塞にする為、山頂から麓まで5段階の塁濠をつくり、山頂に屋敷、南側に大手道、北側に搦手道をつくりました。中腹には馬場をつくったり、井戸をを掘ったり、また要所に重臣の邸宅を置きました。当時は、北側は池沼で自然の要塞であったため工事は省かれましたが、南側は原野であったため大工事で、あちこちに堀をつくりましたが、それらは今なお山中にみられます。
その後、信長は美濃に攻め入って岐阜稲葉城に移り住んだので、この山は自然廃城となりました。そして小牧・長久手の戦いで再び歴史の舞台に登場してきます。
平成18年から内装及び展示の全面改修を行い、木造の城をイメージさせる内装で、平成19年3月31日にリニューアルオープンしました。
 
 
小牧山の史跡
永禄6年(1563)、小牧山に初めて城を築いた織田信長は、清州から居城を移し、南麓に計画的な城下町を形成した。しかし、永禄10年に美濃の斎藤氏を攻略した信長は、稲葉山城(岐阜城)へ城下町ともども移った為、小牧山は在城わずか4年で廃城となり、城下町もさびれた。居住わずか4年だったことから、人々から忘れ去られ、歴史からも抜け落ちてしまった。
その後、本能寺の変で没した信長の後継者争いに起因する小牧・長久手の合戦では、羽柴秀吉軍に対する織田信雄・徳川家康連合軍の主陣地が置かれ、信長の城跡に大規模な改修を加え、陣城とした。
江戸時代には、尾張徳川家の管理下で一般の入山禁止等保護がなされたため、遺構の保存状態は良好で、昭和2年には国の史跡に指定された。
東麓にあった小牧中学校の移転に伴い、平成10年から発掘調査が始められ、織田信長の城であった当時は、堀で区画された武家屋敷が立ち並んでいたこと、小牧・長久手の合戦時には、これらの屋敷跡を一部踏襲して堀や二重の土塁で囲まれた帯曲輪を築造したほか、深い掘りを配した虎口(こぐち、出入口)を設ける等、厳重な防御がなされていた事が明らかになった。
これらの成果をもとに、平成13年から遺構復元等の史跡整備が進められ、平成16年4月から史跡公園として公開されている。
 
  これまでは、石垣を備えた本格的な城の最初は安土城」とされていました。しかし、信長が小牧城の後に築いたのは「安土城」で、安土城より13年前に築いた小牧山城は、土で固めた単なる山城と考えられていました。砦のような城と思われていて注目される事は有りませんでした。
平成16年から小牧山城発掘調査が開始されると、その歴史を覆すような大発見が有りました。10年前に掘り始めた時は、信長が作ったとはいえ、安土城より前のお城で有るから、伝統的な土の城だと考えられていました。発掘調査が進み始めると、次々と石垣が現れ始めました。石垣を備えた最初の城は、安土城ではなく「小牧山城」と判明したのです。
石垣に使う石は小さいと思われましたが、以外に大きな石がそのまま積まれていたのです。小牧山城は一番古い階段の石垣ですから、石を積み易い形に四角に形成して、ブロックのように積んで隙間のない綺麗な石垣にする事はしていませんでした。小牧山で取れた石を加工せずそのまま使っていたのでした。
信長が石垣で城を作るという発想は、当時の人々にとって奇想天外で、土で作る以外は考えられない事でした。この城作りにはエピソードドが有りました。それは小牧山の直ぐ近くに大口町という町が有って、小口城という城が当時は有りました。この城は敵方の城でしたが、石垣の小牧山城と天守が徐々に出来上がるのを見て、異様な恐怖に襲われ犬山城に逃げ帰ったという記録が有ります。
発掘調査に入った時、「今更、そんな所を掘っても何も出てこない。」とか「信長の城はなく、砦しかない。」と言う人が多かったが、一縷の望みを頼りに堀り続けて発見できたことには喜びを感じ、歴史が変わるかもしれない期待に、暗中模索の苦労も報われたようにおもう。
 
