平泉の世界遺産 | H25.08.18〜21. |
平泉の中尊寺には、金色に輝く金色堂なる建物が有り、2011年に世界遺産に登録されている。別世界を彷彿させる絢爛豪華な荘厳なものであるらしい。話には良く聞く、「金色堂」ですが、一度は実際にこの目で見たいという強い欲望に駆られていた。その長年の願いが叶うチャンスが訪れた。それは3日間のフリータイムだった。今までは3日間の連休が有ると、必ず何か用事が有ったが、今回は全く気に成る用事が無かった。こんな事は滅多にない事なので、思い残す事無く、実行した。 8月18日の日曜日の夕方名古屋を出発した。平泉までは800kmを遥かに越える距離が有る。19日の月曜日は、松島観光と瑞巌寺に御参りし、午後3時頃東北道の一関ICを出て、巌美洞と達谷窟毘沙門堂を見た。20日の火曜日は平泉の世界遺産5カ所を散策した。中尊寺は朝からユックリ観光し、毛越寺、観自在王院跡、金鶏山、無量光院跡を見て時間が有るので、猊鼻渓(げいびけい)まで足を伸ばした。21日水曜日は、SAで休憩を取りながら緑区まで戻って来ました。走行距離は約2,000km程でした。 |
松 島 観 光 |
平泉の世界遺産散策の前に、日本三景の一つである”松島”に寄りました。 松島とは、宮城県の松島湾内外にある大小260余りの諸島のこと。または、 それら諸島と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた修景地区のことである。日本三景の1つに 数えられている。 H23,3,11に発生した東日本大震災とその直後に襲来した大津波によって、島の文化財の一部が破損するなどの被害が発生したが、周辺の自治体と比較して被害は軽微で済んでいる。その理由として、津波は浅い海に入ると速度が落ちて急激にエネルギーを失う。松島湾内の水深は10メートル以内である。そして点在する島々が緩衝材となり、津波の勢いを弱めたと見られている。この一帯が過去から大きな地震のたびに地盤が少しずつ沈下してできた地形であることを物語っている。 |
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![]() 瑞巌寺入口 |
瑞巌寺は、 天長5年(828)、慈覚大師円仁によって開創された奥州随一の禅寺で、延福寺と呼ばれていました。延福の寺号は天台宗の総本山、延暦寺に由来します。正元頃(1259)臨済宗に換わり寺名も円福寺へと改名されました。 |
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![]() 五大堂 |
![]() 五大堂にある12干支の彫刻 |
松島の「五大堂」は、大同2年(807)、坂上田村麻呂が東征の折り、毘沙門堂を建立し、後に、慈覚大師円仁が円福禅寺(瑞巌寺の前身)を開いた際、「大聖不動明王」を中央に、「東方降三世」、「西方大威徳」、
「南方軍荼利」、「北方金剛夜叉」の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになりました。 現在の建物は、伊達政宗公が桃山様式の粋を尽くして再建したもので、瑞巌寺に先だって建立されました。桃山建築としては、東北地方最古の建物です。 |
![]() 福浦橋(252m) |
![]() 福浦島から見た島々 |
福浦島は松島海岸の東に浮かぶ、面積6ヘクタールほどの島。全長252mの朱塗りの橋(福浦橋、料金200円)で陸と繋がれています。県立自然植物公園となっている島内には、数多くの樹木や草花が自生し、植物の宝庫となっています。歩きやすい遊歩道が整備されていて、弁財天や縄文時代の貝塚など、歴史ある史跡も残されています。見晴台やあずま屋からの松島湾の眺望も抜群。樹木に囲まれた芝生広場(多目的広場)からは海も望めます。 |
![]() 大高森から見た松島の絶景 |
![]() 頂上まで15分です。 |
松島四大観とは、松島湾に浮かぶ260余島を東西南北から一望する名所が「四大観」です。それぞれの場所から松島湾を眺めた印象から“麗観”“偉観”“壮観”“幽観”と呼ばれています。 「富山」=“麗観”と呼ばれており、明治9年には明治天皇も登られたことのある由緒ある場所です。杉や松、樅の大木に覆われた山頂の大仰寺には、奥州三観音の一つ・富山観音が祀られています。松島湾の島々は、静寂な趣ただよう大仰寺の庭から東南西の三方を一望することができます。 「大高森」=“壮観”です。松島の形状を箱庭のように見られることから名付けられました。松島湾の東側、東松島市宮戸島のほぼ中央にある高峰で、山頂からは嵯峨渓と松島湾を望みます。 「多聞山」=“偉観”です。七ヶ浜町の北端、代ヶ崎の断崖に太平洋から打ち寄せては砕け散る波の雄大さから名付けられました。 「扇谷」=“幽観”です。双観山の背後にある高地で、山頂からは松島湾の入り江が扇を広げたように浮かんで見えることから、扇谷と呼ばれています。 |
