速旅 静 岡  H28.02.15~16.
 
  H28.02.13.午後3時に、豊田東JCTから浜松いなさJCTの55kmが開通しました。その3日後の15日”速旅2日間”を利用し静岡乗り降り自由定額料金で、新東名をドライブしてみました。予定としては、新しく出来た”岡崎SA”と”長篠設楽原PA”に寄りその出来栄えを見ます。そして長泉沼津ICから伊豆半島の熱海、伊東、河津へと走行します。
名二環から湾岸高速を走り直進して新東名に入りました。そして思った事はH24年4月に開通した三ケ日JCT~御殿場JCT間は車線が広く路面が綺麗な平坦だった事を思い出した。今回の新開通の部分は路面が綺麗でないのではないかと思われました。そして、岡崎SA~長篠設楽原PA間には何と!9箇所のトンネルがありその数の多さに驚きました。
 
 
   岡 崎 S A  ( 上 り )  
 
  岡崎SAは、上下線集約型なので上下線とも同じ建物に入る事ができます。東海三県のSAでは最大規模で、建物面積だけで、4.250㎡有ります。コンビニの中にはコインランドリーやシャワールームも完備されています。ここは、東海道五十三次三十八番目の宿場町として栄えました。  
 
 
早朝は空いていました。
カーブや坂道は緩やかです。
 
上下線集約型SA。
 
駐車スペースの幅は広い。
130台が駐車出来ます。
 
 
岡崎SA
全国の有名店、15店舗が出店しています。
 
岡崎宿をイメージしている。
 
 
13日の初日は32,000人,2日目が62.000人の人出でしたが、
3日目の朝の7時台は開店している店も少なく客も疎らでした。
新しい椅子のクッションはソフトで座り心地は良好でした。
 
 
   岡 崎 S A ( 下 り )  
 
 
岡崎周辺に生息するコノハズクが安らぎの空間を演出。
 
屋上には、楽しんで遊べる場所が有ります。
ここでは天体観測会が3月9日まで行われます。
 
  岡崎SAで天体観測会開催。
ネクスコ中日本は2月20日~3月9日まで、岡崎SAの屋上で天体観測会を開催します。予約は不要で、参加費も不要です。自前の望遠鏡の持ち込みも出来、無い人は岡崎天文同好会が用意する300ミリ望遠鏡などで観測出来ます。同好会や望遠鏡メーカー社員による星空解説も有ります。
観測の内容と日時
       △ 月と木星 → 2月20日後5~9
       △ 太陽の黒点 → 3月8日後2~4・30
       △ 星空 → 3月8日後7~10
       △ 部分日食 → 3月9日前9~後2
 
 
   長 篠 設 楽 原 P A  
 
 
大型バスから降りた人は通行車両に気遣う事無く店舗へ
入れるので、運転者も歩行者も安心出来ます。
ここのPAから本線へ出る時、合流距離が非常に
短いので細心の注意が必要です。
 
バス専用の駐車場が有るので団体客は通行車両の
心配無くトイレなどへ駆け込む事が出来便利です。
 
  長篠の戦
大正3年(1575年)旧暦5月、長篠城を取り囲んでいた竹田勝頼軍は包囲を解き茶臼山付近に布陣する織田・徳川連合軍に連吾川を挟み対峙します。21日早朝、織田・徳川連合軍3万8千人に対し竹田軍1万5千人は雨もよいの中進軍を試みますが、三段に設けられた馬防柵、土塁、火縄銃に行く手を遮られ、一部が馬忙柵を突破するも時間と共に信玄以来の武将の相次ぐ討死等損害を積み重ね遂には撤退を余儀なくされました。武田軍は一万二千を失い撤退する中で、追撃する織田・徳川連合軍も五千を失う激しい戦いであった。
 
 
 
自販機の上には大兜が有り武田菱も。
 
午後の店舗内。
 
 
陣笠を被った店員。
   
織田信長戦地本陣跡
紅白の旗が戦地を思わせます。 
 
   来 宮 神 社  静岡県熱海市西山町43-1
 
   来宮神社とは・・・・。
平安初期の征夷大将軍坂上田村麻呂公は戦の勝利を神前で祈願し、各地に御分霊を祀ったとも伝えられ、現在では全国四十四社のキノミヤジンジャの総社として、信仰を集めております。
 御祭神五十猛命は熱海に鎮座される際、地元民と入来たる旅人を守護しようと神託をつげられたことから、伊豆に来る旅行者が多く参拝されます。
 国指定天然記念物に選定されております来宮神社のご神木「大楠」は樹齢2千年を超え、平成4年度の環境省の調査で、全国2位の巨樹の認定を受けており、幹周り約24米の迫力に人々は畏怖し、自然と手を合わせます。是非大楠に手を合わせ悠久の時の流れを感じる事が出来ます。
 