 
 2005年には石垣が発見され、上下2段で本丸をぐるりと囲む構造が確認された。石垣を浸食する雨水を排出する為の”浸透ます”の役目を果たした石の遺構も見つかり、高度な技術もうかがえた。これは岐阜城の石垣と共通した積み上げの技法だと考えられた。決定的だったのは11年、掘り出した石から墨で書かれた「佐久間」の文字が見つかった。信長の重臣、佐久間信盛を表すものとみられ、がっちりと組んだ石垣のやぐらの上に天守閣の原形となる建物があったとみる説が一般的になった。つまり、小牧山城は信長が築いた最初の城郭であり、石垣と天守閣を備えた近代城郭のルーツともいえる。それだけではない。標高86mの小牧山の麓には、城下町もあったとか。小牧市教委の近年の調査によると、城下町の範囲は南北1.3km東西1km程という。完全ではないが、長方形の街区が複数残っているのが分かる。商工業者が住んでいた
西側の地区には「油屋町」「紺屋町」「鍛冶屋町」いった地名が明治期まで残っていた。発掘で、堀で囲まれた長方形の屋敷跡も見つかった。
清洲城や岐阜城は信長以前から有り、安土城の城下町は既存の集落を拡張したとされ、信長の独創性が反映されているとは言い切れない。そう考えると、小牧山城とその城下町は、何も無い原野から町を広げ、城を築いたという点で、若き信長が天下取りへの夢を膨らませ、信長オリジナルの開発プランが反映された最初の城で有り、町だったといえる。
今世紀に入ってから相次いだ歴史的な発見が世の中に周知されていないが、未知の部分の真相が明らかになる事が歴史への解明に成ると思われる。
 
信長が1563年(永禄6)年に築いた小牧山城では近年の発掘で、本丸をぐるりと囲む上下二段の石垣が発見された。石垣と天守閣を備えた近世城郭のルーツとされている。
平成26年11月に始めた今回の調査では、山頂北東部の斜面を発掘した。その結果、新たに三段目となる石垣を発見した。三段目は延長20.9m、高さ1〜1・2mで、「腰巻石垣」とも呼ばれ、一、二段目の石垣を造る際の作業場を確保する目的もあったという。
市教委は今後も発掘を続ける予定で有る。三段目の石垣も山頂を囲んでいる可能性が高い。このことから四段目五段目の石垣が見つかるとも考えられ、当時の最先端であった城の姿を明らかにしたいと意気込んでいる。
これから先の発掘調査で新たな石垣が発掘されれば、高度な技術を持つ石工の集団が城を造っていたことが分かり、信長がどう石工を確保したかを明らかにされると考えられる。
小牧山城は、安土城とも共通した山麓から山腹まで駆け登る直線大手道をもち、山腹から山頂の本丸までは、一転して屈曲した大手道になっていた。山麓から山腹までは屋敷地なので合理的な直線大手道とし、山腹より上の中心部は防御のためにジグザグの大手道にしたのである。そして発掘の成果で特筆されるのは、山腹より上の小牧山城中心部が石垣をめぐらした特別な空間に成っていた点にある。高さ3〜4mほどの石垣を段々に積み重ねて、堅固な石垣の城を実現した。尾張では小牧山城より前に石垣の城はなかった。小牧山城はそれまでの尾張の城と断絶しただけでなく、日本の城の歴史においても画期的な城で有った。
これまでの発掘で小牧山城は、本丸下の斜面に於いて、上下2段の石垣が発見されました。小牧山本来の岩盤を壁状に切り立てて、石垣面と併用している部分もあることから、石垣と山の地形を生かした城で有ったと言う事が分かり掛けてきています。
上段の石垣は、なんと、一石が2t以上、高さが2,5m〜3,8mもあります。また、下段の石垣は50cm大の自然石で構成され、防衛の為の玉砂利が敷き詰められている箇所も確認されています。このことから、「土の城」であると考えられてきた小牧山城は、当時の人々がこれまで見た事が無い「石の要塞」と言うべき異様な外観を備えた城で有ったのではとの考えが明らかになりつつ有ります。
自然石を巧みに活かした小牧山城の石垣の積み方から、信長は石垣の先進地域であった近江の技術を取り入れたとわかる。しかも石垣の完成度の高さから考えて、信長は見よう見まねで積んだのではなく、近江のすぐれた職人を採用して石垣を完成させたと考えられる。能力で人物評価した信長は、城造りの職人にもそれを貫徹した。
小牧山城でみつかった石垣は、尾張領主時代の信長が、近江や畿内の情報や技術に、いかに精通していたかを物語っています。広く最善の人やモノを集めて、目標を達成して行く信長の突発力があって、小牧山城の石垣も実現した。そうした信長だからこそ、66年の上洛も決断し得たのではないでしょうか?信長は小牧山城ですでに天下を見据えて動き始めていたのです。だから小牧山城は尾張の城から突き抜け、信長の思いを後世に伝える城になったのである。この事から今後小牧山城は歴史的価値をもっと評価される事に成るでしょう。
 