厳 美 渓 と 達 谷 窟 毘 沙 門 洞 |
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厳美渓(げんびけい)は、東北を代表する景勝地で、岩手県一関市にある磐井川中流の渓谷。栗駒山を水源とする。 自然が作り上げた全長2キロメートル。1927年に国の名勝及び天然記念物に指定された。この地を訪れた伊達政宗は、松島と厳美渓は二大景勝地として褒め称えた。
なお、同市内の 東部には猊鼻渓(げいびけい、国の名勝)という地名が類似した渓谷がある。 |
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![]() 達谷窟毘沙門堂 |
達谷窟毘沙門洞(達谷西光寺)は、国指定史跡で延暦20( 801)年、蝦夷平定に赴いた征夷大将軍・坂上田村麻呂が、この地で暮らしていた蝦夷の頭・悪路王を激戦の
すえ打ち破り、蝦夷平定を記念して、京の清水寺を模して建立したと伝えられる毘沙門堂。坂上田村麻呂が鞍馬寺の毘沙門天(戦いの神様)を勧請して本尊とし、108体の毘沙門天を安置し国を鎮める祈願所として建てられました。兵火により焼失し1615年に伊達政宗公により再建されますが再び焼失し、現在の堂は昭和36年に再建されたものです。 ここは広い無料駐車場が有りました。受付(入場料300円)には温和な方が見え親切に対応してくれました。旅先での対応は、そこの場所のイメージとして永遠に残るので、その場所を生かすも殺すも数秒からの対応で決まります。 |
![]() 達谷窟毘沙門堂の内部。 |
![]() 巌窟の上に今も残る顔面大仏 |
毘沙門堂は岩山のくぼみの中にお堂が建立されており、内部には岩肌が露出している部分も有ります。 | この大仏も平安時代から今日に至るまで、東北の移り行く様を見ていたのかも知れません。 |
中 尊 寺 |
![]() 地図の左上に有る赤い鳥居が白山神社です。神社も 能舞台も離れている様に見えますが直ぐ近くです。 |
平泉には5つの世界遺産が有り、最初に見たのは中尊寺でした。中尊寺第一駐車場(400円)に着いたのが9時前でした。駐車場は時間が早いのか車は少なく、出入口に近い場所に停めました。この日は小雨が降っていたので、傘を差しながら月見坂を金色堂に向かって登りました。この坂は長く傾斜が有るので意外な感じがした。足に自信の無い方は相当苦労していました。想像では平坦な道で開けているものと勝手に思い込んだのが間違いでした。道の左右には御堂が沢山あるので、お賽銭用の小銭を多く準備して御参りした方が良いでしょう。お堂に有る売店の方は準備中か、見物客が少ないのでか分かりませんが、朝の挨拶も無く無愛想でした。国が誇るべき世界遺産なのですから、それなりの接客教育もしておくべきではないかと、蛇足ながら感じました。 拝観券発行所の讃衡堂で800円の参拝券を買い、宝物館にもなっていたので館内に入り、金色堂の宝物や歴史を学びました。この頃から外は雨が止み、暑さを感じない気温に成っていました。そして最大の目的地の金色堂に入りました。縦横5.5mの金色堂は輝いていましたが、仏像は色がくすんで、金色に輝く仏像とは程遠いものでした。 |
金色堂は我が国初の国宝建造物である。そして奥州藤原氏の終焉の地でもある。 浄土世界の中心地だった中尊寺は、創建当時の姿を今に伝える唯一の建造物金色堂がある。中尊寺に代表される浄土の世界を平泉に築いたのは、11世紀の豪族奥州藤原氏でした。初代清衡は戦の中で父や妻子を亡くすと言う悲運を経験した。その悲しみから戦乱の犠牲者が、敵味方を問わず極楽浄土へ行けるように、現生に浄土の世界を構築した。そしてその精神を受け継いだ子孫達が平泉に100年近く続く浄土の理想郷を作り上げた。 中尊寺は850年に天台宗の慈覚大師円仁によって開山された。戦いが多かったこの時代に、浄土教は非常に説得力を持って流行った。京都には宇治の平等院鳳凰堂があるが、それと並ぶ浄土教聖地、それを平泉の中尊寺につくった。 浄土は願い事を叶える等、我々の利益の為に御参りするのではなく、大自然の中の太陽、風、水等あらゆるものから頂く感謝の気持ちを自覚する事である。 |
