Uralbomber
1933年からTechnischeamt及びJunkers社,
Dornie社により長距離四発爆撃機の研究が
開始されました。これは将来、ソ連との
交戦の際にUral地域の戦略拠点を攻撃する
事を想定しており、内部的にUralbomberと
呼ばれました。
開発途中の1936年6月3日にWeverの事故死があ
りましたが、Do19V1は1936年10月28日に,また
Ju89V1は1937年4月11日(1936年12月と言う
説あり)に初飛行しました。
しかし直後の1937年4月29日にGoeringにより
両機の開発はキャンセルされ、
この決定がLWの将来を大きく変えたとよく言
われます。
キャンセルを主導したのはWeverの後任の
Kesselringですが、事情について彼は1954年
5月17日付けの資料で以下のように弁明して
います。
(Luftwaffe war diary1@のappendix11を参照
して出島が要約したもので原文通りでは
ありません)
(1)性能不足が分かったが、設計変更の為の
時間が不足だった。
(2)航空産業に大型機を量産する準備が不足して
いた。
(3)生産の為の原材料と燃料の不足が予測さ
れた。
(4)乗務員の訓練の準備が出来なかった。
(5)従って、もし戦略爆撃部隊の整備に取り掛か
っていたならば、実際にWW2が開戦した1939年
迄に完成しておらず、一方で、ドイツに緒戦の
成功をもたらした航空兵力による地上軍支援
は実現しなかった。
この問題は、LW内部でも意見がまとまらず、
当時Generalstab:AbteilungIの責任者だった
DeichmannがGoeringに直接面会の上、両機のテスト
継続を訴えたと言う事実が有りますA。しかし同席
したMilchは四発爆撃機の可能性に疑念を表明し、
既に具体化していたJu88(1936年12月21日初飛行)
の生産計画に悪影響を及ぼす可能性を理由に、
両機のキャンセルを主張しました。
Do19は性能がやや劣っていたので、結局この
時点でJu88とJu89の二者選択になり、前者が選ば
れた訳です。
(MurrayBは、両機がキャンセルされた原因は適当
な航空機エンジンが無かったことだと言ってお
り、より高性能のエンジンの実現を前提にHe177
の計画が1937年に開始され、1940年始めの生産
開始を目指したと解説しています)
ここで両機に1年以上先行して1935年7月28日に
初飛行していたBoeing Model299(B17の原型)と
比較をして見ます。
|
全長 | 全幅 | 翼面積 | 自重 | 全備重量 | 最大速度 | 巡航速度 | 航続距離 | 実用上昇限度 | エンジン |
Boeing299 | 20.96m | 31.63m | 138u | 9.82t | 14.71t | 380km/h | 225km/h | 4844km | 7504m | 750hp*4 |
Do19 | 25.45m | 35.00m | 162u | 11.86t | 18.50t | 315km/h | 250km/h | 1600km | 5600m | 715hp*4 |
Ju89 | 26.50m | 35.27m | 184u | 17.0t | 22.8t | 390km/h | N/A | 2000km | 7000m | 1000hp*4 |
性能は飛行条件で異なるので比較は困難ですが、
Boeing299の750hpエンジンで最大速度380km/h
の性能と自重9.82tの軽量設計は素晴らしいもの
でした。また長い航続距離も大きな特徴でした。
Do19とJu89は機体が大きい割りに性能がぱっと
しませんが、エンジン的にはひけを取っていな
いようです(B17はG型でも1200hp*4です)。
結局ドイツ側も両機の完成前から性能的な不足
を認識しており、CorumCによれば、当時Chef
des TechinscheamtだったWimmerにより1936年
4月17日に次世代4発爆撃機の仕様が発行され、
既にWeverの生前から上の両機の開発を早期に
終了して次世代機に移る方針が決まっていた
としています。
ともすれば戦史上のIFの対象となる両機です
が、WW2時点での主力機となり得たと考えに
くく、次世代のHe177の失敗がドイツの真の
敗因の一つだったのでしょう。
@参考文献2 page374-375
A参考文献6 page155-158
B参考文献3 page9
C参考文献5 page172
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