建  造  物

 

名古屋市公会堂
 
ライトアップされた公会堂
1924(大正13)年名古屋市に公会堂建設をと市民の寄付を仰いだが、おりしもの金融恐慌で寄付事業が頓挫し、工事は中断した。その後、昭和天皇の御成婚記念として昭和5年に完成しました。当時としては日本有数のホールを持つ堂々たる建物でした。戦時中は陸軍の司令部として使用され、戦後は1956年まで進駐軍の施設として、建物、公園とも大半が接収され、日本人はオフリミットでした。昭和31年の接収解除後の建物の各所には英語の落書きや、ナイフの切り傷が有りました。返還後は改装を重ね、現在、式典、公演、集会などに利用されています。
こげ茶色のタイル張りの重厚なレトロ調建築は、若い人にも受け、また中高年層には懐かしい若き日の思い出いっぱいの建物です。周りが広い駐車場に成っているので便利が良く、現在もほぼ毎日イベントが行われています。
 
 

奏楽堂
 
夜の奏楽堂
共進会開催を記念して、噴水塔とともに建てられたルネサンス風の円形舞台で、初代はドーム形の屋根を柱で支える西洋建築の古典的な様式を取り入れ、当時の建築界に新風を吹き込んだ。奏楽堂の設計者は鈴木禎次氏です。ここでは各種の演奏会が催されました。昭和9年に室戸台風で大被害を受けて取り壊され、昭和12年から平成7年まではデザインの異なる奏楽堂が建てられていましたが、平成9年に築造当時の姿に復元され現在は3代目です。細部には、屋根飾りのハープ、階段てすりの白鳥などアールヌーボーの手法が施されていて、ト音記号と音符がデザインされた舞台を囲む手すりには「君が代」の楽譜が配されており、復元のときには議論を呼びました。また、60年ちかく建っていた二代目奏楽堂の棟飾りのモニュメントが、北に建っています。
H21年、鶴舞公園開園100周年に当たり名工大建築学科OBが、企業など組織内で働く若手設計者を対象とした「鈴木禎次賞」を創設しました。
 
 
 

噴水塔
 
夜の噴水塔
   噴水塔は、ヨーロッパ様式の重厚な造りで共進会会場の正面につくられた、(設計者は奏樂堂と同じ鈴木禎次工学士)、その後、公園のシンボルとして永く市民に親しまれてきたものです。地下鉄鶴舞線の建設工事に伴い昭和48年に解体されましたが、同52年に築造当初の姿に忠実に復元されまた。この噴水塔は、大理石の円柱に岩組を配した和洋折衷の明治調を良く表現し、全体としてはローマ様式の変化のある豊かな水景を形ずくっています。
この下は名古屋市内を縦横無尽に走る地下鉄が毎日運行しているのですが、静かにたたずめば、音や振動が感じられるでしょうか?
 
 
  奏楽堂・噴水塔を設計した鈴木禎次氏とは・・・・・・
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日(1870年8月2日) - 昭和16年(1941年)8月12日)71歳没は、静岡県静岡市出身の日本の建築家である。東京帝国大学工科大学造家学科(東大の前身)を明治29年卒業。明治36年、文部省の命で欧州へ留学。明治39年帰国後、名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)の教授を16年間勤める。妻の姉は夏目漱石に嫁ぎ、禎次氏は漱石の義弟に当たり、漱石の墓碑の設計も行う。
奏楽堂、噴水塔を設計したのは鈴木氏が30代後半の、建築家として独り立ちし始めた時期。鶴舞公園を洋風庭園として外国の手法を取り入れ、中部地方の近代西洋建築家の位置づけを確立した。
 
 
   
普選記念壇
 
  普選記念壇は、大正14年(1925)の普通選挙制度の成立を記念して、昭和3年に名古屋新聞社(現 中日新聞社)より寄贈された野外劇場です。「5箇条の御誓文」を掲げたステージと、緑陰につまれた木製のベンチや芝生席があります。演奏会などのイベントもたまには催されますが、むしろ今は、ご近所のオジサンたちの「碁」『将棋」「マージャン」を楽しむ憩いの『青空道場』として、炎熱の夏も、酷寒の冬もおおいに盛り上がっています。  
     
   
英文
 コノ御誓文ハ明治維新ノ大精神二シテ我國立憲
政體ノ基礎ナリ我社改題二十周年二アタリ之ヲ
金石二刻ミテ明治大帝ノ盛徳ヲ萬世二仰キ併テ
普通選擧制度ノ實施ヲ永久二記念ス。
正文ハ慶應四年太政官日誌第五號版本ノママ
ヲ擴大シ英文ハ穂積陳重博士ノ飜譯ヲ用ユ