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2011年、世界遺産として平泉の5カ所が登録された。何故平泉なのか・・・・・・? 11世紀奥州平泉に藤原氏が拠点を構えてからというもの、平泉には多くの建物や庭園が造られて来た。その中心が中尊寺で、金色堂は創建当時の威厳に満ちた輝きを今も湛えている。 豊富な黄金を礎に、独特の文化を築いた奥州藤原氏、彼らが目指した「怨親平等」(恨みの有る人も、親しき人も平等に扱う。)の理想郷「浄土の世界」達成を目指し、初代清衡から2代基衡・3代秀衡へと脈々と受け継がれていった。 京から遠く離れた東北に有りながら、現世浄土を目指し100年の繁栄を築いた奥州藤原氏の理想郷とは何をイメージしたのだろうか? 浄土と言う理想世界をこの世に造り出すべく建立されたもの、他に類を見ないこの浄土思想が評価された平泉。仏国道を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群が世界遺産に登録された。 今なお当時の姿を留める寺院や庭園は、初代清衡に始まる奥州藤原氏3代によって造られたもので、中でも清衡は藤原氏100年の礎を築いた。 清衡は幼くして父を、その後も妻や子を戦で失い、深い苦しみ、悲しみを背負ってきた。(武士の父と、豪族阿部氏の娘である母の間に生まれた清衡は、父や妻子が惨殺される等の悲劇に遭遇した。) そしてそんな自らの経験を基に、戦乱の犠牲となった人々が、敵、味方を問わず、極楽浄土へ導かれるようにとの願いをたてた。 奥州の覇者となった初代清衡は「争いの無い現世浄土」を目指し、その一つとして中尊寺を建立した。この平和の理念、現世に極楽浄土という想いが平泉の町造りの基本となった。 |
![]() 月見坂は杉や檜の巨木が有る。 |
平泉と言うのは、土地の名前でもあるし、平安時代に東北に花咲いた仏教文化そのものを意味していたりもする。藤原氏3代の時に最初に中尊寺が造られて、2代基衡の時に毛越寺出来た。そして3代秀衡の時に無量光院が出来た。どんどん浄土教王国が充実しそれと共に面積的にも広がって行く。中尊寺を建立した清衡公という方は、前9年と後3年の役の死者達を、敵味方関係なく供養する目的で、中尊寺建立を発案した。この考え方で有名なのは、天竜寺の夢想礎石と鎌倉円覚寺の無学祖元で、「怨親平等」の思想が初めて生まれたのは平泉でした。そんな意味からも国際的な仏教王国、平和思想と平等感を持った王国が出来つつ有った。そしてその文化は東北一円に広がった。 金色堂は何故金箔なのか・・・・? 金に対するイメージは今とは多少違っていた。その頃には皆が良い意味に感じてはいなかった。絢爛豪華、成り金的で高慢な、手の届かない憧れが嫌悪に変わっていた。交換価値としてみると金とか銀はそうみえた。当時の金は、苦労して川からすくいあげて来る砂金だった。それを収集して板にするのがいかに大変だったか。手間暇そのものが大変貴重だった事が皆実感出来ていた。5万枚の金箔を貼り付ける行為は真摯に浄土を建設する固い表現でした。これで何が買えると言う交換価値ではなかった。何時までも変わらず微かな光を何百倍にも照り返すこの物質は何だろうと言う不可思議さもあり、浄土を表現するにはこれしかないと考えられていた。 |
中尊寺での写真撮影は、讃講堂、金色堂以外は可能だそうです。 |
![]() 最初のお堂は八幡堂でした。 |
![]() 弁慶堂 |
![]() 薬師堂 |
![]() 本堂の御本尊、釈迦如来座像。 |
![]() 本堂(金色堂までは600mです。) |
御本尊はH25.3.24.に正式な中尊寺の新しい御本尊様としてお迎えした。この御本尊様の手の形がユニークで、右手は裏返しで、説法が一方向のものでなくて、話の中でお弟子さんからの反応とそれを受けて、御釈迦様からお弟子さんへの説法で、双方の行来を表す手の形で有る。 | 明治の末に再建され、法要儀式の多くはここで行われる。 |
中尊寺 9世紀に開かれ12世紀頃、奥州藤原氏の初代清衡のもと、本格的に堂塔が建設された。「現世に浄土の世界を・・」そんな清衡の願のもと築かれた時には、40余りの寺塔と300以上の僧房(僧の宿舎)が並んでいた。惜しくも14世紀に当時の建物の多くは焼失したが、唯一境内の奥に位置する金色堂のみが、創建当時の荘厳な空気を今に伝えている。 |
![]() 讃講堂 ここで讃講堂見学料と金色堂拝観券800円を支払います。 |
![]() 讃講堂に有る「三体の丈六仏」 |
中尊寺の貴重な品々が収蔵された宝物館。中尊寺に伝わる非常に古い仏様とか、御教や仏具など文化財が展示されている。展示しているのは一部で収蔵庫の方には国宝重要文化財等含めて300店程のものが収蔵されている。 |
