2003年8月17日
Rheinland Program
1933年11月7日に決定した1934年度の空軍整備の総予算
は10億RMに達し、本格的軍備増強が始まりました。具体
的な航空機の生産計画は1934年1月1日に実行開始され、
Rheinland Programと呼ばれました。それによれば1935年
9月30日迄に4021機の航空機の生産が予定されました
(この機数はよく引用されます)@。内訳を以下に示しま
す。
作戦用機種 1718機
爆撃機
|
822機
|
戦闘機
|
245機
|
長距離偵察機
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320機
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短距離偵察機
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270機
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急降下爆撃機
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51機
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海軍機 149機
偵察機
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102機
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水上戦闘機
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26機
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多用途機
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21機
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練習機 1760機
連絡機 89機
その他(含む民間機) 305機
機種別には爆撃機の多さと戦闘機の少なさが目を引きます。
理論的裏づけはMilchの代理としてLufthanzaに在籍した
Robert Knaussに基づきました。Giulio Douhetの信奉者であった
彼は当時ドイツの脅威となっていた西のフランスと東のポーラン
ドのニ正面に対抗する為の攻撃力の整備こそが緊急課題と考え、
両仮想敵国の交通機関や生産施設を攻撃できる数百機の爆撃隊を
保有する事が最も効果的で経済的であると主張しました。
彼によれば200機の爆撃隊は海軍の2隻の巡洋艦(ポケット戦艦)
または陸軍の5個師団とコスト的に同等であり、かつ戦略的効果
はそれらに遥かに勝るとされましたA。
Hitlerは既にドイツの再軍備を急いでいましたが、彼の領土
拡張の野心は未だ表面化しておらず、ドイツの生存の為に
東西の両国の攻撃に反撃できる軍事力を保有すると言う考え
方を少なくとも表面的には支持しました。
また1934年1月にはドイツとポーランドの間に不可侵条約が
締結されました。
しかしVersaille条約下でのドイツの巨額の軍事支出はたち
まち国際的緊張を引き起こし、1934年3月に対外的に公開さ
れた予算金額は実際の5分の1でしたがそれでも前年度の
3倍に達したため英国政府から公式に理由の問い合わせが
なされました。それに対してドイツ外務省は「Lufthanzaの
拡大と近代化の為。」と答えましたB。
Hitlerと当時信頼の厚かったMilchはこの事態について協議
したとされていますが、Hitlerの返事は「自分の利益の為に
嘘をつくことは出来ないが、ドイツの為ならばつけない嘘は
無い!」と言うものでしたC。
このように機数整備が進められたものの、初期の軍用機の
性能はドイツの航空機生産の経験と高出力エンジンの不足
の為に満足できるものでは有りませんでした。主力爆撃機
に予定されていたDo11は1932年3月に初飛行して、600HPの
Siemens Jupiterエンジンを二基装備して約1tの爆弾を積載
して最大速度約250kmを出しましたが、夜間飛行できる装備
が無かったと言われています。同機はその後同型エンジンの
Do13(1933年に初飛行)、BMW V1エンジンに換装された
Do23(1934年に初飛行)に発展しましたが、速力不足と操縦
性の悪さが指摘されました。また爆撃機の機数不足を補う為
に旅客機として好評だったJu52の爆撃機型Ju52/3mg3eも生産
されましたが、武装と速度が不足していました。
戦闘機ではHe51が最新鋭機として生産に入っていましたが、
速度性能は良かったものの、操縦の容易な機体では有りま
せんでしたD。このような状況で1934年12月にTechnische Amt
はその時点で生産中の爆撃機の生産を中断することを検討し
ましたが、期待の次世代の爆撃機群はJu86とDo17が初飛行し
たばかりで量産移行までにはまだ1年以上かかる為そのよう
な選択は現実には有り得ないものでしたE。
しかし何よりも足を引っ張ったのはエンジンの供給不足でした
。上のJupiterエンジンがやっと量産に入ったのは1934年1月の
ことで、しかもDo11とAr64戦闘機の両方に使用されていました
。BMW V1エンジンの供給も困難で、これを使用していた
He46とHe60の生産を遅らせました。これを解決する為、RLMは
エンジン工場の一段と拡大を命じました。これに対して商売上手
のBMWは同社製のBMW132空冷エンジンは水冷エンジンと比較して、
製造工数が3分の2で済むことを強調して、早速売り込みを掛けま
したF。
シリンダブロックを精密切削で作る水冷エンジンに比較して、
同じ気筒を何個か並べて組み立てることが出来る空冷エンジンは
生産性の面では確かに勝っている訳です。
このような実務上の困難が有りましたが、Hitlerは1934年7月末
に、Milch,Wever,Goeringの3人を直接呼び寄せ、空軍増強計画
の一段の強化を命じています。Milchは状況の困難さを説明しま
したが席上でGoeringは彼を叱りつけてHitlerの意を受け入れ
ようとしたとされています。Milchは「彼自身は真の空軍を考え
ているが、Goeringは宣伝用の空軍で十分だったようだ。」と
回想していますG。
しかしエンジン生産の遅れは継続し、業を煮やした当時LCIIの
責任者のW.F.von Richthofenは1934年9月20日と21日にエンジン
製造企業を集めて、RLMと企業の協力により1936年迄の1年半
以内にドイツのエンジン技術をを質、量共に世界一にするという
方針を強調し、更に新型エンジンの開発を督促しましたH。これが
1936年にJumo211とDB600の生産に繋がり、これらを用いてドイツ
は大戦初期の勝利を手にする事ができました。ちなみに1934年12月
にBMW801の開発が始まっています。
機体の開発はエンジンに比べれば問題は少なく、1934年の始めに
はBf109につながる単葉戦闘機の仕様書が発行され、また夏には
Junkers社で急降下爆撃機Ju87の開発が始まりました。
機体の生産面では、Milchが育成してきた航空機製造企業が稼動し
始め、原材料の不足に苦しみながらもなんとか増産が軌道に乗っ
てゆきました。
1935年1月末までにRhinland Programに基づく生産機数の合計は
2105機に達し予定より216機不足したものの何とか機数を揃え
る事に成功し、これを踏まえてMilchは1935年中に更に3183機を
生産する新たな増産計画の策定に着手しました。懸案だった機種
の更新もようやく始まり、Lieferplan Nr1に発展しますI。
1935年3月10日にドイツは空軍の存在を世界に公表しますが、その
時点で総数2500機、作戦機800機を擁し、内容はともかく規模
だけはGoeringの面目を立てるに十分なものでした。
@参考文献11 p80
A参考文献5 p131
B参考文献12 p38
C参考文献12 p39
D参考文献5 p162
E参考文献11 p87
F参考文献11 p84
G参考文献12 p42
H参考文献11 p84
I参考文献11 p103-104
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