H27.5.11.  姫路城と岡山城 岡山県姫路市本町68
 
  世界文化遺産と国宝である姫路城が、平成21年から始まった「姫路城大天守保存修理工事」が完了し、平成27年3月27日に姫路城の一般公開が始まりました。
その城を見た人からは、「白過ぎる!」との批判が多く言われていました。これには賛否両論ありましたが、経年と共に白い漆喰が汚れて白さが目立たなく成るそうです。
兎に角、リニューアルした城を是非見たいと思い、現地へ行く事にしました。土日祭日は相当の混雑が有ると聞いていたので、5月のGWが終わった後の、5月11日(月曜日)に行きました。
名古屋市緑区からは、高速を利用して約280kmの距離です。行楽に一番気に成る事はお天気です。週間予報によると台風6号の影響で、その日の午後から雨に成ると予報されていたので、気分が滅入っていましたが、前日に成り月曜日は快晴に成ると変わり、気分も爽快に成りました。
 
 
   
 
新幹線を降りると、目の前に姫路城が見えます。駅から徒歩で20分程度です。  城の改修に合わせて整備された、無料眺望デッキ(キヤッスルビュー)
 
  姫路城は、今から700年程前、この地方の豪族であった赤松氏がこのエリアに城を築いた。1333年、赤松則村がこの姫山に砦を築いたのが始まりで、戦国時代に入ると一旦は軍師と言われた黒田管兵衛が城を預かった。1580年、豊臣秀吉が中国攻略に当たると城を献上した。そして秀吉は三層の天守閣を築きますが、今ほどでは有りませんでした。その後、関ヶ原の合戦で勝利した家康が婿の池田輝政に与え、8年に及ぶ城の拡張工事を行い、1609年、現在の姫路城(天守閣)を完成した。この城は、大阪の豊臣方に睨みを利かせる為に、江戸城と匹敵するほどの規模にしたのでした。当時は大阪に豊臣勢が居るので、戦いに成った時、西から攻めて来る毛利等外様大名を食い止める役割を持っていた。名古屋城は、大阪城に睨みを効かす東の拠点、姫路城は西側でその役割を担っていた。それだけに姫路城は防御に力を注ぎ、今も随所にそれを見てとれる。  
 
   
三の丸広場
 
何処から見ても綺麗な城です。
 入ると直ぐ広場から城が正面に見えます。 真白な城をイメージしていましたが、白さは感じません。
 
  大手前駐車場に着いたのは7時半少し前だった。駐車料金は3時間までは600円で、それ以上過ぎて1日以内は900円でした。ここは600台近くが駐車出来る大きな駐車場で、24時間営業なので時間を気にすることなく利用出来ます。城に一番近い場所は、入口から左へ進み奥の方が有利です。7時半頃だったので駐車場所は自由に選ぶことが出来ました。
姫路城の南にあり、バスも駐車できる終日営業の駐車場です。場内にはトイレ(身障者トイレも設置)や飲食店、自動販売機コーナーもあり、周辺には好古園やみやげ物店などもある姫路城観光にはメインとなる駐車場となっております。お城の近くでは最も多くの車が収容できます。
開城時間は8時半だと思っていましたが、この日の平日は9時開城でした。有り余る時間を持て余し、城外の散策に待ち時間をつぶしました。
チケット発売所の休憩場所で開城を待ち構えていた人達は、8時半頃から並び始めました。そこに案内係のアルバイト生が居たので、新たに導入されたAR技術(スマートフォンやタブレットに 映し出されるカメラ画像に、コンピュータグラフィック画像などを重ね合わせて、実際には 見えないものを表示する仕組)の説明を受けました。
 