 
 
来宮神社の境内。 
 
大樟(大楠)の由緒
太古には我国では現在の様な家屋はなく文字も無く言葉ばかりの時代が長く続いていました。その頃この社の森には7本の楠や椎の木、細葉の大木、羊朶(しだ)類等が自生していて昼なお暗く大地を覆っていました。ところが今から約百二十余年前の嘉永年間と云う年に熱海村に大網事件と云う(流刑者迄出した)全村挙げての大事件が勃発し其の訴訟費など捻出するため、五本の大楠は伐られてしまったのです。現在の残されている其の中の一本の此の大楠をも伐ろうとして樵夫(きとり)が大鋸を幹に当てようとしたところ忽然として白髪の老人が現れ両手を拡げて此れを遮る様な姿になると忽ち大鋸は音をたてて二つに折れ同時に白髪の老人の姿は消えてしまったのです。此れは神のお諭であるとして村人等は大楠を伐ることを中止してしまいました。此の木が即ち現在ある御神木であります。此の大楠へ古代には「神の魂にお降を願ひ」いわゆる神の依代として此の御神木の中に宿る神の御魂と人々は対面していたのであります。斯くて二千年の長い間世の天変地異を経て現在に至りました。
此の大楠を人に例えれば世の中のあらゆるものを知り盡してござる大古老とでも申しましょうか、然るに二千年を経ても尚樹勢は少しも衰えず、根は深く大地に食い込み巨岩を抱きかかえ、幹は巌石の様相を呈し内に溢るる生気はますます、旺にして枝葉は毎日西に東に伸びゆき未来永劫生き抜こうとする生命力の強靭さには恐ろしきものさえ感じ取れます。それですからこの大楠は「不老長寿」「無病息災」の象徴とされているのです。それ二千年の大楠の長寿に肖ろうとする願いからか、此れを一廻りすると「一年寿命が延びる」又「願い事」のある人はそれが必ず叶うと言い伝えられて来ました。
 
   城 ヶ 崎 海 岸   静岡県伊東市城ヶ崎
 
  城ヶ崎海岸
静岡県伊東市の南西に位置する海岸で、富士箱根伊豆国立公園の指定を受けている。大室山(天城山系の溶岩が海になだれ込んでできた リアス式海岸)が約4000年前に噴火したとき溶岩が海に流れ出し、海の侵食 作用で削られてできた雄大な出入りの激しい溶岩岩石海岸です。 海岸線には絶壁が 連なり、幾重にもふところ深く入り組んだ岩礁、岬から岬へと9kmと続く眺めはまさに壮観です。
 
 
  門脇崎灯台は、昭和35年3月に建設されましたが、平成7年5月に展望台付きの灯台に改築されました。
新灯台は、地上24.9mの高さですが、地上17mのところに収容人員30名の第一展望台(室内)が、地上4mの所に収容人員60名の第2展望台が設置され、晴れた日には遠く伊豆七島や天城連山を望むことができます。
海岸線には絶壁が連なり、幾重にもふところ深く入り組んだ岩礁、岬から岬へと続く眺めはまさに壮観です。
門脇灯台を中心に全長9kmのハイキングコースがあり、なかでも門脇崎の海の吊り橋は長さ48m、高さ23mでスリル満点です。
 
