恵方・四観音  
  徳川家康が名古屋城の築城に際し、城から見て鬼門の方角にある四寺を鎮護として定めたとされる。四寺とは、笠寺観音(南区)、龍泉寺観音(守山区)、荒子観音(中川区)、甚目寺観音(あま市)である。
四観音は名古屋城を中心にほぼ四方に分散する形で立地しており、毎年節分の時期になると(名古屋城を中心として見て)その年の恵方にあたる寺では特に盛大な節分祭(会)が行われる。他の三観音も節分祭(会)は行われるが恵方に当たる寺ほど盛大では有りません。尾張四観音の節分の恵方は、笠寺観音(1)、龍泉寺(2)、荒子観音寺(3)、笠寺観音(4)、甚目寺観音(5)の順番に、5年で一巡するようになっている。
尾張四観音の恵方の寺に参拝に行くと、利益(りやく)が多いという風習が名古屋にはある。
また、昭和30年代に名古屋城と同じ中区に位置する大須観音が自らを「中心恵方」と称したのが現今で浸透したために、恵方の中心が名古屋城か大須観音かが疑問とされる事がある。尾張四観音の各寺では旧来から変わらず名古屋城を中心としており、また大須観音や成田山萬福院などがかかげる「中心恵方」には関知していないことから、尾張四観音の中心(名古屋城)とこれらの「中心恵方」とはそれぞれ別個のものと理解するのが妥当であるとしている。
尾張名古屋は城で持つ、親父のふんどし紐で持つと言われています。
 
 
  恵方巻きの発祥地は・・・・・・・・。
恵方巻きは、江戸時代末期から明治の初期に始まったと言われている。2月3日の節分の日には、家族皆で無病息災を願って長いものを食べると言う風習が、大阪の船場界隈で昔から有った。長いものと言うのは末永く安泰で有りたいと願ったのかも知れません。
昭和7年頃には、大阪の寿司組合が2月の閑散期にお客さんを呼び込もうと、節分の恵方巻きキャンペーンを行った。これはお寿司屋さんだけのもので、お寿司屋さんが恵方巻きを盛り上げていた。しかしこの頃は地方の行事だけでした。この行事を全国的に広めたのは、セブンイレブンで1989(平成1)年、広島の店のオーナーが恵方巻きを一部の店舗で販売した。1998(平成10)年に全国の店舗で販売し、10年前には200万本程が売れるように成り、近年は3倍の600万本の売れ行きとなった。
大阪の風習で始まり、寿司組合が増収を目指し便乗した。そして全国チェーンのセブンイレブンが全国販売をし現在は国民的な行事として違和感無く広く受け入れられている。
今年(H26)の恵方は東北東で、その方向には歳徳神がいる縁起の良い方角である。その方向を向き神様と縁が切れないように、1本丸ごと願い事をしながら切らずに黙々と食べ続けると御利益が有ると言う。神様にお参りするという心構えで雑念を払い一心にお願いしましょう。
 
     
 
名古屋地方の四観音。
名古屋城を中心にして恵方が決まっています。
 
大阪で作られていた最初の恵方巻き。 
 
最初は広島で販売された。
 
金箔の太巻寿司
60本限定で、1本¥4、725.