 
  姫路城の改修
大天守の修理は五十年ぶりですが、実はその間もほかの部分は手を入れています。一度に直すと費用が大きく成り、左官職人や大工の技を継承して行く為にも、毎年少しずつ直しているそうです。
1580(天正8)年、戦国武将の羽柴秀吉が大改修を始め、1年で三重の天守を築きました。このとき秀吉は、地元出身の重臣黒田管兵衛に普請を命じました。現在の城は五重七階建て(地上六階地下一階)。1609(慶長14)年、当時の城主池田輝政が8年かけて完成させました。
姫路城は、改修を繰り返したため、城主が代わる度に家紋を替えてきました。前の城主の家紋の入った瓦も使った為、数種類の家紋の入った瓦が有ります。
池田家の家紋はアゲハチョウですが、今回の修理でチョウが逆さまに描かれた家紋が発見されました。逆に描かれた正確な理由は分かっていません。その他、大天守6階の四隅の壁に、窓を開けようとした跡が八カ所見つかりました。よく見ると窓枠があり「幻の窓」と話題になっています。
美しさを誇る姫路城ですが、敵を寄せ付けないように折れ曲がる通路が沢山あったり、射撃の煙を逃がす窓があったり、内部の仕掛けも戦略的な工夫がされています。
 
 
 
菱の門です。
   
狭間
   
大天守へ靴を持って登ります。
姫路城には全部で21の門が有りますが、大天守に行くまでに12の門を潜らなければ成りません。それだけ守りを固めている。菱の門は一番大きい門です。   狭間は、鉄砲や矢で敵を狙い撃ちする。丸や長方形、三角など、形をバラバラにする事で、敵にその存在を知らしめ、おじげつかせる効果が有ったと考えられます。   「にの丸」の門へはいるが、坂道に成っているので攻めるスピードが遅く成る。敵が攻め込んで来ても一気に進めない様に仕掛けが有る。
 
姫路城では「AR(拡張現実)」が出来るので、楽しみが倍増する!と盛んにPRされているのを聞いたことが有りました。ARは、タブレットやスマホの端末で利用できるとの事です。
「AR(augmented reality)」というのは、ごく一部の研究者や技術者の中でしか知られていなかったものから、徐々に一般への認知が広まりつつある状況が生まれてきています。例えばカーナビのようなものに「AR」と名の付く機能が搭載されたり、携帯型ゲーム機にもARを体験できる機能が付いたりなど、身近な応用例も増えてきています。
「現実環境にコンピュータを用いて情報を付加提示する技術、および情報を付加提示された環境そのものを指す言葉」と出ています。

姫路城の入城を待つ間、学生の様な整理員が2人居たので、スマホを出してARアプリのダウンロード方法を聞いた。すると姫路城のHPから入れますと言うので、試してみると簡単にダウンロード出来ました。このアプリは無料なのですが、途中で課金されると言うような表示が出ますが、それにお構いなしに進めます。そして左の図面の数字の位置で、スマホやタブレットを起動してかざすと、動画や解説などを楽しむ事が出来ます。
しかし、混雑する城内で立ち止まってスマホを見る事は、他の見学者に迷惑がかかる事に成るので、その辺の状況判断はしっかりしなければなりません。

三重県伊勢市に姫路城のミニチュアを完成させた人が居ます。この方は19年の歳月と一千八百万円かけて二十三分の一の城を自宅の庭に完成させました。13回現地へ行って調査し、石段の数も石垣の角度も全て実物と同じで、現存しない御殿も復元されています。姫路城の学芸員も正確さに驚いたそうです。
場所は、三重県伊勢市円座町1467−8(火、水、木曜休み)入場無料。
 
 
将軍坂
 
石垣で行き止まりに見える。 
「ろの門」から「はの門」に続く坂道、別名「将軍坂」と呼ばれ、江戸時代の雰囲気をそのまま残している。坂道で有りながら階段状に成っている。この階段のピッチがバラバラで、足元を見ていないと歩幅が合わず、下ばっかり見ていると上から撃たれる。   「は」の門を過ぎると巨大な石垣が現れる。まるで行き止まりの様に見えるが、これも敵を欺く心理作戦。
「菱の門」を抜けた所に格好の撮影スポットが有り、天守閣がより立体的に見える。
 