 
どことなく東尋坊を思わせる絶景・絶壁でした。
ここで身投げする人も多いと聞きました。
 
城ヶ崎ブルースの碑
当初「城ヶ島の雨」の碑だと思っていましたが、
この碑は「城ヶ崎ブルース」の碑でした。
     
  城ヶ崎でのハプニング・・・・・。
この場所に着いたのは3時を過ぎていた。空は曇り雨が少し降って来た。次の目的地は河津町の「河津サクラ」を見に行く予定で、城ヶ崎の路上に駐車しナビに入力をしていた。その時気がついた事ですが、以前から20歳代の男性が道路を挟んで、かくれんぼをしている様に右往左往している。雨が降り掛けた付近には誰もいない。気味が悪い変人がいるので一応警戒をしていた。するとその男が近付いてきたので、窓を開けると、「BBが通らなかったか?」と聞いて来た。「気付かなかったが、何色?」と聞くと黒だと言う。事情が有りそうなので訳を聞くと、彼女とトラぶったので探している。GPSの位置によるとこの付近に居る事は確かです。自殺を匂わしている。と異常な顔つきになっていた。そして付近を一生懸命探している。彼の力に成りたいが、どうしょうも無いので見守っていた。するとパトカーがサイレンを鳴らさずパトライトだけを回転させて城ヶ崎の駐車場に入って行った。男は見え隠れしながら彼女を探しているようだ。見るに見かねて男性が近付いて来た時、「パトカーが駐車場にいるから、一度相談したら」と言うと「僕が呼んだのです。」「じゃパトカーと話をしないと駄目でしょう。」と促したがパトカーの方は無視して、GPSで示された場所付近を頑固に探している。此方もイラついてきたので、「海岸の方は探したの?」と言うと驚いたように「海岸が有るのですか?」と聞くから、パトカーが入って行った方に有る。と教えると返事もそこそこに脱兎の如く駈け出して行った。
警察に任せれば安心なので、暫く待ち小雨になった時、海岸へ写真を撮りに行った。すると断崖の方で男が携帯で何か話しながら一人の警官と彼女を探している。彼の声の音量はマックスに達している。岸壁の上で土下座する様な姿勢で彼女に何かを訴えている。警官は落ち着くようにとサインを出しているが、聞く耳を持たない。電話が繋がっているので自殺の危険性は少ないだろうと思い帰ろうとすると、もう一人の警官が様子を見に来ていた。その警官に様子を聞くと、未だ不明で見つからない、この前もここで自殺があり、自殺が多い所です。と心配そうにパトカーに引き返して行った。
その後この事件はどんな結末になったのでしょうか?
 
 
    河 津 サ ク ラ   
 
  隔年で見に来ている河津サクラですが、ネットで情報を見ると3~4分咲きとの事で期待は出来なかった。今回は満開のサクラを見ると言うよりも、静岡に来たついでに寄って見たという感じでした。何時も無料で停める涅槃駐車場は、昨年から500円の有料になっていました。
実際にサクラを見てみると、満開の木も有りましたが、少し早い気がしました。
 
 
   河津サクラは我が国のサクラの中では早咲きの桜です。開花時期は天候等に左右されますが毎年1月下旬から開花が始まります。開花期間は約一カ月と長期に及び他の桜に無い特徴が見られます。河津サクラの原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃の2月のある日河津川沿いの冬枯れ雑草の中で咲いている桜の苗を見つけて現在の地に植えたものです。
1966年(昭和41年)から開花が見られ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続けて注目を集めました。伊東市に住む勝又光也氏は1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献しています。一方、県有用植物園(現農業試験場南伊豆分場)は、賀茂農業改良普及所、下田林業事務所(現伊豆農林事務所)や河津町等と、この特徴ある:早咲きサクラについて調査をし、このサクラは河津町に原木が有ることから1974年(昭和49年)にカワヅサクラ(河津桜)と命名され、1975年(昭和50年)には、河津町の木に指定されました。カワヅサクラはオオシマザクラ系とカンヒザクラ系の自然交配種と推定されています。まだ肌寒い時期にお花見がいち早く楽しめる「河津桜まつり」は毎年2月上旬から3月上旬まで開催され1ヶ月で100万人もの来場者で賑わい、また夜にはライトアップされた幻想的な河津桜が楽しめます。
 
 
 
原木は7~8分咲でした。
 
原木と似ている「かじやのサクラ」
 
満開近くでした。
 
  河津桜の特徴。
落葉高木、樹形は広卵状で樹皮は紫褐色で光沢があり、若枝は褐色、無毛。葉は開花後に展開する成葉は倒卵状楕円形で先は尾状鋭尖形、基部は円形、長さ12.5~15.0cm、巾6.0~6.8cmで厚い。縁は単鋸刃だが、重鋸刃が混じり、鋸歯の先は芒状、腺はない。表面は濃緑色、裏面は淡緑色、両面共に無毛。側脈は約10本。葉柄は長さ2.0~2.2cmで無毛、上部に1対の蜜腺がある。
托葉は長く、分岐多い。果実は、ほぼ球形、径0.9~1.3cm、黒紫色に熟し、甘味がある。
河津桜は、開花時期が早く、2月上旬から3月上旬まで約1ケ月以上にわたり咲きます。その花は径が約3センチと大きくピンク色です。もともとは緋寒桜と早咲き大島桜の自然交配種ではないかと考えられており、樹皮は平滑艶があり、地上近くで幹が分れ、枝は横に広がる性質があります。今井浜海岸・河津駅前から河津川沿い、そして河津七滝周辺などに約8千本植栽されています。 
 