   松 洞 山 龍 泉 寺 観 音
(H26年の恵方)
愛知県名古屋市守山区龍泉寺1-902
 
龍泉寺観音とは・・・・・・・。
尾張龍泉寺は龍王が一夜のうちに造立した寺で、馬頭観音が出た池の跡が見えるとされている。延暦年間に伝教大師最澄が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀ったのが開基とされている。 
一方、弘法大師空海も、熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納したといわれ、これより龍泉寺は熱田の奥の院とされてきた。
龍泉寺は庄内川を望む高台にあり、庄内川、崖、湿地に囲まれた要害の地であって濃尾平野を一望できるため、古くから戦闘の際には軍事的価値を認められて陣を置かれることが多かった。弘治2年(1556年)織田信行が城を築いたと言われ、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前には、清須城北東方面の防衛線を築くために織田信長が一隊を龍泉寺に派遣している。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際には、小幡城に進出した徳川家康を討つべく羽柴秀吉が陣を張ったが(このことが後に「一夜堀」の伝説を生んだ)、秀吉が退却するときに放火されて建物が焼失した。退却する途中、上条城で少しの間、滞在した。慶長3年(1598年)に近辺の寺院密蔵院の僧侶秀純によって再興されたが、明治39年(1906年)2月に再び放火され、多宝塔、仁王門、鐘楼を除く全てが焼失した。その焼跡から、慶長大判切2枚、慶長小判98枚の入った小判容器が発掘され、これが基金となって本堂が再建されたというエピソードがある。
 
  H26年の恵方は龍泉寺です。
尾張四観音は笠寺、龍泉寺、荒子、甚目寺で、徳川家康が名古屋城を築いた際、城から見て四方に位置するこの四寺を鎮護とした。その年の徳神のいる方向が恵方で、それに最も近い観音は福を求める人々でにぎわう。
節分会前夜祭は2日午後8時~3日午前零時まで、大祭は3日午前9時~午後6時までです。順次、祈祷を受けた人々らが本殿に立ち、境内を埋めた善男善女に向かって豆をまきます。そして最近は恵方巻きが一般化し、恵方に向かって無言で太巻きずしを食べると御利益が有り、運が開けると言う。恵方巻きの名の登場は1998(平成10)年。セブンイレブンが全国発売に際して採用した。太巻きずしを大阪の業界団体が販促に努めていたころと比べると、商戦は拡大の一途で、豆まきと太巻きずしは一体化した行事となっている。御利益の有ったのは豆まきに便乗して、太巻きずしを恒例化した関連業種の方々のような気がする。
 
 
   
天台宗に属し松洞山大行院と号する。
 
 
平日は龍泉寺城へは入れません。
 
道路沿いの広い駐車場。正面の赤い
歩道橋(かいうんばし)を渡ると東門です。
 
東駐車場から仁王門が見えます。後方が多宝塔です。
 
 
左から多宝塔、本殿、手水舎。
 
本殿。
 
 
仁王門
本殿
明治39年焼失後、焼け跡から慶長小判百枚が掘り出されたので、明治44年現在の本殿が再建されました。
本尊は、厄除、開運の馬頭観世音菩薩を安置しており、古くから一般信徒の厚い信仰を集めています。
仁王門(重要文化財、1928年指定)
三間一戸桜門入母屋造り柿葺き、正面7.4m、側面4,6m建造。年代は、天井裏から発見された棟札に慶長12年(1607年)の日付が有り、古事録や様式からもこの年次の建造とみられる。ただし、この門は高針村(現名古屋市名東区)から移したと伝えられており室町時代のものを慶長期に移建した可能性もある。
 
 
 
多宝塔
   
恵方 希望の鐘
 大日如来像がお祀りしてありましたが長久手合戦の際焼失。慶長3年から復興され、更に明治年間に大修理、現在に至っており、阿弥陀如来が安置してあります。
この多宝塔は、江戸後期以降に位置が移され、一部改修を受けているものの、中世から近世にいたる多宝塔の技法を理解する上で、近世初期の貴重な遺構である。
  明治40年に再建されたが、鐘は第2次大戦中供出、以後昭和34年「平和の鐘」として近郷の有志の方々によって寄進され、日々、平和の鐘の音を響かせています。