三体の丈六仏 丈六とは1丈6尺でおよそ4.8mです。座像の場合はその半分の大きさで、三体の仏像の高さは其々2,4mです。讃講堂の仏は中尊寺の境内か、或いはその少し外側に沢山御堂が有り、仏様が彼方此方に居ると全部を御参りする事が困難で、それに遠い御堂ですと、保存や盗難の心配も有るので、全て御参りし易いように、又安心して保存できるように建物の中に集めた。中心の阿弥陀様は、かつては中尊寺の本堂の御本尊様でした。しかし大きい仏様で、本堂の大きさが仏様のサイズに合わないので現在は合わせている。 三体の中心が阿弥陀様で、片方は御薬師様で、右手は我々の不安な心を恐れる事は無いと表し、落ち着かせる手。左手は救いや薬と言った、具体的な御利益に成るものを差し出してくれる手。恐れを鎮め、願を叶えたり何かを差し出す、そういう手の2つの形を表している。 |
![]() 紙本墨書中尊寺建立供養願文 |
![]() 金銅華曼 |
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清衡様が中尊寺を大きく造営するに当たり、その趣旨を書いたもの。鐘の音を鳴らす度にそれまでの内乱。前9年の役、後3年の役で亡くなっていった、敵味方関係なく命を落とした者達への供養。溢れだす清衡の浄土への思いが書かれている。 | 国宝、金色堂の中の装飾として、金色堂の中に吊り下げられていた。元は金色に輝いていたが、長い年月で光沢は無くなっている。 (金色堂の中に掛けられていた、御堂を飾る為の花輪。平安時代後期の金工芸を代表する逸品) |
![]() 階段を上がると金色堂で、建物を通り越すと入口です。 |
![]() 金色には輝いていませんでした。 |
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奥州藤原氏清衡が造営した。藤原氏滅亡後、度重なる火災によって、多くの堂塔が焼失したなか金色堂だけが創建当時のまま残り、その堂内には奥州藤原氏4代の御遺体が納置されている。松尾芭蕉が「奥のほそ道」で「五月雨の降残してや光堂」と詠んだことでも有名です。 | 天治元年(1124)の造立で、現存する唯一の創建遺構です。御本尊は阿弥陀如来、脇侍に観音、勢至菩薩、さらに6体の地蔵菩薩と持国天・増長天が本尊を取り巻いています。堂全体を金箔で覆い皆金色の極楽浄土を現世に表しています。 内陣は螺鈿細工・蒔絵などの漆工芸や精緻な彫金で荘厳され、平安仏教美術の最高峰をなしている。 中央の須弥壇の内に初代清衡公、向かって左の壇に二代基衡公、右の壇に三代秀衡公の御遺体と四代泰衡公の首級(討ち取った首)が納められています・ |
昨夜からの雨で朝の中尊寺散策の観光客は少なかった。それでも讃講堂に着く頃には雨は止み、傘が必要無くなっていた。讃講堂の中も空いていたので、何の障害も無く宝物を見る事が出来た。金色堂内でも仏像を好みの角度から見る事が出来たので満足しました。そして時間が充分あったので、讃講堂と金色堂に再入場して堪能するまで見学しました。しかし再入場は何か必要な理由が無い事には入れてくれないそうです。 そして金色堂の近くに有る白山神社に行って見ました。 |
![]() 能舞台と左手奥に「茅輪くぐり」と神社が有ります。 |
![]() 白山神社入口 |
![]() 関宮宮司 |
寺院の境内に神社が有るのは、不思議な様に思うが、一般の家庭にも神棚が有る様にこの神社は中尊寺の鎮守に成っている。神社正面には茅の輪くぐりと呼ばれる輪が有る。それを潜れば、日頃知らぬ間に犯している心の罪や汚れを御払い出来ると言う。 参道(これは女性の産道に通じる。)を潜り、茅の輪を潜り、赤子のような無垢で清らかな気持ちに成る事は、浄土にも通じるのである。 神社の境内には能舞台が有り、現在も能が上演されている。13代藩主伊達 慶邦公が建立し、平成15年には国の重要文化財に指定された。 |
関宮宮司との会話・・・・・。 白山神社の入口を奥に入って行くと、大きく古い建物がある。それは重要文化財に指定された能舞台でした。こんな古びた舞台で現在でも能が上演されている事が不思議に思えた。自分のイメージとしては、床などが磨かれ古いなりに光り輝いている板を想像していた。そして奥に有る小さい建物の方へ進んで行くと、その小さな建物が白山神社なのだ。神社横の建物で、盛んにこそこそと動き回っている人を見掛けました。この人は神社の関係だろうと見ていましたが、しかしテレビでインタビューを受けていた人に酷似している。テレビに出ていた時の顔は、穏やかで柔和な顔をしていた。今は厳しい顔つきで取り付く島が無い雰囲気だった。 茅の輪の前で輪を見ていると、丁度その人が通りかかったので、意を決して「テレビでインタビューされていた方ですか?」と聞くと、「そうです。」と答えてくれて、「BSで放送されたので、見ている人は少ないだろうと思っていた。」と言われました。その後話が進み、関宮宮司は話好きだと分かりました。そのBS放送は、女優の大場久美子が平泉を紹介するものでした。大場女史は白山神社について関宮宮司に質問し、宮司が笑顔で愛想良く答えているものでした。テレビ番組なので何度もリハーサルされたのかと聞くと、1回で収録していった。多分時間が無かったのだと思う。と言う。1回にしては上手に答えられていました。と褒めると、とんでもない、自分でDVDに撮ったが、2度と見たくない。自分の思いとは違う。と残念そうに語っていました。その時の謝礼として、大場久美子のサインだけでした。それは大事に仕舞ってある。と得意げに笑っていました。収録には時間が無かったのではと宮司が話していましたが、そう言えば2回に渡って放送された番組の中で、大場久美子の衣装が全く変わって居なかったので、1日で撮ったのかも知れないと思いました。 |