 
 
河津川沿いのサクラ。
 
夜桜。
 
踊り子会館近くに「新町の大ソテツ」が有りました。
ソテツは、沖縄や九州南部に自生するソテツ科常緑低木で、スギ・ヒノキ・マツ・イチョウと同じ裸子植物である。裸子植物中最古のもので、生きた化石とも言われる。株は雌雄の別があり、幹の表面は一面には葉跡が埋まっている。
根に根粒があり、藍藻類を共生させており、その能力により、痩せ地でも生育出来る。葉は羽状で1~1.5mかたい綿状の小葉が互生しており、先端は鋭く尖り、刺さると痛い。花は八月ごろ咲き、雄花は松かさを大きく長くして幹の先端に乗せたような形、、雌花は茎の先端に丸くドーム状に膨らむ。ソテツの名前は鉄によってよみがえる(蘇鉄)という伝承があり、衰弱した時には鉄屑を与えると元気を取り戻すといわれている。
新町のソテツは、根元より数本の大支幹に枝分かれし、主幹を中心にして東西南北方向に大蛇が這うように枝を伸ばし、さらに数十本の小枝で見事な株を作っている。主幹の周囲は約2.5m、高さ10mにも達しており、樹齢も千年以上と推定されています。
昭和56年6月には昭和天皇皇后両陛下が御鑑賞なされています。
     
新町の大ソテツ」を過ぎると「東洋一の大噴湯」がありました。「大噴湯」の歴史は今から約1,200年以上昔の奈良時代、宝亀10年(西暦779年)までさかのぼります。
当時この界隈に湧き出た霊泉があり、菖蒲・カキツバタなどが織成す美しいこの辺りを「花田の湯」と称し、多くの名僧、武辺が浴したと伝えられています。その後、何時とはなしに荒廃したが、伝説と化した「花田の湯」の復興を幾人もの篤志家が掘削を試みるも功ならず、天城路を越え去ったと云われています。
時は大正11年となり、この地に住む稲葉時太郎は、峰一帯を「花といで湯の郷」にせんと、当時30歳の情熱を一途に温泉採掘に打ち込んだのでした。資材を投げ、幾多の障害を乗り越え、死と遭遇しかけた事も一度ならずで、当初協力的だった村人も、先を悲観して1人2人と離れて行き、資金も尽き誰からも揶揄・嘲弄され続けたのでしたが、その4年後、遂に温泉採掘に成功したのでした。
大正15年11月22日正午。突如として火山噴火の如く一大轟音と共に「大噴湯」は誕生したのでした。地響き立てて噴出した熱泉は、この時実に50mの天空を突き刺し、大噴湯を前に、時太郎は思わず天に向かって合掌したと言われる。
現在では周りえの影響を考慮し、噴き上げの時間も量も絞っていますが、その勢いは未だ衰えてはいません。止水口を遮らない限りいつでも百度の熱泉が地上約30mに達し、依然活発な自噴を続けています。
 
 三 嶋 大 社   静岡県三島市大宮町2-1-5
 
   三嶋大社
古くから現在地に「三嶋神社(三嶋明神)」として、大山祇命(おおやまづみのみこと)と事代主命(いとしろぬしのみこと)とがられています。養老4年(720)に編纂された「日本書紀」の天武天皇13年に三嶋神の記録があります。事代主命と大山祇命を祀る伊豆一の宮。 年間を通じ、商売繁盛・五穀豊穣を祈る人で賑わいます。 源頼朝が平家打倒の挙兵に際し、祈願を寄せたことでも知られています。 春には参道脇のソメイヨシノやミシマザクラ、神池のシダレザクラが咲き、秋には天然記念物のキンモクセイが花をつけます。
 
 
 
心という字の形をした心字池で、参道を挟んで左右に分かれています。鎌倉時代に頼朝がこの池で「放生会」を行いました。 
 
   
境内の面積は1万5千坪(約500a)で、社殿・建造物は、うっそうとした森に囲まれています。また、季節により梅、椿、桜などが咲きます。三嶋大社は日本の名社の1つに挙げられ、新年の初詣での人出は約46万人で、毎年静岡県一です。
 