 
   荒 子 観 音
(H27年の恵方)
愛知県名古屋市中川区荒子町字宮窓138
 
  荒子観音とは・・・・・。
荒子観音は、浄海山円龍院観音寺と言い、天台宗系のお寺です。江戸時代の終わりに、時の住職が、お寺の由来を記した「浄海雑記」四巻によれば、古く奈良時代、聖武天皇の天平元年(729)に泰澄和尚によって開基された。
泰澄和尚は北陸の霊峰白山を開いた名僧で、北陸、近畿、東海を遊歴して、各地に寺院を建立しました。当観音寺もその一つで、御本尊の聖観世音菩薩像は泰澄和尚の作と言われる。
天平3年(741)に、法相宗の自性上人が七堂伽藍を建立され寺としての姿を整えました。その後、寺は戦乱にまきこれるなどして荒廃したようですが、中世にはこの地方きっての天台宗葉上流の学問道場であった春日井市密蔵院に属する大寺として、多数の僧徒を要し学問が盛んであったようです。
天文5年(1536)には観音寺の塔頭常住院の賢俊上人によって多宝塔が再建されました。
本堂は、天正4年(1576)に前田又左衛門利家が再建しました。利家は荒子城主前田利昌の四男に生まれ、織田信長に仕え、後、豊臣秀吉から加賀の国を与えられた戦国武将です。
前田利家の生誕地は、荒子観音より南西200mの天満天神宮境内に生誕の碑が建立されております。
 
 
弁才天(駐車場横)
 
駐車場入口にに掲げられているモアイの様な看板。
 
仁王門
弁才天は仏教の守護神で「弁財天」と表記する場合も多い。七福神中の紅一点、琵琶を弾く妖艷な姿で現される。 仁王門付近にはお寺の駐車場は有りません。この門を右へ進みますが、車1台がやっと通れる道なので対向車に注意しながら、横の駐車場に出ます。
 
 
荒子観音の境内。
左から多宝塔、本殿、六角堂、水子供養、鐘楼。
観音寺多宝塔・・・。
観音寺は浄海山圓龍院と号し、海平元年(729)泰澄の草創と伝えられる。
多宝塔は天文五年(1536)五月当時の住僧常住院賢俊の再建で、大工棟梁は熱田の岡部甚四朗と言われる。三間多宝塔、屋根は秫葺(こけらぶき)で、室町時代末期の特色を良く表しており、市内最古の建築で国の重要文化財に指定されており、平成十三年に解体修理が完成した。
 
 
 
本殿
 
六角堂
 
鐘楼
 
  荒子観音の円空仏・・・・。
江戸時代に全国を行脚しながら、生涯に12万体以上の仏像を彫った修行僧の円空上人(1632~1695)。岐阜県羽島市で生まれた円空が、ナタで彫る独創的な作風が「円空仏」として親しまれて来た。東海地方は円空仏を祭る寺社や所持する個人は多い。
円空仏が1カ所で多く見られるのは、何といっても名古屋市中川区の荒子観音寺だ、一般的には節分の寺として知られ、浄海山観音寺といい、奈良時代の天平年間に泰澄が創建。本尊の聖観音は秘仏。天文5(1536)年に再興された多宝塔(国重文)は名古屋で最古の木造建造物です。
円空仏は1255体が保存され、大きいものは山門に立つ仁王像一対で、大きなノミの跡が残り、力強さが伝わってくる。どちらも高さが3m以上もあり、延宝4(1676)年作。多くの円空仏は昭和47(1972)年、先々代住職が多宝塔の祭壇下の木箱の中で発見したものです。その時は、まるで作られたばかりのような色で、ヒノキの香りが漂ってきそうだったと述懐する。発見されたものは、殆どが十センチ足らずので、刃の跡は少なく、曲がった木をそのまま彫った像で、樹皮さえ着いたものも有ったと言う。そして驚いた事に、木の削りくずまでが紙に包まれ納まっていた。
寺に残る文献では、円空はヒノキの大木を池に浮かべながら、3mを超す仁王像を造り、余材で大小様々な数千体を彫ったとされる。そのため、いびつな木の破片に目鼻だけを刻んだ簡素なものが多い、貧しい僧だったので、まとまった木材が手に入る機会を最大限に生かしたもので、千以上の仏像「千面菩薩」はそれを裏付ける発見だった。
これらは仁王像の残材で彫られた木っ端仏などで、住職は「木の中から仏を出されたのでは」と、円空の慈悲と優しさをたたえる。さらに円空仏の口元を示し、「このほほ笑みこそ円空の心」と説く。仁王門像以外は毎月の第二土曜日の13時~16時まで公開される。志納金は500円です。
近くには前田利家出生地の碑が富士権現社の境内に有る。前田氏の居城だった荒子城跡で、金沢へ移るのに伴い廃城となった。
名古屋にも円空さんゆかりの寺は多い。千種区の日泰寺近くの鉈(なた)薬師の医王堂には日光、月光像等がある。毎月21日が開扉日(10~14時)です。尾張四観音でもある守山区の竜泉寺には、馬頭観音や千体仏の一部と思われる円空仏約200体がある。日、祝日の9~15時半が公開日で拝観料は100円です。
 
