H27.03.09.  彦 根 城  
 
  滋賀県の黒壁スクエアや八幡掘を見に行ったついでに、時間が有ったので彦根城へ寄ってみました。城内へ入ると広い敷地に、美しいと思える城が有りました。そして近くに彦根藩の下屋敷と言われる玄宮園があり、部分修理をしているにも拘らず、美しい池を見る事が出来ました。
彦根城はうっそうたる樹木に覆われています。これは築城前からあった樹木を残したほか、築城後も藩士に命じ植林させました。
特に籠城の際に役立たせる為、食料になるものや弓等の兵器、薬用に用いるもの等多くを植えさせたので自然の植物園の観が有ります。
 
 
   
 
  彦根城
彦根城は、慶長5年(1600)井伊直正が、関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたて、この戦いに敗れた石田三成の居城佐和山城を与えられ、慶長6年(1601)上野の国高崎城から佐和山城に移って来た。その後直政は城を彦根山に移そうと考えたが実現せず病死し、慶長8年(1603)その子直継が父直政の遺志をうけて彦根城の築城に着手した。
彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により特に奉行を差し向け7カ国12大名にも応援させ、佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工されました。
当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城されたもので、城地面積約0.25Ku(75,800余坪)周囲約4km(1里)高さ約50mの彦根山に築城した平山城です。
天守は大津城から、天秤櫓は長浜城から移築。天守は2年足らずで完成しましたが、表御殿の造営、城郭改造など、城郭の完成は1622年とされています。 この間、井伊直孝は大坂冬の陣で兄直継に代わって出陣し、その功績によって家督を継ぎ、夏の陣では豊臣方の木村長門守重成と戦い大功をあげ、井伊直政(常に先鋒を務め、徳川四天王のひとり)に劣らぬ武将と賞賛されました。
直孝は、秀忠、家光、家綱の三代にわたって、将軍の執政となり、幕府政治確立にも貢献。これらの功により3回加増され、譜代大名としては例のない30万石となる。彦根35万石といわれるのは、このほかに幕府領5万石の預かりがあり、合わせて35万石となります。天守は18万石の頃の完成でした。
昭和26年(1951)に彦根城天守閣をはじめ天秤櫓、太鼓門櫓、三重櫓、佐和口多聞櫓、を重要文化財に指定され、さらに同27年(1952)には天守閣を国宝に、同31年(1956)には彦根城一帯を特別施設に、同38年(1963)に馬屋を重要文化財にそれぞれ指定されている。また、新日本観光地百選の一つとして琵琶湖八景「月明彦根の古城」として知られている。
 
 
 
矢狭間
登り石垣
彦根城には、全国的にも珍しい「登り石垣」が5カ所に築かれています。
登り石垣は、文字通り山の傾斜を登る様に築かれた石垣です。斜面は、高さ1m程の石垣が鐘の丸に向かって伸びている。石垣に向かって左側が溝状に窪んでいるのは「竪堀」で、登り石垣とともに傾斜を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。かつてこの石垣の上には、さらに瓦塀がのっていました。
登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮出兵の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城」において顕著に見られる城郭遺構です。日本では洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)などに限られた城にしか見る事が出来ません。
天守の壁に設けられた小さな攻撃用の穴を狭間といいます。狭間には弓を射る「矢狭間」と火縄銃を放つ「鉄砲狭間」があります。矢狭間は縦長の長方形で、鉄砲狭間は三角形(鎬狭間)や正方形に近い方形(箱狭間)に切られています。これらの狭間は、いずれも板枠を壁に埋め込んで製作しますが、彦根天守は外面を壁土で塗り塞いで敵を欺く「隠し狭間」と成っています。
各狭間の高さは、矢狭間が弓の丈の関係で比較的高い位置に切られているのに対して、鉄砲狭間は火縄銃を座ったり伏せた姿勢で射撃するため、概して低い位置に切っています。
また、各狭間の間隔は、1間(約2m)に1つずつ配置する例が多いのですが、彦根城天守では、より密に半間(約1m)に1つとしています。
 