 
  三嶋大社本殿。
三嶋大社の創建は明らかではないが、鎌倉時代初期には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の尊崇を受けた名社である。
焼失記録によると、文永5年と永仁4年に焼け、また延享元年と安政元年の地震で倒壊している。今の社殿は万延元年から明治2年にかけて再建されたものである。
本殿は流れ造(棟より前方の屋根が、後方の屋根よりも長く反っている建築様式)で切妻屋根(本を半ば開いて伏せた様な形の屋根)、棟には千木・鰹木をつけている。拝殿は入母屋造(上部を切妻屋根とし、下部が四隅に棟をおろしている屋根を持った建築様式)で、前面には三間の向拝をつけ、正面に千鳥破風と軒唐破風がつく。両殿の間には軒下に納まる様に相の間がつくられている。この建築様式は権現造りと言われる。全国的に見て拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、高さ23m、鬼瓦の高さ4mという豪壮なものである。
 
 
 
金木犀。樹高 10m、見通り周囲約4m、
 
 三嶋大社の境内を守る御神木であり、樹齢1200年と推定されています。国指定天然記念物です。現在モクセイとしては樹齢、大きさ共に日本一であると言われています。学名は薄黄木犀(うすきもくせい)。薄い黄色の花をつけ、甘い芳香が特徴です。その芳香は神社付近はもちろん遠方までにおよび、時には2里先まで届いたと伝えられています。  9月上旬より中旬にかけ、黄金色の花を全枝につけ、再び9月下旬より10月上旬にかけて満開になり、2度にわたって楽しませてくれるのも特徴です。 神池の中には頼朝の妻、北条政子が信仰したという厳島神社があります。天長9年(832)に池の水が涸(か)れ、雨乞いをしたところ、たちまち大雨が降ったと古い書物にあり、それ以来三嶋大社は雨乞いの神様、水の神様、農業の神様として信仰が高まりました。箱根越えの旅人が、好天を願ってお参りすることもあったようです。 
 
 
たたり(絡垜)石
 
芸能殿
 
腰掛け石
安政の東海大地震の復旧工事で時の神主矢田部式部盛治により慶応4年2月11日に完成した旧総門で昭和5年の伊豆大震災後、現在の総門が落成したため一時他に移したが戦後再建し、一部改造の上芸能殿として保存している。  治承4年5月源頼朝が平家追討の心願を込めて百日の日参をした折、腰を掛けて休息したと伝えられる。右側は北条政子の腰掛けた石である。
  たたり(絡垜)石
この石は、大社前、旧東海道の中央に有り行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。たたり(絡垜)は、本来糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である。
後に往来頻繁になりこれを取り除こうする度に災いが有ったと言われ絡垜が祟りに置き換えて考えられる様になったと言われている。
大正3年内務省の道路工事によって掘り出され神社に於いて此処に据えられた。今日では交通安全の霊石としての信仰が有る。
 
 
 
   浄 蓮 の 滝  
 
 
浄蓮の滝入口
浄蓮の滝は伊豆最大級の名瀑で、玄武岩の岩肌を幅7m高さ25mに渡り流れ落 ち、「日本の滝100選」にもその名を列ねています。滝には女郎蜘蛛伝説が残り、滝の周囲に生い茂る深い森が醸し 出す静寂な雰囲気の中、激しい音を立てて流れ落ちる姿はとても迫力があり、こ の滝をよりいっそう神秘的にしています。 滝への道は明治末期に開かれ、昔は人も近づかぬ神秘的な場所であったといわれ ています。周辺は夏でも涼しく、滝の周りや滝壺の岩肌には、県指定天然記念物 のジョウレンシダ(別名ハイコモチシダ)が群生しています。 
* 浄蓮の滝所要時間 (往復)約30分
* 階段 :約200段
* 滝の高さ :25メートル
* 滝の幅 :7メートル
今日の滝は水量が多く見事な滝を見る事が出来ました。
 
 
踊り子像
 
懐徳碑
上の碑は、旧上狩野村(現、伊豆市湯ヶ島)の安藤藤右衛門翁が、明治39年(1906年)に、私財を投じて「浄蓮の滝」遊歩道を開き休憩所を造り、地元観光産業に貢献した事を讃えています。
以後、内外より多くの御客が訪れ、伊豆随一の名瀑として広く知られるように成りました。翁は、ノーベル賞作家川端康成が「伊豆の踊子」を執筆した。湯が島西平温泉旅館「湯本館」の創始者でもあります。
また、「浄蓮の滝」は、石川さゆりさんの代表曲「天城越え」の中でも歌われています。 
     