 
 
荒子神社の横に有ります。
 
神明社
 
水子供養
神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市) を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖 神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。
 
 



   笠 寺 観 音
(H28年の恵方)
名古屋市南区笠寺町上新町83番地 
 
   
 
 
笠寺観音正面入口山門(仁王門)が見えます。
大きな仁王様(金剛力士)が寺の入り口を守っています。
 笠寺観音
寺伝によれば、天平5年(733年、一部の文書には天平8年-736年)、僧・善光(または禅光)が浜辺に打ち上げられた流木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。その後1世紀以上を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平(藤原基経の子、875年-935年)が、雨の日にこの観音像を笠で覆った娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆寺と名付けられたという。笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。
 
 
狭い駐車場入口。
普通車以上は細心の注意を払って入って下さい。駐車場は十数台停める事ができます。
 
西門から見た境内。
 笠寺観音の正面入口は西門と勘違いされている方が多いと思われます。それは西門には商店街があり、駐車場も西門の横から入るからです。境内は広いのですが、目立った大きな建物は二重の多宝塔だけで、見劣りのする寺ですが、歴史が有るのでその名を轟かせているようです。
 
 
本堂(本尊・十一面観世音菩薩)
 
二重の塔(多宝塔)
 笠寺観音の御本尊です。玉照姫の故事から、笠をかぶっています。(秘仏、ご開張は8年に一度。次回は平成27年4月)普段は「お前立ち」の観音様のお姿が見えます。
厄よけ、健康、商売、結縁…お参りに来る多くの方々の願いごとは、さまざまです
二重の塔で、阿弥陀如来をおまつりしています。(如来像は保管上の理由により、外部に寄託中)
 
   六地蔵のいわれ・・・・・・。
過去にお釈迦さま(釈尊)が入滅されてのち、遠い未来に弥勒菩薩がブッダとなって、世に現れるまでの間、現在において、我々衆生を救うのが、地蔵菩薩と言われています。
われわれ、生きとして生けるものが、輪廻転生(生まれ変わり続ける事)する世界を六道といい、六種に説明されています。
地獄道・・・・罪悪を犯す事によって受ける責め苦。
餓鬼道・・・・食欲や嫉妬によって引き起こされる苦しみ。
畜生道・・・・自分が反省しょうとしない愚かさによって受ける苦しみ。
修羅道・・・・争って、他者を打ち負かそうとする事によって受ける苦しみ。
人間道・・・・身体と生活にまつわる苦しみ。
天 道・・・・快楽に満たされても、必ずそれを失う苦しみ。
この六道の全てにおいて、お地蔵様は苦しみから救おうとして下さいます。我々は、自分の行いによって、しばしば自分自身を苦しめてしまいます。そんな時は、この六道の姿のお地蔵様に、そっと、その苦しみを打ち明け気持ちを軽くして、心を磨く糧としては如何でしょか?
 
