Normandy3
Normandy戦線が開かれた後、ドイツ陸軍の上級指令官にも損耗が相次ぎました。最も痛手だった
のは6月12日にCotentin半島全体の守備を指揮するLXXXIV.Armeekorpsの司令官だったGeneral
der Artillerie Erich Marcks が戦況視察のためにSt.LoからPeriersへ向けて移動中Typhoon戦闘爆
撃機の攻撃を受けて戦死した事でした。
彼はドイツ側で最も才能のある指揮官の一人として知られていましたが1941年6月に東部戦線で
負傷して右足が義足であったために、攻撃を受けた車両から逃げ遅れたものです。
また、同じ日に12.SS-Panzer-Division Hitlerjugendの指揮官であるFritz Wittが連合軍側の艦砲射撃
により戦死しました。彼を引き継いだのがKurt Mayerです。
こうした状況下でI.SS-Panzerkorps: Obergruppenfuhrerを指揮する Josef "Sepp" DietrichはRommel
への報告の中で、「Caenの戦線が維持できるのは良くて後3週間」と述べます。彼は古いNazi党員で
Hitlerとの良好な関係で知られた人ですが、そのような立場であっても、党を見放す発言に走る状況
に至りました。
Rommelは弱気になり「もはや状況の解決は、政治に任せるしかない」と述べますが、
6月13日にCherbourg防衛を事実上断念して、戦闘力を残していた77.Infanterie-Divisionを南方に脱出
させることに成功します。
また6月15日にNormandyに派遣されていた戦闘機隊のうちIV./JG3が本土防衛の為、Eisenstadtに戻り
ます。
Hitlerも戦局を憂慮して、6月16日の夜4機のFw200に幕僚を伴ってSoissonsに移動し、翌17日朝に
von Rundstedt およびRommelの戦意を高める目的の会談が行われました。
二人はHitlerにCherbourgの放棄を認めるよう求め、Hitlerは直ちに同意しますが、Cotentinでの抗戦
を少なくとも7月中旬まで継続して米軍を引きつけておき、CaenとFalaise付近の1.Armeeと9.Armee
集結を待って、英軍に対する反攻に転じるよう命令しました。
Rommelは最後に政治的解決を訴えますが、Hiterは適した時期でないとしてこれを拒絶しました。
こう書くとRommelが政治的感覚に優れていたかのように見えますが、彼は軍事的状況を客観的に
述べたに過ぎず、Hitlerへの忠誠心はゆらぎませんでした。
会談の効果は有って、Rommelは再び戦意を取り戻しますが、OKWからのCotenteinでの反撃命令
に対しては、戦力の不足を理由に拒否を続けます。
この間にもCotentin半島における米軍の進撃は進み、Lwは6月17日にI./JG27をVertusからVannesに移動
させて増援し、これに伴いVannesに駐在した4.5.6./JG53がより東方のBiollay,Varades,Soucellesに移動して
引き続き南方から米軍を攻撃しましたが効果が上がらず、米軍は6月19日にMontebourgを占領しました。
6月17日には243.Infanterie-Division司令官の Genlt Heinz Hellmich が戦死し、77.Infanterie-Division
司令官のGenlt Rudolf Stegmannが6月18日戦死と続きました。Cotentin方面を守備する両司令官の喪失
により、状況はドイツ側にとって一層苦しくなってゆきます。
6月18日はUSAFがNormandy上陸後初めてドイツ本国の大規模空襲を再開しました。参加したB17、B24
は1378機ですが、悪天候の為に目的のHamburgやHannover地域の精油所に投弾できず、多くの爆弾
が二次的な目標に投下されました。
6月19日から21日の間は海岸地域を80年に一度と言われるstormが襲った時期でした。連合軍側は
米軍地域のOmaha海岸と英軍地域のGold海岸の沖10kmにMulberry港と呼ばれる各7000tの揚陸能力を
持った浮き施設の建造を進め、6月18日から稼動を開始したばかりでしたが、この嵐のために、
Omaha側の施設は破壊され、まだ使える部材は損害が比較的少なかったGold海岸側の施設の修理に回
されました。
連合軍側によれば建築中のMulberry港に対するLwの攻撃が6月15日に記録されて、9機のMe109を撃墜
したと有ります。攻撃を行った部隊は判明せず、通常の海岸への爆撃の一環として攻撃があったものと考
えられます。
米軍は、この後従来通りに干潮時に接岸して揚陸を行い満潮時に海岸を離れると言う方法に戻りました
。しかし能率低下は免れず、主にGold海岸側の施設が連合軍全体の補給を支えました。
USAFはこの悪天候の間、6月20日と21日の二日間に亘り、各1402機、1215機の四発機によりドイツ
本国の精油所攻撃を行いました。しかし爆撃後にソ連領Poltava飛行場に到着した部隊が6月21日の夜、
Fliegerkorps IVの攻撃を受け、B17が44機破壊、26機損傷と言う損害を受けました。
6月22日に米軍は南方からCherbourg近郊に到達して、ドイツ側防衛線への攻撃を開始しました。
Cherbourg防衛は主として海側からの攻撃が想定されており、ドイツ側も事前検討で、Erich Marcks
が後背の高台からの攻撃に対して弱点があることが指摘していました。しかしドイツ側守備隊は主力が
既に脱出して戦意が低く、後背拠点の防衛無く市内に撤退した為に、米軍の自由な行動を許す事
になりました。
6月22日は東部戦線でソ連軍の大規模反攻が開始され、その後ドイツ側に大損害が発生したことを付記
します。