火頭窓
鎌倉時代に禅宗建築として伝来した建築様式を禅宗様(唐様)という。中国の宋時代に行われていた様式をそのまま輸入した様式で、初めは禅宗様式のみに用いられていたが、やがて他の宗派の建築にも波及し、のちには、一般の寺院建築や城、住宅にも広く使われるようになった。
火頭窓には、花頭窓、火灯窓、火燈窓、架頭窓、華頭窓など、幾つかの当てられるが、要するに上部が繰形をなす曲線から成る窓の事である。石山寺本堂の源氏の間に有るところから、「源氏窓」と呼ばれる事も有る。一般的な傾向として、古い形式のものは竪框が垂直に近く、時代が下がるにつれて脚元がひらいていく、中央頭頂部が尖塔形と成っていて火のように見えるところから、火頭窓というが、木造建築では火の字を嫌うので花頭窓と書かれるようになったと言われている。火頭窓の形状にも変形が現れ、その形状により蕨火頭、富士火頭、琴締火頭、と呼ばれるものもある。出入口に火頭形が用いられることは、禅宗建築ではあまり行われなくなってしまったが、桃山時代以後、霊廟や茶室の給仕口や茶道口に用いられている。ただし、頂部は尖頭形ではなくアーチ状である。
蕨頭火というのは、上部の窓框が蕨手形に巻き込んだ形をもっているものをいう。富士火頭というのは、上部を台形に富士山状に整形したものである。
 
 
狭い急階段
 
天守閣の最上階。
外国の方も沢山見えていました。
この階段は見た目以上に狭くて急階段でした。靴を袋に入れて持ち、カメラを肩から掛けていると、手摺を持たないと上へは登れませんでした。スカートの方は要注意です。後ろ向きに降りた女性は震えていました。
 
 
槻御殿
佐和口多聞櫓
「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その枡形を囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓です。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中掘に開く4つの門の一つ。表門に通じる入口として、大手の京橋口とともに彦根城の重要な城門の1つでした。
重要文化財となっている佐和口多聞櫓は、佐和口の向かって左翼に伸びており、その端に二階二重櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。多聞櫓は長い平屋が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えています。佐和口の多聞櫓は、佐和口の枡形を囲むように二度曲折する長屋となっています。この櫓の内部は7つに区画され、中掘りに向かって△と□の狭間が交互に配置されています。
現存する多聞櫓の右端は切妻屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空地が広がります。かつてこの地には二階二重の櫓門が枡形を見下ろすように架かっていましたが、明治初年に解体されてしまいました。空地はその名残です。ちなみに枡形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体され、現在の櫓は昭和35年に開国百年を記念して復元されたコンクリート造りの建物(開国記念館)です。
佐和口多聞櫓の建立について詳しいことは分かっていませんが、彦根城がおおよその完成をみた元和8年(1622)までには建てられていたと考えられます。その後、明和4年(1767)に城内で発生した火災で類焼し、現在の建物は明和6年から8年にかけて再建されたものです。
槻御殿(けやきごてん)
第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677)に着手し、同7年に完成したもので、下屋敷として築造され、木材はすべて槻(けやき)でその華麗さは各大名も驚嘆したものである。大老井伊直弼は、文化12年(1815)10月29日ここで生まれた。これらの建物は数棟の東屋よりなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、往時のおもかげをとどめている。第12代藩主井伊直亮が文化年間(1804年〜1817年)に楽々之間を増築して以来、槻御殿と言う正式の名よりはむしろ楽々園の名の方が有名になった。
楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったといわれ、民の楽を楽しむという仁政の意をもっているともいわれている。
 
 
  玄宮園
玄宮園は、隣接する楽々園とともに江戸時代には、「槻御殿」と呼ばれた彦根藩の下屋敷です、槻御殿は、延宝5年(1677)、4代当主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと云え、昭和26年には国の名勝に指定されています。現在は、槻御殿の庭園部分を玄宮園、建設部分を楽々園と称しています。玄宮園は、広大な地水を中心に、池中の島や入江に架かる9つの橋などにより、変化に富んだ回遊式庭園となっています。
 
 
  石垣は再利用材
H27.3.13の中日新聞によると、彦根城の石垣は再利用材である事が分かった。
徳川家重臣・井伊家の居城だった彦根城が、約2km離れた佐和山城の石垣を再利用していた事が分かった。徳川側が豊臣側との戦いに備えて築城を急いだのではないかとみられている。
佐和山城は豊臣方の石田三成の居城として知られるが、1600年の関ヶ原の戦い後、徳川家康の重臣井伊直政に与えられた。さらに居城を移転して建てられた彦根城は、廃材の部材を再利用して1604〜22年に築かれた。
発掘調査で石垣は、城南端の周囲を土や石で囲った「鐘の丸」で見つかった。城内の石垣は県東部で産出される湖東流紋岩がほとんどだが、断面状況を確認出来た「鐘の丸」の石垣(高さ7m、長さ30m)には青色系のチャート(堆積岩の一種)が混在している。二種類の石材を使った石垣があるのは県内で佐和山城だけなので再利用したと判断されました。
また、本丸南に隣接する防御施設の「曲輪」から出土した瓦は、二種類の文様から佐和山城の瓦と分かった。