 
女郎蜘蛛伝説
天城の渓谷から北にながれる本谷川の水を集めて絶壁を落下する浄蓮の滝は、伊豆随一の名瀑である。その滝に伝わる伝説は、むかし、この湯ヶ島に住む与市という一人のおじいさん農夫が、滝壺のそばで畑を耕していました。どれくらい時間がたったでしょうか。おじいさんは少し休憩をしようと川のほとりの木の切り株に腰掛けました。春の暖かい陽射しにウトウトしながらふと泥で汚れた自分の足に目を向けると、一匹の美しい大きな女郎蜘蛛がせっせと足に糸を巻きつけています。「わしの汚れた足を、木の枝とまちがえているな。」おじいさんはクスリと笑った。しかし、せっかく一生懸命よりあわせた糸を切ってしまうのはかわいそうな気がしたので、蜘蛛の糸をそっと足からはづし、今座っていた切株にくるくると巻きつけ畑仕事を再会しょうと立ちあがりました。
するとそのとき、地面がぐらっとゆれたかと思うと先ほどの切り株がメキメキと音をたてて引き抜かれ、そのまま深い滝壺へと引きずりこまれてしまいました。「ややっ、これは!」おじいさんがおそるおそる滝壺を見下ろすと、滝は不気味な渦と轟音をたてながらあたかも大きな口を開けた様に切株を飲み込んでいきました。おじいさんはあまりの恐ろしさに慌てて畑から逃げ出しました。「ああ恐ろしい、あれはまさしく滝の主だった。うっかりしていたらわしが飲み込まれるところだったよ。」おじいさんは命からがら村まで逃げ帰ると、村人達にこの恐ろしい出来事を話して聞かしたので、それからこの滝に近寄る村人は居ませんでした。
それから幾年も過ぎての事である。
この村によその村から一人の木こりがやって来て、浄蓮の滝の滝壺のそばで木を切っていました。ふとした拍子に木こりの手から斧が抜け、斧はあっという間に滝壺の底に消えてしまいました。「やれやれこれはしまった。」木こりは大事な斧が無くなっては仕事にならないと、着物を脱ぎ棄て、ざぶんと滝壺に飛び込みました。木こりは深い滝の底まで潜って探したが斧は見つからず、諦めて上がってくると大きな岩の影から、「もし、もし」と女の声がしました。木こりが顔を上げると、若い美しい女が木こりの斧を持って立っていました。「これはあなたの斧ですね。さあ返してあげましょう。ただしあなたが私の姿をここで見た事を誰にも話さないと約束してください。もし約束を破ったなら、その時はあなたの命をいただきます。」木こりはその言葉に大きく頷くと、女の手から斧を受け取り暫く夢でも見ていたかのようにその場にぼーとしていました。暫くして我にかえった木こりは、斧を持って滝を後にしました。それにしても不思議な事も有るものだと思い、それとなく村人達に聞いてみると、村人達は口をそろえて滝の主の恐ろしさを話して聞かせました。木こりはようやくあの時の美しい女が女郎蜘蛛の化身であったことが分かったが、約束を守って其の事だけは皆には話しませんでした。
その後、木こりはよその山へと移って行きましたが、あの滝の恐ろしい思い出だけは忘れる事は出来ませんでした。
そして有る時木こりがその村に戻って来て、仲間の木こり達と酒を飲んで居ると、いつしか炉端では昔話に花が咲き、みんなであの滝の恐ろしさが語られ始めました。木こりは一人黙ってその話を聞いていましたが、酒の酔いがまわるにつれて口が軽く成り、ついあの時の出来事を話してしまいました。「お前たちは、滝の主の女郎蜘蛛を見た事が有るかい?この俺は見た事があるぜ。そりゃきれいな女だった。」木こりの話を皆は信用しようとしなかったが、木こりはさらに続けました。「これは本当の話しよ。主との約束で俺は今まで誰にも話さなかったんだ。しかしこれですっきりしたわい。」木こりはその話くり返し喋ると胸につかえていたものが取れたかのように、満足げに炉端に横になり高いびきをあげて眠りに落ちた。
木こりはそのまま深い永遠の眠りにつき、二度と目覚める事は無かったと言う・・・・。