 
延命地蔵堂
お釈迦様亡きあとの衆生を救うお地蔵様
 
笠寺善光寺
阿弥陀如来様をおまつり。
 
医王殿(薬師堂)
薬師如来様をおまつり。
   



 
 
玉照姫本殿への鳥居。
笠寺観音と玉照姫の関係。 
呼続の浜辺に流れ着いた霊木が、夜な夜な不思議な光を放つので、人々はそれを見て恐れをなした。近くに住んでいた僧・善光上人は夢のお告げを受け、その霊木を彫って十一面観世音菩薩の像を作った。上人は寺を建て、そこに観音様をおさめ、その寺を「天林山小松寺」と、天平8年(736)に名付けた。
玉照姫と観音様
その後、約二百年の歳月が流れ、小松寺は荒廃、お堂は崩壊し、観音様は風雨にさらされるようになってしまった。ここに一人の美しい娘がいた。彼女は鳴海長者・太郎成高の家に仕えており、その器量を妬まれてか、雨の日も風の日も、ひどくこき使われる日々を送っていた。ある雨の日、ずぶ濡れになっていた観音様の姿を見た彼女は、気の毒に感じ、自分がかぶっていた笠をはずして、その観音様にかぶせました。
その縁が後日、関白・藤原基経公の息子、中将・藤原兼平公が下向のおり、長者の家に泊った際にその娘をみそめ、自分の妻として迎えようと決心した。兼平公の妻となった娘は、それから「玉照姫」と呼ばれるようになった。
この観音様の縁によって結ばれた玉照姫・兼平公ご夫妻は、延長八年(930)、この地に大いなる寺を建て、姫が笠をかぶせた観音様のを安置した。このとき寺号も小松寺から「笠覆寺」に改めた。これが「笠寺観音」「笠寺」の名の由来である。以来、笠覆寺は縁結びや厄除けの寺として、多くの人の信仰を集める事になりました。
 玉照姫本殿は、笠寺観音仁王門の道路を挟んで反対側に有ります。
 
 
玉照姫本殿
玉照堂の興廃。
歳月は経過し、嘉禎四年(1238)に阿願上人が寺を再興したのを始め、幾度か再興を繰り返してきた。現在の堂塔の多くは江戸期(生保~宝暦年間)の再建になるものです。
玉照堂の破壊。
明治時代に入り、再び笠覆寺は荒廃の憂き目にあい、そのさなか、境内に建っていた玉照姫の安置されていた堂は失われてしまった。しかし、玉照姫・兼平公ご夫妻のご本体とご位牌は幸いにも散逸の難をのがれ、変わらず縁結びや開運栄達の信仰を集め、長らく玉照堂の再建を待つ事になる。
昭和の復興。
昭和の時代に入って住職となる政識和尚は、荒れ果てた寺を憂い、寺の再興の為に各地を托鉢し、又、多くの信者の帰依もうけ、真言密教の道場であるこの笠覆寺を復興、かつての壮観を取り戻した。
玉照堂の再建。
玉照堂が失われたまま百年余りが経ち、ついに、悲願であった玉照堂再建を果たす事になった。観音様とあわせて、縁結び、交際円満の信仰を集めて来た、玉照姫・兼平公ご夫妻は、現在この堂に入られて、参拝に来る善男善女を静かに見守っている。
 
 
水子地蔵尊と福寿地蔵尊
福寿地蔵尊 
悪い主人に、真っ赤に焼けた火ばしの焼印を押された安寿と厨子王が、傷の痛みと心の怖れとに気を失いそうになりながら、手を合わせると、歯をくいしばってもこらえられぬ痛みは消え、額の傷は跡形も無く無くなっていました。かすかなともしびの明りにすかして見ると、お地蔵様の額には、たがねでほったような十文字の傷が有りました。二人の身代りに成って下さったのは、お地蔵様のお守り札でした。子供の苦しみや悲しみを一身に背負い、全ての願いをかなえようという願をもった福寿地蔵様は何時でも子供達の健やかな成長を見守って下さいます。
水子地蔵尊
思いは残る うつし世に 父おば慕い 母を恋い
泣きつつあわれ 歌うなる その歌声の悲しさよ
その時 能化の 地蔵尊 光ほのかに 現れて
なよわが子らよ 泣きやめよ われは 地蔵菩薩成り
われを 冥土の父母として ひとすじにこそ 頼めかし
御声とともに 御袖に だきしめ給うぞ 尊とけれ
水子地蔵様は、一度は、この世に人として生を受けながら、あたたかい母の胸にいだかれることなく、葬り去られた幸せ薄き子らを残らずお救い下さいます。
 