 
秀吉の頃の石垣
 
池田輝政の石垣
   
「に」の門の天井
秀吉の頃の石垣は、転がっている天然石を使っていて一切加工していない。秀吉から20年後に、池田輝政が現在の城を作った時の石垣は、大きな石を加工して積み上げている。20年の年代差が技術の度合いをチェック出来る。   姫路城の門は、「い、ろ、は」順に並べられている。「に」の門は、天井を低く造る事で、槍を持った敵が通り難くしている。しかも天井の戸板を外す事が出来、上から槍で敵を突きます。
 
   
床板は荒削り

土壁と鉄壁の入口
「に」の門を過ぎた所の右側にある広場から、城を眺めると、両側に小天守、中央に大天守が見え天を突く様に間近に見える。 姫路城は築城から400年間戦争や空襲からまぬかれて来た。その為当時のままの貴重な姿を見る事が出来ます。床板はカンナで削った跡では無く、昔の工具削った様に見える。デコボコしているので、この床板は400年前の天守を作った時の床板と考えられている。
天守の入口は土壁の入口と、鉄壁の入口とが有る。そこから2階へ上がると壁には武具掛けがあり、槍や火縄銃等を掛けていた。
 
 
城内は太い木が使われ、急階段と低い天井には閉口しま
したが、狭く低いと言うのは戦略上必要だったのだろうか?
 
太い大柱に多くの人が感嘆していました。
 
 
東大柱
   
武者隠し
3階には城を支える大切な物が有ります。それは東大柱です。この柱は通し柱で、築城当時からそのままです。地下から最上階の床下まで25mの柱で、これは当時のままの「もみの木」です。大天守を支える大柱は東西にそれぞれ1本づつ有り、西の柱は、昭和の大修理で接木されてしまいました。   3階の四隅には「武者隠し」が造られています。
これは天守に入りこんだ敵を討つとき、ここに姿を隠し意表をついて攻撃します。
 
 
大天守の6階は平日にも関わらず
大変混雑していました。
 
最上階には、長壁(刑部)神社が有りました。
長壁(刑部)神社とは、姫山の地主神で、近代に成って天守内で祀られるように成りました。江戸時代には、とのニ門との三門の間の小高い場所に鎮座していました。
 
姫路城は、シラサギが羽を広げている様に見えるので「白鷺城」とも呼ばれています。その訳は、何といっても群を抜いたまぶしいほどの白さにあります。
白過ぎるその理由は、建物全体を消石灰などを原料にした「白漆喰」で塗りあげています。総塗籠(そうぬりごめ)と言われる手法です。今回の修理で外壁や屋根が塗り替えられたので、一層白くなりました。
漆喰は、水や火に強い性質が有り、他の城でも保護の為、壁などのコーティングに使われています。姫路城では、ほとんどの建物で内外の壁だけでなく、屋根瓦の目地(接ぎ目)や隙間にも塗られ、珍しいてとされています。目地を盛り上げて塗る為、遠くから見ると屋根全体が白く見えるのです。大天守外壁の漆喰は、三十ミリもの厚さで、風雨や揺れに強く成っています。
今回は漆喰の塗り直しのほか、地震が起きても耐えられるように、柱や床十九カ所を鉄板などで補強しました。約八万枚の屋根瓦をすべて降ろし調査し、約二千六百平方メートルを葺き直しました。そして大天守頂上のしゃちほこも新調されました。
姫路城は、軍事的な強さよりも、見た目の美しさを重要視したお城と言う事です。
 
 
天守から見た城内。
このしゃちほこも新調された。
お菊井戸
この井戸は、播州皿屋敷の怪談で知られる「お菊井戸」といわれています。
永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職の執権青山鉄山は町坪弾四朗と語らい、城を奪おうと企てていました。則職の忠臣衣笠元信は、お菊を青山家に女中として住みこませ、その企てを探らせました。則職暗殺を察知したお菊が元信に知らせた為、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。お菊の動きを知った弾四朗は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。元信を慕うお菊はそれを拒みました。弾四朗はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の一枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責めあげました。それでも弾四朗を拒むお菊は、ついに切り殺されて井戸に投げ込まれました。
その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚・・・・・9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。
 