左の写真は、尾張徳川家19代徳川義親氏で、義親氏により小牧山は昭和5年に小牧市に贈られました。それ以来、自然公園として広く一般市民に親しまれ愛されてきました。小牧山が贈られて55年(碑が建立された時が昭和60年です。)しかも市制施行30周年の意義深い機会をとらえ、徳川義親氏の御厚志に報い、その遺徳を永く後世に伝える為、広く市民の浄財を得て同氏の銅像をここに建立しました。
小牧市歴史館(小牧城)
小牧市歴史館は、名古屋市在住の実業家、平松茂氏(故人、小牧市名誉市民)が私財を投じて建設し、小牧市に寄贈されたものです。鉄筋コンクリート造り、3層4階建てで、高さは19.3mです。
昭和41年春に小牧山を訪れた平松氏は、小牧山の山頂に城を建設する事を思いつき、当時の小牧市長、神戸真氏(故人)に建設寄贈を申し出たことから、歴史館建設の第一歩が踏み出されました。早速、建設委員会が発足し、名古屋工業大学の城戸久教授(故人)に設計を依頼、まもなく京都の西本願寺、飛雲閣を模した青写真が出来上がりました。
昭和42年4月24日に起工、12月14日に鯱上げ式の日を迎え、昭和43年3月26日に竣工式が挙行され、小牧市へ寄贈されました。
平成18年から内装および展示の全面改修を行い、木造の城をイメージさせる内装で、平成19年3月31日にリニューアルオープンしました。
 
銅像の下の石とその北側の石は、本来は立方体状の一つの石で有り、推定される重量は23tにもなります。江戸時代の初め(慶長期)に二つに割られ、石にはその時のくさびの跡(矢穴)と刻印が残っています。花崗岩は小牧山で産出する石でなく、ここから約2.5km北東にある岩崎山から運ばれて来たと考えられます。信長の小牧山築城時に主郭(本丸)の入口にあたる位置に据えられたもので、江戸時代の城の石垣にみられる鏡石の役割を果たした石といえるものかもしれません。
信長のまちづくり
小牧以前に、信長公が居を構えた清須城や那古野城(なごや)は城下町と呼べるものは無く、元々存在する町を守る為に、城が造られました。
一方で信長公は、当時何も無い原野であった小牧山南麓でこれまでに無い新しい都市政策を展開しました。
具体的には、東西1km、南北1.3kmの範囲に直線の道を設け、南には町を防御する「惚掘」を作ります。また、家臣が住む「武家屋敷」と商工業者が住む「町屋」、寺院のある「寺町」をエリアごとに区分しました。
これは、現在の区画整理に相当するものです。また、これまでに領地に住んでいて農業経験者でもあった武士を城下町に集める事で兵農分離を進め、常備軍を組織しました。
他にも、武士の生活を支える為に、商工業者を清須から移転させ「座」に代表される古いしがらみを断ち切り、新しい経済政策を実現させようとしました。
このような先進的な都市制作は、信長公の死後、豊臣秀吉が受け継ぎ、今も城下町として各地に残っています。
発掘調査で、信長公の新しい都市政策は小牧から始まり、江戸時代に全国的に拡がっていく、城下町の原形になったと考えられるようになりました。また、出土した陶磁器などから、小牧山城の城下町には信長公が岐阜へ移った後も、規模を縮小しつつ、一部は江戸時代の初期頃まで、存続していたことが分かりました。そして、この城下町の一部は、1623年(元和9年)に現在の中心市街地の位置へ移転して、宿場町として整備されました。
平成25年は信長公の小牧山城築城から450年にあたります。これを契機に思いを馳せ、発掘調査の新展開を望みたいものです。
 