  昭和二年十一月三日   名古屋新聞社

この金石は今次大戦により破損したため
今般明治百年を記念して原文のままここ
に復原する。

昭和四十二年七月十五日
                   名古屋市
 
和文
 
 
  1、広く会議を興し、万機公論に決すべし

1、上下心を一つにして盛んに経綸を行うべし

1、官武一途庶民に至るまで各其志を遂げ人

  心をして倦まさらしめんことを要す

1、旧来の陋習を破り天地の公道に基ずくべし

1、知識を世界に求め大いに皇期を振起すべし
 
 

中央線鶴舞公園駅
名古屋〜東京を走る中央線が開通したのは明治44年(1911)です。トンネル、橋梁の難工事で、15年の歳月を要したと言います。鶴舞駅が出来たのは意外と新しく昭和12年のことです。この駅を造る為、付近の住民達と園内の売店などで作る「鶴園振興会」が市や国に陳情した。そして、地元住民が用地約800uを寄付し、約2万2千円を負担し道路の新設をするという事で駅の建設許可が出た。1972年木造の駅舎は50日余りの工事で完成した。この駅が完成するまでは、中央線に常設駅は無く、大きなイベントが行われるたびに臨時駅が設けられると言う不便なものでした。当初完成した鶴舞駅の古い写真資料を見ると、「つるまひ」と書かれてありました。「愛国駅から幸福駅」の切符がブームになった頃、”金の山に鶴が舞う”と「金山駅〜鶴舞駅」の切符が人気を集めたブームも今は懐かしい話となりました。

鶴舞中央図書館
この図書館は、大正12年(1923)開館の歴史がある図書館です。戦災で焼失後、昭和27年に再建され、昭和59年に近代設備充実の新館に改築されました。公立図書館では、わが国有数の蔵書量を誇っています。また、図書だけでなく、ビデオ、カセット、CDの貸出、「市民の不用図書リサイクル会」もやっています。火〜金は夜8時まで開いていますので、勤め帰りでも利用できます。夏休みも終わり頃になると、図書館の前に行列が出来ます。宿題を涼しい図書館で仕上げようという作戦です。

緑化センター
昭和55年に開設され、四季折々のテーマで緑化に関する相談、講習会、展示会などがおこなわれています。センターには身近な緑化に役立つよう、温室内の観葉物をはじめ、外周に樹木、花木、地被植物の見本園を配しています。これら見本園の植物、木々のすべてに、名札が付けられているのは、大変参考になります。上の写真で中央のガラス張りの建物が温室になっています。

緑化センターの温室には熱帯の花が咲いています。


緑化センター裏にも温室が有り路地植えで寒さに弱い植物を越冬させています。目につきにくい場所ですが重要な役割です。
 
みどりの協会
名古屋市内の公園官理を一手に行っています。催物の計画も行います。公園に関して分からない事が有れば協会事務所に電話してみて下さい。建物はつる植物で覆われ、夏の省エネに効果を発揮しています。 п@731−8815
 
 
 
名古屋大学病院

 夜の名大病院
 公園の北側、いわゆる名大病院に、鶴舞公園を一望できるビュースポットがあります。最近完成した新病棟(平成13年完成)の13・14階にオープンした展望レストラン・ティールームです。病院内施設ですが、マナー(たばこ、携帯電話の使用禁止など)さえ守れば、営業時間内は自由に出入できます。
ちなみにこの新病棟を空から見ると、鶴が翼を広げ大空に向かって飛び立つ様で、めでたい形なのです。
 
 
  吉田山

現在野球場のある丘陵地は、もと名古屋区長(市政以前のこと)吉田禄在の所有地でした。共進会の際に寄付され、ここに金閣寺そっくり模した迎賓用の「聞天閣(もんてんかく)」がたてられました。
その後、国宝猿面茶屋や松月斎、美術館などもたてられましたが、戦争ですべて失われてしまいました。戦後屋外スタジアムがつくられましたが、昭和34年の伊勢湾台風で大被害を受け取り壊され、昭和39年からは野球場として使われています。
四阿(あずまや)の北にある階段に楔形の模様があります。見逃しそうですが、昔の美術館の入り口部分が残っています。また、吉田山では聞天閣貝塚も発見されています。

聞天閣