  好 古 園  
 
  好古園
好古園の入場料は大人300円ですが、姫路城との共通券として買うと40円を加算するだけで遊園する事が出来ます。場所は大手前駐車場の前なので利便性は抜群です。
正式名称は、姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」といい、発掘調査で確認された武家屋敷跡などの遺構を活かして、市制100周年を記念して、平成4年に造営された池泉回遊式の日本庭園です。
姫路城の南西に位置し、城を借景に造られた庭園の面積は約1万坪(3.5ha)。滝や池のある「御屋敷の庭」や本格的数奇屋建築の茶室、双樹庵のある「茶の庭」など9つの庭園群で構成。江戸時代をしのばせる築地塀や屋敷門・長屋門、渡り廊下で結ばれた活水軒と潮音斎のたたずまいが特別史跡地にふさわしい歴史的景観を創り出し、時代劇や大河ドラマのロケ地としても使われています。
 
 
   
 
  姫路城は外見は高貴な美、そして内観は重厚な太い柱と、戦略に満ちた造形は威風堂々たる荘厳なる物を感じた。それに控え好古園は、柔らかな新緑と池を配した庭園は、心落ち着かせる空間を生んでいた。この趣の違う対象に、両方の日本人を覚えた。
広さ約1万坪の池泉回遊式の本格的な日本庭園。江戸時代の地割を生かした9つの趣の異なった庭園群、築地堀、屋敷門などが満喫できた。初夏の色の違う花々も目を引くものがあった。姫路城見学の後の好古園は一服の日本茶に相当するものですから、時間が有れば散策するのも一考かと思われます。
 
 
   岡 山 城  
 
  台風6号の影響で雨が降るのが心配されたが、快晴穏やかな暖かい日和で何よりだった。姫路城と好古園を散策し、次の目的地は岡山城とした。山陽姫路西ICから岡山ICまでは70km少しの距離にある。
ナビで岡山城の近くへ行ったが、城の駐車場は一向に見つからなかった。右往左往しながら、近所の人に聞くと城の専用駐車場はないらしい。それでは城の近くに駐車場が無いものかと探したがそれらしきものはない。路上に人は居なかったので、ビルの中に入り、そこの人に聞くと、案内します。と言って先導してくれた。そこは公営の駐車場だった。親切な行為に厚くお礼を言い、やっと城に向かう事が出来た。駐車場からは数分も掛からない近い距離だった。
入城料は通常300円ですが、展示品の整理の為、展示品は見る事が出来ないので、半額の150円にします。との事でした。
 
 
 

岡山城
岡山城は、国指定の史跡。別名は烏城、金烏城。標高が十数メートルの丘が連なる小高い土地に建設された。当時、旭川河口部は複数の派川に分岐しており、その中の大洲原と呼ばれる広大なデルタ地帯中央に「岡山」(柴岡山とも)、その西隣に「石山」、さらにその北西には「天神山」(天満山とも)の3つの丘が連なり、各時代ごとに要害として使用されたとされる。その中の石山にあった石山城(いしやまじょう)に宇喜多直家が入城・改築し、後に慶長2年(1597)、豊臣家五大老の一人・宇喜多秀家が隣接する岡山に新たに本丸を設け、石山城を取り込む形で城郭が建造された。これが岡山城である.
変遷
岡山の市街地の元となった岡山城は、宇喜多秀家が慶長2年(1597)に築城した後、江戸時代には岡山藩の城府となり、明治維新により廃城となりました。城跡は、大半が市街地となり、本丸も学校用地に転用されて、昭和20年の岡山空襲で天守と石山門が焼失し、月見櫓と西手櫓が現存するだけとなりました。
この本丸は、昭和29年に学校が移転して、烏城公園として整備され、昭和41年には天守閣が復元されて観光施設ともなっています。
さらに、昭和62年に史跡に指定されてからは、歴史に視点を置いた整備が求められるようになりました。岡山市は平成4年度から本丸跡中の段で、発掘調査、コンクリート建物の撤去、石垣の解体復元修理、江戸時代末期の建物の表示、築城期の石垣の露出展示等を行っています。
こうした事業は、中の段の次は天守の有る本段、その後は下の段と進めて行く計画だそうです。