毛 越 寺 |
中尊寺を心行くまで散策し、次の目的地である毛越寺に向かいました。中尊寺の駐車場から毛越寺の駐車場までは数分程度の短い距離です。その駐車場で中尊寺の駐車券を見せると100円の割引で200円でした。駐車場から階段を上がり毛越寺へ向かいました。 毛越寺・・・・。 中尊寺と並び評される名殺である毛越寺は、奥州藤原氏2代基衡から3代秀衡の時代に多くの伽藍が造営され、中尊寺をしのぐ巨殺だったという。造営された伽藍は度重なる火災にあい、全ての建物が焼失してしまったが、往時には金堂円隆寺(かっては毛越寺の中心的伽藍であった寺院。現在は跡地のみが残る。)や堂塔40を数え中尊寺をしのいだ。 |
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毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡(もとひら)から三代秀衡(ひでひら)の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されており、国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けています。 平成元年、平安様式の新本堂が建立されました。 白鹿伝説とは・・・・・・。 寺伝によると嘉祥3年(850)慈覚大師(じかくだいし)が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ、一歩も前に進めなくなりました。 ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛を辿ってゆくと、前方に白鹿がうずくまっていました。大師が近づくと白鹿の姿は霧のなかへ消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げました。 大師は、この老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺(かしょうじ)と名付けました。これは毛越寺の開山にまつわる話です。 |
![]() 毛越寺本堂 |
![]() 宝物館 |
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毛越寺一山の根本道場であるこの本堂は、平安様式の建物で、平成元年に建立されました。本尊は薬師如来で、平安時代の作です。本尊の脇士は日光・月光両菩薩、さらにその周りには本尊守護の四天王が安置されています。 | 毛越寺一山に伝わる平安期の仏像、書籍、工芸品、発掘遺品、調査資料、延年の舞用具などを陳列しています。 |
![]() 毛越寺の大泉が池 |
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庭園の中心は、四季の美しさを映す大泉が池です。池は東西約180メートル、南北約90メートルあり、作庭当初の姿を伝えています。塔山を背景に仏像の前に造築された庭園で、池には南大門から中島、更に円隆寺へと続く二つの橋が架けられていた。池は海を表現していて、汀には州浜、荒磯、築山など海浜の景趣が配されている。 池のほぼ中央部に東西約70メートル、南北約30メートル、勾玉状の中島があります。池の周辺や中島にはすべて玉石が敷かれています。 昔は南大門前から中島南まで17間の反橋、金堂側から中島北まで10間の斜橋がかかっていたと古記録に記されています。橋の四隅に据えられた橋挟石や南の反橋の橋杭は残存しています。また直径27センチの大面取の橋杭は二本だけ抜き取られて、宝物館に陳列されています。これは橋の遺構としては、わが国最古のものとされます。 |
