沿 革

 
     名古屋市昭和区
   
鶴舞公園正面入口
 
 
   明治6年(1873)の太政官布告により公園制度ができ、名古屋にも”大公園を”との市民の強い希望が有りましたが、なかなか実現しませんでした。ところが明治38年(1905)から精進川(現在の新堀川)は幅が狭くて蛇行が激しく、大雨には何時もはんらんしていたので改修工事で水路を造成した。しかし改修工事による土砂が余りその処分に苦慮していた。ところが順番で5年後の明治43年(1910)に誘致が決まっていた第10回関西府県連合共進会の会場が必要だった事から、余分な大量の土砂を水田に埋め立てた。この土地が鶴舞公園として造成は一気に進んだ。タイミングよく2つの事業が重なったのでした。そして共進会会場として田園地帯であった旧御器所村の変遷は始まりました。  
   戦後、一時進駐軍に接収されましたが、解除後は現在の「鶴舞公園」へと整備が進められています。現在は、施設だけでなく、季節の花々、樹木を楽しむ各種のイベントも開催されています。特に、4月から6月の「花祭りは」盛大で、見事な花をつけています。  
   名古屋市設置の第1号の公園は、明治42年に名称が”鶴舞(つるま)公園”と定められ、翌年には共進会が盛大に行われています共進会の終了後、公園の整備が行われました。共進会でつくられた噴水塔、奏楽堂、胡蝶ヶ池、鈴菜橋、聞天閣などはそのまま残しつつ、幾何学模様の花壇、芝生など近世フランス式の庭園や、回遊式の日本庭園などを整備しています。その後、運動場、動物園、図書館、公会堂などが順次つくられました。  
 
   第10回関西府県連合共進会とは・・・・・  
  今で言うなら、平成元年に開催された「デザイン博」のような博覧会に相当します。この共進会は各府県が輪番で行い主に産業の紹介などを行っています。明治43年の名古屋の共進会は特に大きく、九州、北海道、東北を除く3府28県が参加し、各種パビリオンが立ち並んでいました。
当時の名古屋の人口が約41万人に対して、観客数は約260万人だったことからも、その規模の大きさが推察される。
 
 
  第10回関西府県連合共進会と福引券・・・・
100年前共進会記念会(財界を中心とする後援団体)が入場券に添えて、福引券を売り出した。1等50円を20枚発行した。現在の貨幣価値に換算すれば60万円程だと言う。2等10円が20枚、6等30銭までが金券で、7等は絵はがきだった。福引券を売り出した1910年(明治43年)6月2日には、長い行列が出来、入場に1時間以上も要した。用意した福引券6万枚は午後1時で売り切れてしまい、急遽追加印刷したという。午前中の入場者は5万人で、昼を過ぎても長蛇の列だった。1週間目の6月8日には、入場者は13万5千人に達した。当時の名古屋の人口は41万人で、その約三分の一が福引目当てに訪れた。現在でも宝くじを大量に購入する人が居るように、100年前も1人で十数回も券を買いに訪れた人も多かった。最高は50回も会場を出入りして、49回目に2等の10円を手に入れた人がいた。しかし金券が当たらない7等の福引券は、地面に投げ捨てられゴミ公害を引き起こした。
共進会の入場者の目標は250万人だった。会期は3月16日〜6月13日までで入場者は思わしくなく、会期を10日余り残した6月2日に、窮余の策として福引作戦を実施した。これが射幸心をあおり大盛況で、目標の250万人を10万人もオーバーして、盛会のうちに閉会したのでした。
しかし、閉会後、公園には20箇所の有料トイレが、名古屋区裁判所の差押さえを受け扉を封印された。何故、このような珍事が起こったのだろうか?
博覧会が開催された90日間の会期中、1日平均で2万8千人程の人が飲食した。人が集まれば生理現象がおき、多くのトイレが必要になる。会場内には無料トイレが10箇所、有料トイレが20箇所用意された。無料トイレは1、760円で建てられましたが、有料トイレは業者に任せました。しかし、これらのトイレは最悪の不評で、踏み板はハート形に切っただけのもので汚さ、悪臭はこの世のものではなかったという。
有料トイレに馴染みの無かった大半の人は、トイレまで有料なのだから何処でお金を取られるか分からない、という思いが強く案内所まで有料ではないかと勘ぐられ、訪れる人が1日に10人程度でした。
有料トイレは1日に30円程の収入がありましたが、女性看守に日当20円を支払うと儲けは出なかった。建物の償却費を差し引くと儲けは殆ど無く、そんな訳で4、5人で共同経営していたトイレ事業も損失が多く裁判所からの差押さえを受けたのでした。
 
 
   鶴舞公園のあゆみ・・・・・
    明治40年 8.20.

42.11.19.
43. 3.16.