 
 
岡山城月見櫓(国指定重要文化財)
月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三(ひふみ)段の二段目に当たる、中の段北西角を固める隅櫓です。池田忠雄が城主で有った時の城郭整備に伴って、元和年間から寛永年間前半(1620年代)に建てられました。
構造は、一部地下付きの塗蘢造り本瓦葺二階建てで、城外(北西)側から眺めると二層の望楼型、城内(南東)側から眺めると三層の層塔型を呈しています。規模は、地階と1階が桁行(東西)132尺3寸(9,79m)梁間(南北)26尺2寸(7、94m)、2階が方形で桁行・梁間とも16尺5寸9分(5,03m)、梁高45尺4寸(13,76m)です。
地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床張りが引上げ式の戸板となっていて、有事の際にはそれを開いて一階に通じる仕組みです。一階は、西面が唐破風造りの出格子窓、北面が片流れ式の屋根を持つ出格子窓を設け、共に石落としを組み込んで、城外側へ臨戦の備えをなしています。入口は南面西寄りにあります。二階は、西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北面の踊場北窓に唐破風造りの武者窓、北壁に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。
その一方で、二階の城内側の東面と南面には雨戸を持った手摺付きの縁側が廻り、内側に明り障子を立てるなどと、日常生活向けの御殿仕様となっていて、月見をはじめとした四季の眺望を楽しんだり、小宴を催すのに格好の構造となっています。
岡山城(烏城)
備前国邑久群から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。
その子八郎秀家は、天正18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するに及んで城普請は完成した。これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。
秀家の築いた天守閣は、二階建ての建物を大中小の三つに重ねた3層6階の構造で、外壁の下見板が黒色であったことから「烏城(うじょう)」の別名がある。この天守閣は、昭和6年に国宝に指定されたが、第2次世界大戦による昭和20年(1945)6月29日の、市街地空襲により焼失した。
現在の天守閣は、昭和41年(1966)11月に鉄筋コンクリート造りで再建されたもので、外観は全く旧来の通り復元されている。
 
 
天守閣の礎石。
表書院 
岡山藩の政治が行われた建物で、数棟からなり、大小60を越える部屋が有りました。登城してきた家臣らは南東の玄関から入り、広い廊下を通って奥へ進み、それぞれ所定の部屋に詰めていました。廊下に面した徒番所は城内の警備や雑用にあたる家臣の詰め所でした。
藩主は、住居である本段の御殿から渡り廊下を通って北西の招雲閣に入り、南座敷で政務を執っていました。泉水を備えた中庭には、数寄屋(茶屋)が建っていました。北東部には台所が有り、藩主の食事や儀式用の料理を作っていました。
発掘調査で出土した建物の礎石や雨落ち溝などの遺構は地下に保存し、地表には建物の位置や間取り、泉水などを表示しています。
 
  姫路城は別名白鷺城と言われるだけあって、優雅なデザインは誠に美しかった。そして好古園では、姫路城散策に疲れた体を新緑と花が癒してくれた。何よりもラッキーだったのは、無風快晴の五月の快い陽気が旅を一層楽しくしてくれました。本日の予定としては、倉敷美観地区と後楽園に行きたかったのですが、二か所の城で時間を費やしたので、行く事が出来ませんでした。
今夜の宿は、真庭市にある湯原温泉です。岡山市からは多少距離が有りますが、疲れた体をリフレッシュするには温泉で体をほぐしたい。その期待に目的地へと急いだ。大風6号の影響か風が出て来たように思う。一般道を走っていたら、反対側でスピード取締りをしていた。そこの道は制限時速は50kmで車両が少なく、20kmオーバーは当然として走っていた。此方の車線で取締りをしていたら、スピード違反で捕まっていたことだろう。知らない道は必ず先頭を走る事をしない様にする事が肝心です。もし捕まっていたら旅の思い出は、思い出したくないブラックなものに成っていた事だろう。
お互いに違反には注意しましよう。