![]() 平泉への入口と言う役割を果たしてきた。その正面に見える小高い所が、金堂円隆寺で中心的伽藍であった。今も大泉が池には橋の遺構が残されていて、この池は驚く事に手掘りでした。 現在までほぼ完全に保存されて来た浄土庭園。ここも礎石だけが残っている。 『吾妻鏡』に出てくる「二階惣門」にあたり、桁行(けたゆき・横、東西)三間(ま)、梁行(はりゆき・縦、南北)二間(ま)の平面形式をもち、現在でも12個の礎石が整然と並んでいます。基壇構築のためその周囲に堰板を使う工法「版築(はんちく)」は、中国のみならずわが国でも古くから基壇・土塁・築垣(つがき)に用いられましたが、堰板を止めた柱まで発見されたのは、毛越寺の南大門跡と講堂跡が最初です。 南大門(南向き)の東に続いて、築垣、犬走り、溝が発見されました。築垣基底部の幅は10尺以上、築垣の外側(南)にある犬走りの幅も八尺以上と推定され、犬走りのさらに外側にある溝は6尺ほどです。この場合の築垣は高さ1丈程度(約3メートル)の、むしろ土塁というべきものであったと思われます。 検出された築垣、犬走り、溝の三者が創建当時から揃っていたとすると、それは延喜式その他に見られる平安京の宮城の周囲や大路の両側の状況に似たもので、規模もそれに優るとも劣らないものでした。飛鳥寺、四天王寺、薬師寺などの発掘例からみても、築垣、犬走り、溝の三者を合わせ備える遺跡は今のところ毛越寺だけで、しかもそれが破格の規模であったことに、この寺の特異性があると言われています。 |
![]() 大金堂円隆寺跡 |
![]() 金堂円隆寺 |
基衡が万宝を尽くして建立した勅願寺で、本尊は雲慶作の丈六の薬師如来でした。毛越寺の中心伽藍で、東西に翼廊が出 て南に折れ、東廊先端には鐘楼(しゅろう)が、西廊先端には経楼(きょうろう)が附属していました。基壇は石造り壇上積です。 |
観 自 在 王 院 跡 |
毛越寺と並んで造営されている観自在王院跡へ向かいました。ここも広い敷地の中に池が有り、特に目立った建物は有りません。この観自在王院跡は二代基衡公の妻が建立したと伝えられる寺院跡。ほぼ完全に残っている浄土庭園の 遺構は平安時代に書かれた日本最古の庭園書『作庭記』の作法どおりと考えられてい ます。池の北岸に大阿弥陀堂と小阿弥陀堂が設けられていたことから、極楽浄土を表現した庭園と考えられています。 |
![]() 観自在王院の見取り図。 |
観自在王院は、阿弥陀如来本尊としていた。阿弥陀如来の別名は、観自在王如来であることから、御堂の名称はここから付けられた。 国の特別史跡に指定されている観自在王院跡は、二代基衡の妻室が建立したと言われます。観自在王院は阿弥陀堂のことで、大阿弥陀堂と小阿弥陀堂がありました。大阿弥陀堂には阿弥陀如来、観音、勢至菩薩の三尊を安置し、堂内の四壁には洛陽の名所地を描き、仏壇は銀、高欄は磨金で出来ていたと言います。いかにも女性の持仏堂らしい華麗な造りであったことがうかがわれます。発掘調査によると、観自在王院跡の全容は四囲東西約120メートル、南北約240メートルで南北に長い長方形。南門を入って北には今も残る「舞鶴が池」。池は東西、南北ともに約九十メートルでほぼ正方形です。池の中央南寄りには中島があり、池西岸に荒磯風の石組。その北側には巨大な川石の石組があり、ここから滝のように水が流れていました。このように舞鶴が池は平安時代の『作庭記』の作法通りに作られていたと言われています。規模こそ小さいながらも、平安時代第1級の浄土庭園であったことがしのばれます。 観自在王院は天正元年(1573)の兵火で焼亡。現在の建物は享保年間に大阿弥陀堂跡に再建されたものです。舞鶴が池を中心とした浄土庭園の遺構はほぼ完全な形で保存され、今は史跡公園として整備されています。 |
![]() 観自在王院跡は広大な平坦な土地に池が有りました。 |
![]() 舞鶴が池 |
舞鶴が池・・・・・。 舞鶴が池は、南北110m、東西105m、総面積は約9.000uで、その南東寄りに、東西35m、南北10m、面積300uの中島が有る。西北方から東南方にかけてゆるく傾斜する谷地形を利用し、南から東に土堰堤を築いて水を湛えたもので、中島は上層部を少し築いたものと思われる。 池跡は長く水田化していたが、発掘調査により池汀の敷石を検出した。また転倒していた景石のいくつかを修復している。 水位は東北隅から検出された州浜や各所の景石の姿を考慮に入れ、海抜34.90mを基準にして整備されている。 中島跡・・・・・・。 貞和6年(1350)と観応2年(1351)在銘の板碑などが出土しており、中世には東部が墓地になっていたと考えられる。江戸時代に池が水田化した際、島の周囲が削り取れれたが、発掘調査の成果に基ずき、築造当時の姿に修復された。また、文和4年(1355)の銘を持つ鉄製宝塔が近世に至るまで中島中央に置かれていた。この宝塔は塔身と基台のみが残り、現在毛越寺宝物館に保管されている。 |