6.6. 
 45.              
精進川(現在の新堀川)改修工事の浚渫土砂で埋め立て開始(41年末までに45.000立坪、27万立方メートル) 
「鶴舞(つるま)公園」告示。公園面積96,558坪(約31.9ha)
第10回関西府県連合共進会が6月13日まで開催された。噴水塔(設計工学士
鈴木禎次)が会場正面を飾り、貴賓館(のちの聞天閣)、奏楽堂、鈴菜橋等が建
設されました。

名古屋開府300年祭祝賀会を挙行(7日まで)
共進会跡地の本格的整備に着手
 
 
   大正 2. 2.11.
3. 29.
  5.10.   
7. 4.20.

8. 4.28.
      9.           


12.       
12.10. 1.
私立名古屋図書館(教育会経営)が設置されました。
運動場開設。
児童遊園が設置されました。面積2,800坪(約0.9ha)
鶴舞公園附属動物園が開園。面積3,242坪(約1.1ha)
八幡山(八幡山古墳)が公園敷地に編入されました。
近世フランス式洋風庭園と回遊式日本庭園とを合わせ持つ和洋折衷の大公園としてほぼ完成しました。

当時の沼沢地を「菖蒲池」に改造しました。
市立名古屋図書館(現鶴舞中央図書館)が開館しました。
 
 
  昭和 3. 6.23.
6.24.
9.15.

4.   4.   1  
 5.10.10.
12.26.
12.26.
6. 5.11.
7.28.

7.   4. 29.
8. 21
.
9.  9.
10.  11.25.
11.12.22.
12. 3.24.
4..21.
7.29.
16.  12.  8.
17. 8.27.

9. 5.
19. 4.28.
名古屋新聞20周年記念で普選記念壇が建設され、寄贈されました。
加藤高明伯銅堂が寄贈されました。
御大典奉祝名古屋博覧会が11月30日まで開催され、この時に名古屋材木商工同業組合が参考館として出展した茶席「鶴々亭」を翌年寄贈されました。
市立名古屋動物園と改称。
名古屋市公会堂が開館しました。
青年のスポーツ精神を高揚する御令旨を掲げた青年団令旨碑が建設されました。

東海美術協会より美術館が寄贈されました。
八幡山古墳が国の史跡に指定されました。
猿面茶席及び松月斎が愛知県商品陳列所から移築設置されました。
鶴舞公園運動場開設。

公園まつりを開催(28日まで)11年まで毎年開催。
奏楽堂が老朽化のため取壊されました。
鶴園振興会発足。
奏楽堂(2代目)が完成しました。
東山動物園の開園に伴い市立名古屋動物園が閉園しました。

国鉄鶴舞駅設置。
猿面茶席が国宝に指定されました。
太平洋戦争始まる。
聞天閣が移築の為解体されました。
美術館が移築の為解体されました。
戦時中の資源回収により、加藤高明伯銅像を供出しまた、陸上競技場、八幡山及び吉田山は高射砲陣地として陸軍に接収され、園内の大木はほとんど伐採されました。花壇や芝生広場は食料増産のため耕作地に変わりました。
 
 
  20. 1. 3.
3.12.
8. 15.
9.26.
21.  9.17.
24.            .
25. 9〜11.

26. 6. 9.
27.  4. 1.
10 . 1.

29. 7. 2.
30. 3.      .
猿面茶席、松月斎、吉田庵などが空襲によって焼失しました。
聞天閣資材、浮見堂などが空襲により焼失しました。

太平洋戦争終わる。
進駐軍が公会堂を接収しました。

進駐軍が公園の主な地域約46,000坪(約15.4ha)を接収しました。
高明山に児童園を開設し、八幡山古墳を復元した。
第5回国民体育大会挙闘場としてスタジアムが完成し、競技が行われました。
菖蒲池の修復が一部(北側)完成し「菖蒲まつり」が再会されました。
公会堂を除いた主な地域が進駐軍の接収を解除されました。
名古屋市鶴舞図書館開館。
陸上競技場でコニー・アイランド・ショーが開催される。(昭和33年まで毎年開催)
接収中、埋め立てられていた胡蝶ヶ池の南半分が掘削改修され、鈴菜橋も永久橋に復元されました。
 
 
   30.   6. 1.
8.18.
 8.27.
31.  2.15.

6.17.
32.11. 2.