  笠寺観音朝市
 毎月6の日(6,16,26日)には朝市が開かれます。新鮮な野菜、新鮮な魚、衣料品等が割安価格で販売されています。
笠寺観音フリーマーケット
 毎月18日(観音縁日)に行われています。出店等の詳細は笠寺観音のHPで確認して下さい。
 
 

    甚 目 寺 観 音
(H29年の恵方)
 愛知県あま市甚目寺東門前24番地
 
 甚目寺観音・・・・・。
仏教が伝来した宣化3年(西暦538年)よりわずか60年後の推古5年(西暦597年)のこと、伊勢甚目村(いせはだめむら)の漁夫、龍麿と言う人が、江上庄の入り江(現在の甚目寺の東南約200mあたり)で魚をとっていました。その網に黄金の聖観音像がかかり、歓喜した彼は入り江の北にお堂を建て、像を納めました。これが甚目寺の始まりと言われています。法隆寺や四天王寺に次ぐ我国有数の古刹です。
聖観音像は、釈尊の授記を受けて作られたもので、百済を経て日本へ渡り、敏立14年(西暦585年)に海中に投じられた三尊仏の内の一尊と言われています。他の二尊もそれぞれ拾われ、阿弥陀仏は信州の善光寺に、勢至仏は九州大宰府の安楽寺にあります。
甚目寺の聖観音像は後に十一面観音の胎内仏となっています。
甚目寺は7世紀中頃、天智天皇より宝鏡を下賜され、続いて天武7年(西暦679年)に天武天皇から鳳凰残の額を勅賜しました。その後盛衰が有り、康和5年(西暦1103年)には七堂伽藍が再興され隆盛を極めましたが、天治元年(西暦1124年)大地震の被害を受けました。しかし鎌倉初期建仁元年(西暦1201年)に聖観上人が再興をはかり、七堂伽藍も整えられました。
16世紀の末には豊臣秀吉公から寺領160石を受け、17世紀始めの名古屋開府と共にその鎮護の任にあたり、徳川義直公からも300石を受領しました。
以後も歴代藩主の手厚い保護と、土民の篤い信仰を得て、尾張四観音寺の筆頭として栄えてきました。
 
   
甚目寺入口。後方は三重塔。
 名古屋市緑区から二十数キロの所に有る甚目寺を尋ねました。甚目寺に着くと大きな仁王門が見え、そして気がかりになるのは駐車場です。停める所を神経を集中しながら探すと、仁王門の横に入口が有り、そこから入ると駐車場だと分かりました。お寺の駐車場は殆どが広い場所なのですが、ここは以外に狭かった。そして横を見るとお寺らしき建物が有る。そちらへ行く人を見掛けたが、まず本堂へ御参りする事を選んだ。本堂までの長い参道を歩きかけた時、ボランティアの様な御婦人が見えたので、横のお寺の事を聞くと、甚目寺では有りませんが、皆さん御参りされています。それから反対側の方向を指し、あちらのお寺へも皆さん御参りされます。と教えて頂きました。
 
 
本堂と釈迦堂、六角堂
 
甚目寺本堂
   
   
仁王門から本殿を撮ったものです。
左から手水舎、三重塔、本殿、六角堂、駐車場です。
 
 
 
仁王門
 仁王門
仏事の守護神として,2体の金剛力士を安置する楼門。仁王を安置し,寺門を守る風はインドのバールフットの塔門に例があり,日本では法隆寺西院の中門が最古例。また東大寺南大門の運慶・快慶作仁王像が最大とされる。仁王[におう](金剛力士[こんごうりきし])の像を左右に安置した門のことです。寺の中に悪いものが入りこまないように置かれた門です。