![]() 車宿は牛舎を格納する為の建物である。「吾妻鏡」は、「観自在王院の西、南北に数十の車宿有り」と記している。建物の規模は、桁行10間、各間2.75m、梁間2間、各2、35mの南北に細長い掘立柱の建物で、十輌の牛舎が納められる。西側正面を除く三方は壁によって囲まれていたと考えられ、床面は周辺部と同じ玉石敷きで、四周に雨落ち溝を回らせている。 この場所は、毛越寺の東土塁と観自在王院の西土塁に挟まれた幅約30mの広場で、牛車を納めたり、牛をつなぐのに都合の良い場所だったと見られている。 |
![]() 四脚門で、親柱を掘立柱とし、前後四本の袖柱は礎石が用いられていた。また、西南隅袖柱から南へ約1.2mの所にも掘立柱の穴が有り、土塁と門の間には潜戸が設けられていたらしい。発掘調査によって検出された雨落溝の状況からみて、屋根は棟を南北に通した切妻造りと考えられる。 境内の西を限る土塁に開かれた唯一の門で有り、規模としては大きなものではないが、伽藍中心部に近いこと等から、日常の往来などに利用されていたと考えられる。 |
金 鶏 山 |
毛越寺で親切な係の方がみえたので、金鶏山へ行く道を聞きました。地図を広げながら、ここから時間は30分も掛からない所に有ると教えてくれました。そこには駐車場が有りますか?との問いに、駐車場は無いですが、金鶏山の入口の道路に置けない事もないです。と言われた。初めて行く所なので、狭い道なら他の車の通行にも邪魔になるだろうから、30分程度なら歩いても大した事は無いと徒歩での登頂に挑みました。そんなに高い山で無いので登頂とは余りにも大げさすぎるのではないかナ・・・・・?。 |
![]() 道路に金鶏山の看板が有ります。 |
![]() 確かな案内板。 |
![]() 老朽化した鳥居。 |
![]() 平泉の中心部に位置する標高約100mの円錐形をした小高い山です。 中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置し、「二代基衡が黄金で雌雄の鶏をつくり、山中にこれを埋めて平泉を鎮護した。」という伝承が有り、十二世紀に歴代の奥州藤原氏が山頂に経塚 を築いた信仰の山で、平泉のまちづくりの基準となりました。東麓には花立廃寺と呼ばれる寺院跡が有ります。毛越寺の東側を区画する土塁の延長線上に、この山頂が位置する事から、毛越寺やその周辺の町並みは、金鶏山に基づいて造られたものと想定されます。 また、無量光院跡から見た金鶏山は、仏教の西方浄土の景観を現わしているとされ、こうした信仰の象徴としても重要な山です。 松尾芭蕉も平泉を訪れた際 、「金鶏山のみ形を残す」とこの山の印象を記しています。また、上り口付近には、義経妻子の墓と伝えられる五輪塔が有ります。 |
![]() 源義経公妻子の墓 |
![]() 源義経公妻子の墓 |
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源頼朝の威圧に依って藤原泰衡が高舘に義経公襲った。義経公は北の方と幼児を殺害し、自害したと伝えられる。時は平安時代の文治5年(1198)閏四月三十日、三十一歳で最期を遂げられた。このお墓は、高舘で悲しくとも露と消えた妻子の墓と伝えられているが、元は千手院境内で、ここから約三百m程の西北金鶏山の山麓にあったが、ここに墓石を遷し供養を怠らない。 |
![]() 山頂に有った祠 |
![]() 金鶏山登山入口 |
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金鶏山にはたくさんの伝説が伝えられています。その多くは、奥州藤原氏歴代当主が、平泉の鎮護を目的とし黄金の雌雄の鶏を埋めたというものです。 金鶏山は、山頂から多数の甕(かめ)や壺が見つかったことにより、お教を埋めた経塚山だったことが判明しました。黄金の鶏は発見されませんでしたが金鶏山は、聖なる山で有り、平安時代以来、平泉を見守ってきたようです。 |
金鶏山は、藤原秀衡公が、平泉鎮護の為、黄金で雌雄の鶏を造り、漆詰めにして埋め、富士に形ち取り築き上げた山で有ると、伝えられている。 藤原秀衡公時代の、由緒ある山では、東方束稲山の麓峰次ぐ山である。 頂上には、昭和三年十月、御大典を記念して平泉駅無事故祈願。職員一同に依って、金鶏山神社奉納する。 |
無 量 光 院 跡 |
金鶏山に登って見て、余りにも魅力の無い山に、何故、ここが世界遺産に選ばれたのか不思議に思えた。平泉の鎮護を目的とし、黄金の雌雄の鶏を埋めたといのも確かなものではないらしい。そんな不確定な要素を支持されたのですから、それなりに選定された意味があったのでしょう。頂上に有った祠も、とても立派なものと思えなかった。山に登ってもいる間も、散策している人は一組だけで、静かで寂しい山でした。 ここから五カ所ある世界遺産指定地の、最後の目的地の無量光院跡に向かいました。車で十数分の距離に有りましたが、ここは放置された農地の様に見え、半信半疑で通過してしまいました。注意して引き返すと、小さい駐車場が有り、そこに無量光院跡の看板が有ったので、辛うじてこの場所が目的地だと分かりました。 |