33. 9.13.
34. 6.18.
9.24.
ビール工場冷却水の余り水を使用した「酒匂の滝」が完成しました。
空襲により損壊した浮見堂が再建されました。
朝日新聞社により青銅製の「鶴の噴水」が寄贈された。
公会堂の接収が解除されました。
朝日新聞社より青銅製の「亀」が寄贈されました。
朝日新聞社より青銅製の「巣ごもりの鶴」が寄贈されました。
旧制第八高等学校創立50周年記念の「伊吹おろしの碑」が建設されました。
鶴舞公園開園50周年記念で「鶴舞音頭」が発表されました。

伊勢湾台風により園内の大木やヒマラヤスギの並木などに甚大な被害を受け、スタジアムも損壊しました
 
 
  36. 9.15. 
37.   2.   1.
10. 1.
41. 10.31.
42.  7.15.
48.    3.      
52.  3.18.
54. 11. 3.
55.  5.15.
56.  4. 3.
57.  10.   1.
58.  4.27.
61.  5.27.
第二室戸台風により、再び被害を受けた。
鶴舞公園振興協会発足。
鶴舞公園振興協会経営のベビーボルフ場が開場しました。
公園正面ゲートに、開園当時の青銅製の扁額が復元されました。
戦時中に失われた普選記念壇の五箇条の御誓文の青銅板が復元されました。
地下鉄工事の為、噴水塔を一時撤去。
地下鉄3号線開通と共に噴水塔が復元されました。
国際児童年記念の「子どもの広場」が開場しました。
緑化センターが開館しました。
彫刻「踊り子」が北花壇に設置されました。
(財)名古屋市公園緑地協会および鶴舞公園振興会発足。
鶴舞グリーンプラザが開館しました。
「鶴舞公園噴水塔」および「鶴舞公園普選壇」が名古屋市文化財に指定されました。
 
 
  平成元年、11. 1.
2. 3. 3.
 6.11. 3.
9. 4. 2.
11.  10.  9.
12. 4. 1.


18.10.27.
21.            
   21 .  7. 23.
11. 19.
22. 7.22.
「公会堂」「普選壇」「噴水塔」が名古屋市都市景観重要建築物等に指定される。
「日本サクラ名所100選の地」に指定されました。
第49回国民体育大会のラグビー・フットボールの会場となりました。
 
奏楽堂が公園築造当時の姿に復元されました。
鶴舞公園90周年イベント開催。(10日まで)
鶴々亭の附属茶室として「百華庵」を移築しました。
(財)名古屋市みどりの協会発足。
「日本の歴史公園百選」に指定されていました。

開園100周年を迎え「百彩花壇」や各種イベントが開催された。
県内初の登録記念物(名勝地)に選定されました。
鶴舞公園100周年。
北花壇とバラ園に始めてスプリンクラーが設置されました。

       

   鶴舞公園に咲く主な花の見頃時期。  
さくら 

ばら


はなしょうぶ

あじさい

すいふよう
  1000本  3月下旬〜4月上旬

1700株  5月中旬〜下旬
       10月中旬〜11月上旬

20000株 5月下旬〜6月上旬

3400株  6月中旬〜下旬

50株    8月中旬〜10月上旬
 

   「つるま」 「つるまい」? 正解は??  
 
  19098(明治42)年の開園当時、縁起の良い当て字として「鶴舞」を使い、市の告示で

「ツルマ」の仮名を用いていた。その昔、人々は公園一帯を「ツルマ」と呼び、その語源

の”つるま”とは「水流間」「水の流れるところ」と言う意味で、のちに当て字として”鶴舞”

が使われるようになったようです。

 
その後、中央線鶴舞駅の読み方が論議され、だれでもよむことができるという点から

”つるまい”
と読むようになりました。現在地下鉄も鶴舞(つるまい)駅ですが、地元の小

学校は鶴舞(つるま)小学校、図書館も鶴舞(つるま)中央図書館です。

なお、”つるま”の意味については”つま(沼)”から”つるま”になったとか、昔、この地は海

岸沿いにあり、鶴がよく舞っていたなどさまざまな説があります。
 
 ,
  ここで名古屋弁だぎゃ〜  ”つるみゃ〜あ”

河村名古屋市長は面白い名古屋弁を駆使しています。 
 
   コンナ・・・・ウワサも
   昔、鶴舞公園は動物園であった! このウワサ・・間違いではないのです・・・・・
   鶴舞公園が出来たのは、明治42年(1909)でした。そして、名古屋初の市立動物園が出来たのは、大正7年(1918)です。鶴舞公園が出来てから9年後、公園の西南隅、現陸上競技場の南側から西側にかけて開園されていました。動物はどこから仕入れたのか?それは大須の私営浪越動植物苑から寄贈された。浪越動物園は後継者不足と、周囲からの悪臭の苦情に市に寄贈を決めました。その後動物数も増え設備も充実し面積は1,2ヘクタール、飼育動物は250種800点の多数を集めていました。昭和12年に東山動物園に移転するまで、約20年間市民に親しまれていました。  
 