   4階の展望室へ上りました。この日は快晴無風状態だったので、360度の見晴らしは遮るものが無く鮮明に見る事が出来、展望台の高さを入れても100mそこそこの高さでありながら、建物が入り組んだ市街地を見る事が出来ました。それに北の山々には積雪が有り、御嶽山からは噴煙が未だに噴き出ていた。噴煙をみて忌まわしい事故を思い出し、犠牲に成った人々の冥福を心の中で祈った。
ここには案内をする方がみえ、大声で説明をしていたので、聞くともなく内容が良く分かりました。この男性職員は女性の方が見えると、素早く移動して得意げに解説をして聞かせていた。言う事は同じ事で本当に職務を忠実に実行しているようでした。御苦労さまと頭が下がる。
 
   
 
今なお噴煙が上がる御嶽山
 御嶽山
長野県木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがり、東日本火山帯の西端に位置する標高3,067 mの複合成層火山である。大きな裾野を広げる独立峰である。
2014年9月27日に7年ぶりに噴火。犠牲者57名で捜索は雪の為一時中止された。
木曽御嶽山、御嶽山、王嶽、王御嶽とも称する。また嶽の字体を新字体で表記し御嶽山や、単に御岳と表記されることもある。標高3,000mを越える山としては、日本国内で最も西に位置する。日本には同名の山(御嶽山・御岳山)が多数あり、その最高峰である。山頂には一等三角点(3,063.61 m、点名「御岳山」)と御嶽神社奥社がある。
古くから信仰の山として信者の畏敬を集めてきた巨峰で、いくつもの峰を連ねてそびえる活火山である。民謡の木曽節では「木曽の御嶽夏でも寒い袷やりたや足袋添えて」、伊那節では「わしが心と御嶽山の胸の氷は 胸の氷はいつとける」と歌われており、神聖な信仰の山であるとともに木曽を代表する山として親しまれている。
 
   
展望台からは360度の濃尾平野、遠くの山々が望めます。
 
 
 
大手口入口に有る忠魂碑
 
上り掛けて直ぐの所に小牧山稲荷神社があります。
 
  忠魂碑の由来(平成19年4月)
この碑には
  日清戦争  1894年(明治27)〜95年
  日露戦争  1904年(明治38)〜05年
  満州事変  1931年(昭和06)
  日中戦争  1937年(昭和12)〜太平洋戦争
  太平洋戦争 1941年(昭和16)〜45年
に於ける幾多の戦後に際し、国難に殉じた市内出身の戦没者1、380余名の尊い御霊が祭祀されています。
碑の建立は1919(大正8)年旧自治体が諸団体の協賛を得て1922(大正11)年3月8日に創建されました。設計は、京都帝国大学工学士穂積善三郎氏。青銅の碑は、大阪砲兵工廠にて鋳造。
碑前の、タブの木は1921(大正10)年12月閑院宮・梨本宮両陛下のお手植です。
碑文字の揮毫は、陸軍大将伯爵 奥 保鞏氏。創建以来、招魂祭は自治体の主催で毎月4月行われていたが、1945(昭和20)年太平洋戦争に敗れた我が国は、独立までの6年間アメリカ等の進駐軍の占領下に有り、その政策で、自治体による護持祭典の関与が禁止されてしまいました。
爾来、58年間放任された境内地は荒廃が進み、碑の現状と将来を危惧した遺族会は、2004(平成16)年、浄財を募り、碑の修理や境内の整備修復を行い、市内出身の全戦没者を再調査の上、新たに合祀し、御霊の御遺徳の顕彰と御冥福を祈り、併せて恒久平和を祈念しているものです。
 
 
  今まで遠くから眺めていた小牧山城(何故か小牧城とも言われている。)に念願叶い上れました。頂上までは幾つもの岐路が有り多少迷いましたが、登る事で小牧歴史館に到着する事が出来ました。市教委の方々が発掘調査を行い新事実の発見には感嘆しました。そして信長は意外にも城下町造りや都市政策も考えていた事を知り、戦いだけでは無い武将であると認識を新たにしました。
平日にも関わらず観光する人が多かった。それに、建物は鉄筋コンクリートですが、館内は綺麗な木造に成っている。というより、木造をイメージさせたリニューアルは落ち着いた雰囲気が感じられる。歴史の裏付けがハッキリするに従い人気が出て来ているのだと考えられた。名古屋からは近いし、埋もれている貴重な歴史が確認されれば、全国的にも興味をもたれる事と思われます。