無量光院跡 藤原秀衡が、宇治平等院の鳳凰堂にならい建立した 寺院跡です。当時の平泉の政治の中心であった柳之御所に近接していて秀衡の持仏堂 的意味合いの強い存在だったようです。遺跡のほとんどが水田化し、池跡、中島、礎石のみが残っています。南北 に長い伽藍の中心線は、東門・中島・本堂を貫いて、その先の金鶏山と直線で結ばれています。春と秋の年二回、その稜線上には、夕刻になると日輪が下がり、一日のうちでももっとも荘厳な落日の一瞬が現れます。平等院の景観とは異なった、極楽浄土を体感できるように計算し設計された空間です。世界遺産登録をうけて、史跡の発掘調査および周辺の整備などが行われ、一帯の景観保存が進められています。 |
![]() 駐車場から無量光院跡を望みました。農地に見えました。 |
![]() 平安時代末に奥州藤原氏三代秀平衡が建立した、浄土庭園の最高傑作の寺院の跡です。浄土庭園として知られ、三方が土塁に囲まれた境内には、梵字が池(ぼんじがいけ)と呼ばれる池跡があり、その中に本堂跡の礎石が残る西島跡と、東中島跡があります。 鎌倉幕府が編纂した歴史書「吾妻鏡」によると、「宇治の平等院を模す」と記されています。昭和27(1952)年に行われた発掘調査によって本堂の形などが、平等院鳳凰堂に似ている事が確認され、一回り大きいものと分かりました。鳳凰堂は、「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供にまでも唄われました。鳳凰堂も無量光院も仮想の極楽浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像です。西方に極楽あり、その主は阿弥陀如来なのです。 四月中旬と八月末頃には、本堂と東中島建物の中軸線上に位置する金鶏山の山頂に、夕日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来像が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったのかも知れません。 |
![]() 本堂跡 |
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四月中旬と八月末頃には、本堂と金鶏山の山頂に、夕日が沈み、入日の中に阿弥陀如来像が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったのかも知れません。 |
長年の夢だった中尊寺の金色堂を見る念願が叶い、金色堂と讃講堂を2回も見る事が出来ました。それでも要した時間は3時間弱で、思ったよりも狭い範囲にお堂等が有りました。 平泉に極楽浄土を現世に造り、怨親平等、敵味方関係無く極楽浄土へ導きたいとう、奥州藤原氏三代の意気込みを感じました。争いの無い平和な世の中を造る事が理想でした。しかし戦乱の世で、藤原氏の様な考え方を持った人はどれ程居た事でしょうか?下剋上有り、親子兄弟でも殺戮を繰り返す、非道な世の中で、藤原氏は特異な人物と思われたのでは無いだろうか。 2011年6月。世界遺産になった理由は、仏国道を表現した建築、庭園、考古学的遺跡群という規定だった。藤原氏が長い闘いの後、敵味方関係なく祀ると言う仏国道を作ろうとした。規模から日本最大の浄土庭園である。 中尊寺、毛越寺は特に有名ですが、金鶏山、観自在王院跡、無量光院跡は知名度が余有りません。それは建物が無く建物の跡だけだからのように思う。建物を実際に見ないと遺構だけではとても建物を想像する事が出来ません。 平泉の歴史を勉強する事により、奥州藤原氏三代の事が少しは分かるかも知れません。 |
時間が有ったので寄りました。 |
![]() 猊鼻渓(げいびけい) |
![]() 田んぼの稲の中に立体的に描かれてる田圃アート。この辺では有名なのか、2人の若い女性もレンタサイクルで見に来ていました。ナスカの地上絵以上でした?。 |
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日本百景・名勝 猊鼻渓舟下り 平泉より車で40分 。砂鉄川が石灰岩を浸食してできた約2kmの渓谷。およそ100mの断崖が両岸にそびえている。流れは静かで、手漕ぎ舟での舟下りでは船頭が「げいび追分」を唄う。また、この断崖に紫の花を咲かせる藤の花が春いちばんの見どころで、特に清流沿いにそびえる藤岩には花期は鮮やかな紫色の房が幾重にも垂れ下がる。また最奥の猊鼻岩へ向かう途中にも藤棚が設けられており、新緑によく映える。 |
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