門扉を支えていた金具。
 
現在も入口の門柱が二基残されています。
   
   東山動物園の初代園長、北王英一氏(1900〜93)と鶴舞動物園!
   鶴舞動物園が出来た起源は、大須で見世物小屋(私営浪越動植物苑)をしていた人が自分の飼っていた動物を名古屋市へ寄贈した事に始まりましたが、当初は面積が僅か3,600坪でした。
それは大阪に比べるとずっと小さかったので、時の市長大岩氏が北王氏に依頼し日本一の動物園を造る構想を提案した。
北王氏は、京都府の生まれで、大阪府立農学校(現府立大農学部)を卒業し、1918年(大正7年)名古屋市の鶴舞公園内に開園した市動物園に入り、27年に園長になりました。
建設費は市の予算を当てる事になっていましたが、用地費が捻出出来ないので、ただの土地を見つけ出す事から始まりました。苦心して探した土地は、雑木林と田んぼの片田舎だった東山でした。
動物園建設は、名古屋で開催される「汎太平洋博覧会」の開会に間に合うように突貫工事で行われましたが、動物の引越しに手間取り実現せず、結局昭和12年3月24日に開園した。
 
 
   北王園長は、東山動物園の立地条件が最悪だった為入園者の人数が心配でしたが、予想以上の大盛況で目的は達成されました。その人気の秘密は「檻のない放し飼い方式」だったのです。
この方式はドイツのサーカス団を率いている、カール・ハーゲンベックの息子さんが鶴舞に有った動物園を見に来た時、北王氏が園内を案内し直接教えてもらったものでした。
以来東山動物園は80年以上続いているのですが、近年は入場者数も少なくなりリピーターの獲得を目指し構想を練っています。
北海道の旭山動物園は解放された飼育法がリピーターを増やし、動物園やテーマパークのモデルになっています。
 
 
  戦時中の北王園長と動物・・・・・
戦時中の動物は、邪魔者扱いを受けていた。それは国民すら食糧不足のおり、動物にまで食べさせるものがない事と、空襲で動物の檻が破壊され、逃げた動物が人間を襲う事を危惧していた。緊急事態として各動物園の動物を処分するように通達されていた。
この通達に北王園長は、ゾウだけは殺さないで欲しいと、軍部や警察に何度も足を運んで頼み込んだ。そしてゾウを生かし続けたのでしたが、幸運にも東山動物園に軍が駐屯した。その軍から飼育員がエサを盗みゾウに与えた。さらに幸運なことは、東海軍管区司令部の獣医部に獣医大尉三井氏が赴任した。この三井氏は大の動物好きで、東山動物園が飼料に苦心している事を知ると、軍紀を犯してゾウ舎通路にエサを置かせたので、2頭のゾウは終戦まで生き延びました。しかし、トラやライオンは射殺されました。戦後この生き延びたゾウを見たいから貸して欲しいという要望も数多く有りましたが、運送の難しさを考えるとそれも出来ず、窮余の策として全国からゾウを見る為の「ゾウ列車」を走らせるよう国鉄等に働きかけ、それが受け入れられてからは、ゾウを見る為1万人の人が東山動物園に足を運んだと言われている。
戦中から戦後に掛けて日本の国土と同様に、国民の心も荒廃していた。そして年月を経るにしたがい、国土も改善され生活も潤いを持てるようになると、動物に対しても愛護の精神が芽生え、ペットブームになり、ペットに愛情を注ぐ人が増えた事は、それだけ生活も安定し余裕が出来た証拠でもあろう。動物園に出向いた時、過去にやむを得ず、人間のエゴの下犠牲になった動物たちが有った事を、刹那でも良いから思い出し、冥福を祈って欲しいものです。
 
 
 
   k・ハーケンベック   (世界のサーカス王)

K・ハーケンベックは、1844年に生まれたドイツの動物学者です。動物学者としても優れていましたが、何よりもハーケンベックの名を世界に広めたのは、探検家としての活動でした。彼は探検隊を編成してアフリカに乗り込み、多数の猛獣を捕らえ、その猛獣の調教をしました。
動物学者としての彼は、動物の習性を良く知っていてたくみに、猛獣をならしてサーカス団を組織して、猛獣をサーカスに使うなどということは当時、誰も考えつかないことだったが、ハーケンベックは見事に猛獣を意のままにあやつり、人々をびっくりさせた。
ハーケン・ベックの猛獣サーカス団は、世界中をまわり、どの国でも大歓迎されました、日本にはその息子を団長とするサーカス団が、北王園長の案内で鶴舞動物園を訪れている。
ハーケンベックは、猛獣と人との交流を科学的に追及した先駆者でもあった、現在、世界中何処の国でも動物園は有りますが、世界の動物園の生みの親でもあり、彼が創設したハンブルク動物園には、彼の猛獣についての知識や経験がふんだんに活かされています。
ハーケンベックは幾多の功績を残し1913年にその生涯を終えました。