甚目寺の仁王門(重要文化財)
鎌倉時代初め建久7年(西暦1196年)の建築。聖観上人が寺の再興をはかった折、源頼朝の命で梶原景時が奉行となり普請したもの。また、仁王像は運慶作と伝えられる。
 
 
三重塔(重要文化財)
 
梵鐘
 
鐘楼
 梵鐘は県の文化財に指定されています。建武4年(1204年)3月20日の銘がある鎌倉時代の製作です。
 本瓦葺 三間三重塔(本尊、愛染明王)
高さ28メートルで、三重塔としては日本有数の高さを誇る。
江戸時代の初め寛永4年(西暦1623年)9月の建築で、名古屋両替商 吉田半十郎政次の寄進による。
愛染明王は縁結びと耳の遠い人に御利益があります。
梵鐘(ぼんしょう)は、東アジアの寺院などで使用される仏教法具としての釣鐘(つりがね )。
 
 
甚目寺の特徴は、ミニチュアの四国八十八カ所が有る事です。
四国八十八カ所。 
十王堂と釈迦堂の間に、小さな仏像等が御祀りされた奇異な広場が有りました。その場所は、弘法大師が開かれた四国八十八カ所霊場のミニチュア版でした。
徳島(発心)・高知(修業)・愛媛(菩提)・香川(涅般)の四つの国に分かれていました。四つの国を回ると、身体健康の御利益を得られると言われています。
 
   
十王堂(本尊、閻魔大王)の仏像 
 
 このお堂には、人間の死後の世界を現わす十人の仏様(裁判官)がおまつりしてあります。この仏様は、室町時代に作られた数少ない仏様として大変貴重な存在です。これらの仏様の名前は、中国の仏様としての呼び名になっています。
閻魔(えんま)様の前では、光景の不気味さと、過去の行いの反省からか長居は出来ませんでした。そこで、仏様と縁を結ぶお札様・血脈を持つと極楽浄土への道がひらけると伝えられています。
人間の死後、生前の行いにより裁判を受ける十人の王を奉り、往生安楽のご利益があります。又、三途の川で衣服を剥ぎ取る脱衣姿も奉られています。
 
 
明王堂と弘法堂
 
六角堂
(本尊、地蔵菩薩)
千体の地蔵様が奉られ、特に子供の育成を加護し、学業成就、身体健康に御利益があります。
 
不動堂
(本尊、不動明王)
東海三十六不動霊場の第五番札所。(当山には、日本三不動の一つ国指定重要文化財の青不動の掛軸があります。)特に青不動様は、災難除け及び交通安全の御利益があります。
 明王堂(本尊、鳥枢沙魔明王)→下の病を治したい人、世話を掛けずに済む仏様。
弘法堂(本尊、弘法大師)→真言宗の開祖、弘法大師空海を奉り「南無大師遍照金剛」と唱えて参拝すると願い事が成就します。
 
 
甚目寺と並んで建てられている大徳院。
 大徳院(本尊、えびす大黒天)
尾張三霊場第二番札所。
左甚五郎作と伝えられている本尊様は、商売繁盛、福徳開運のご利益があります。又、えびす大黒天のお影は、家にまつると福が積もると言われています。
 
大徳院本殿

えびす・大黒天 
 大徳院はご本尊ご遷座以来、商売繁盛、家運隆盛の祈願所として広く知れ渡り、日々祈願者の絶えることがありません。特に左甚五郎作木判手刷り本尊御影は、その霊姿、功徳力共に他に比類するものないと全国各地より多数その徳を受けに参拝されます。  仏糸
仏糸は本堂正面に有り、まずそこでご自身の首に仏糸をかけ、本尊様に向かって、仏糸に願いを込めてご参拝下さい。その後、こちらの仏様に仏糸をかけ、再度願をとなえながら、拝礼して下さい。