H27.03.10.  八 幡 掘  安土駅前観光案内所
滋賀県近江八幡市安土町上豊浦1714
 
  八幡掘とは・・・・
八幡掘りの長さは5km程有るので、駐車場所を何処にするか迷った。すると偶然日牟禮神社の前に出た。この前の道路は広く、道路の端に沢山の車が駐車していた。駐車可能な場所であるらしい。そして日牟禮神社を中心に「左義町まつり」が4日後に有るので町内がその準備に忙しそうでした。
八幡堀は天正13年(1585年)に豊臣秀次(秀吉の甥)が八幡山に八幡城を築城した。それと同時に構築されたもので、東は北之庄の沢より西は南津田長命寺湖を結ぶ全長約5kmに及びます。その全体を「八幡浦」と稱しました。今日ではこれを「八幡堀」と言われていますが、八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河であり大津・堅田とならんで琵琶湖の三大港の一つにかぞえられていた。湖上を往来する北陸と関西の物資を満載したすべての船はこの八幡浦に寄港し、湖上を往来する船を城下内に寄港させることで、人、物、情報を集め、さらに楽市楽座制を実施することで城下を大いに活気づけました。今も残る堀沿いの土蔵・倉庫群は往時の繁栄を物語っており、その重要性は近江商人の活躍を絶対的なものにしたのでした。この掘割こそが、近江商人の代表八幡商人を産みだした源流なのです。
 
 
   
 
   役割の修了・・・・。
八幡堀(全長4,750m)は交通路や生活の場として長らくその役目を果たしてきましたが、生活形態が変わりだした昭和30年代もなると、八幡堀は市民にとって忘れ去られた存在となり、やがて無用の長物から公害源となりだしました。
 当時は高度成長時代であり、時代の波に近江八幡市としても乗り遅れることのないようにと、区画整理や工場誘致等の都市基盤整備に躍起になっていました。加えて、琵琶湖総合開発による琵琶湖の水位低下や生活排水の質的変化により、その荒廃は進む一方でした。
 昭和40年になると、八幡堀に堆積したヘドロは1.8メートル、総量50,000立方メートル、蚊やハエの発生源や市民による不法投棄の場所と成り果て、地元自治会は衛生的観点から署名を添え駐車場や公園等への改修要望を市に陳情しました。
 
 
 
綺麗な八幡堀
このような状況の中、昭和47年に近江八幡青年会議所が「堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合い言葉に全市民へ浚渫と復元を呼びかけました。これは、「観光目的ではなく、今現在、我々が存在するのも八幡掘があったからであり、まちの歴史が詰まった堀を守らなければならない」と言う思いからでした。
 
しかし、埋め立ての予算は既に国によって計上されており、市民も1日も早い改修を望んでいるような状況の中では、保存運動はいわば孤立状態を招きました。このような中で、青年会議所は昭和50年に「死に甲斐のあるまち」をまちづくりのコンセプトにした新たな運動を展開します。これは、働き甲斐のある場所や生き甲斐のある場所は数カ所あっても、どんな人間でも死ぬ場所はひとつしかなく、人が死を迎えるに当たりこの町で生涯を終えることに後悔しないような町と言う意味です。  青年会議所は県土木事務所等との折衝を続ける中で、毎週日曜日に会員自らが八幡堀へ入り自主清掃を始めます。当初は、清掃作業を横目にヤジを飛ばす人やゴミを捨てていく人も存在する中、めげることなく活動を続ける彼らに、やがて市民の目も変化してきました。パンや牛乳を差し入れてくれる人、清掃作業を手伝う老人会の人、自社のダンプやユンボを貸出してくれる建設業者等々で、しだいに堀端は賑わうようになりました。また、常々意見対立を繰り返してきた行政職員も市民の1人として参加する人が現れるなど、この活動はいつの日か近江八幡市の誇りを取り戻す事業として共感の輪が広がり始めました。
 昭和50年9月になり、ついに滋賀県は進みかけけていた改修工事を中止、国にその予算を返上することになりました。
 
八幡堀は時代劇の都
八幡堀は幅4〜15mの堀が4,7kmも延び、特に日牟禮八幡宮前から西側は、今も岸辺に灯ろうが立つ石畳が続いています。付近には電線も無く、「お江戸の掘割」の雰囲気で、逢瀬や立ち回りシーンにはピッタリなのです。98年には「遠山の金さん」、「水戸黄門」など27本が撮られ、今も撮影班が現地に入り構想を巡らせでいる。「花のお江戸の釣りバカ日誌」では、西田敏行さんと三国連太郎さんが夜釣りをするシーンが撮れれています。
ドラマ担当者は「セットより奥行きのある絵が撮れるし、地の利もある」といい、京都の製作会社は「時代劇はテレビ中心で予算が少なく、近くて安い撮影現場は好都合です。」と台所事情を話しています。
一時は水質悪化し、堀の埋め立て計画も持ち上がりましたが、住民らが保存の署名運動を展開して県の景観修復事業に結び付け、ハナショウブ約1万2千株を植える等して守ってきただけに、地元のPR誌は熱心です。
撮影受け入れ窓口の近江八幡物産協会は、作品のタイトルバックに市名を入れてもらい、市でも「町つくりに生かそう」と広報誌で撮影等の日程を紹介している。ロケで訪れた俳優さんの中には、「美しい堀を残そうと」いう意気込みが感じられ、演技にも気合が入ると話している人もいます。
八幡堀は歴史的な価値も高く、映画撮影を通じて地域の特徴を伸ばしながらPR出来れば、近江八幡の特徴を生かした町づくりが出来るのではないかとの意見も有ります。
 

日牟禮八幡宮境内
 
日牟禮八幡宮
左義長まつりの準備をしていました。
 古くからこの神社は八幡商人の信仰を集め、左義長、八幡まつりは全国的に有名です。
社宝にはベトナムまでその活躍場を求めた八幡商人の代表格西村太郎右衛門が奉納した「安南渡海船額」をはじめ、重要文化財が多数あります。
また、例年3月に「左義長まつり」4月に「八幡まつり」が開催されます。
  左義長まつり
近江八幡の左義長は元来、安土城下で行われていたもので、春の訪れを告げるお祭りで、城主であった織田信長自ら華美な衣装で躍り出たと伝えられています。
織田信長亡き後、八幡城下に移住してきた人々は、既に4月に行われていた八幡まつりに参加を申し入れましたが、松明の奉火場所が無く、また新参とのことで断られたため、これに対して、安土で行われていた左義長まつりを始めたことが起源とされているとも伝えられています。
近年の左義長まつりには、旧城下町の各町から13基が奉納されていますが、左義長の中心に据え付けられた「山車(だし)」はその年の干支にちなんだものを、黒豆、小豆、胡麻、昆布、するめ、鰹節等の食材を素材にして、約2〜3ヶ月の時間を費やして地域の人々によって作り上げられています。過去には中止されたり縮小することもあったようです。八幡開町から江戸初期頃までの左義長に関しての資料はありませんが、八幡町史では、宝永2年(1705年)まで行われ、同3年以降、34年間休んだという記録があり、町中残らず参加、以後毎年開催されるようになったのが元文5年(1740年)と記されています。