ドイツ側は6月23日付けで709.Infanterie-Divisionの指揮官だった Generalleutnant Karl-Wilhelm
von Schliebenを Cherbourg防衛司令官に任じて長期間の抗戦を期待します。彼は港湾施設の徹底的
な破壊を命じますが、米軍は6月24日に市街地の周囲を包囲して砲兵隊と艦船が市街地への砲撃
を行いました。翌25日には総攻撃が開始され、米軍捕虜用の輸血血液の提供を受けた軍医が
von Schliebenの手元に無条件降伏勧告文書を届けます。
von Schliebenは一旦拒否しますが、翌26日の午後には米軍が彼が指揮を執るシェルターの入口に
到達し、直ちに降伏しなければ内部の800名の守備隊員諸共シェルターを破壊するとの宣告を受け
、終に降伏を受け入れました。ドイツ側の散発的抵抗も6月27日にほぼ終息しました。守備隊の名誉
の為に付け加えるならば、港の破壊は降伏直前まで続けられました。
ドイツ側はCherbourgやBrestと言った主要港湾における抵抗によって連合軍の消耗を誘って、数的
劣勢を補おうと構想していましたが、あまりに早いCherbourg陥落の報はそれが破綻した事を示し、
OKWとHitlerに大きな衝撃を与えました。
この間、6月24日夕刻にEinsatzstaffel/KG101がSt Dizierから4機のMistelを発進させLe Havre西方
に停泊する連合軍側の船団を攻撃しましたが、1隻に損傷を与えただけに終わりました。同部隊は
この日以降、合計10機のMistelを発進させましたが、目立った戦果を挙げることはできません
でした。@
一方Caen地域では、Hitlerの命令により東部戦線から6月12日にFranceに向け移動を開始した9.SS-
Panzer- Division"Hohenstaufen"と6月16日に移動を開始した10.SS-Panzer-Division "Frundsburg" が
連合軍側空軍の攻撃によって遅延しながらもこの時期に相次いで到着し、ドイツ側は本格的な反撃体制
を整えようとしました。
しかし英軍が6月26日からCaenの西方で開始したEPSOM作戦が機先を制する形となり、両師団は到着
直後から、防御作戦に投入されました。英VIIIcorpsは26日早朝から兵員60,000名、戦車600両によって
突入を開始しました。
ドイツ側は翌6月27日から機甲師団が英軍の後背を衝く形で反撃を開始しますが、
英軍は雨天の中で6月28日には南西部のOdon川を突破して当面の目標だったHill 112を占領しまし
た。
Rommelはこのような戦況下でvon Rundstedtと共に6月28日にBerlinに呼び戻され、翌29日にHitlerと
の会見に臨みます。Cherbourg陥落の状況説明に行った形ですが、彼は兵力不足の下で反撃の困難
を率直に訴えました。Hitlerは同日夕刻にDoenitz、Goering、Sperrleとも会って、各軍の戦意を再度
固めようとしました。結局これがRommelとHitlerの最後の直接会見となりました。
Caen地域の英軍はドイツ側に包囲される危険を憂慮し、29日にMontgomeryは部隊にOden川西岸
への撤退を命令してHill 112は再びドイツ側の手に落ち、EPSOM作戦は失敗に終わりました。
この日7.Armeeの指揮を執っていた Genob Friedrich Dollmann が指揮の最中に心臓疾患の為に
死亡するという事件が起きました。
彼を始めとする数人の将軍は連合軍上陸阻止失敗の責任をHitlerから問われて軍法会議に掛けられる
と脅されており、彼の死は自殺だったという説も有ります。
彼の後任となったのがSS Oberstgruppenfuhrer Paul Hausserでした。
このように1944年6月は終わりました。上陸地域でLfl 3は13829sortiesの作戦を行い作戦中に931機、
輸送中等の作戦外で67機を失いました。一方連合軍側は約130000sortiesの作戦を行い四発機を除く
損失が702機でした。空中戦でLwと連合軍側の損失比は3:1だったと言われ、ドイツ側の対空
砲火の効果が大きかったことになります。
Geyr von Schweppenburgは、Rommelに対して連合軍側の艦砲射撃により大きな損害を出している
Caen地域からの撤退を進言しますが、7月1日の早朝にRommelはSchweppenburgに防衛線を守る
ように指示を出します。
しかしSchweppenburgの意見書はこれを支持するvon RundstedtによりBerlinにも送られますが、
Alfred Jodlが「撤退は戦線全体の崩壊を招く」と強硬に反対します。
Hitlerはこれを受けて深夜にSchweppenburgの解任を指示し、von Rundstedtには翌2日の朝に
「健康状態が任に堪えない。」としてOberbefehlshabers Westからの自発的辞任を促し、彼はこれを
受け入れます。
彼の後を受けたのは1943年に東部戦線で負傷して前線を退いていたGunter von Klugeでした。
Klugeは1940年のFrance、オランダ侵攻の際にRommelの上官だったことも有り、Rommelとの良好な
関係が期待されました。この後von Kluge、Rommel、von Rundstedtの3人には7月20日事件を巡っ
て因縁めいた関係が生じます。
また、Lwの内部では7月1日に 身内と言うべきII.Fallschirmjager-Korpsの司令部から、「苦しい
前線の士気を保つ為、、せめて1日の内の短時間だけでも、上空を飛行してくれ!!」と言う悲壮な
要望が出ました。
結局6月後半にかけてのLwの活動不十分を理由にWerner Junckは同日付でII.JKps.の指揮官を免
じられ、Alfred Buelowiusが後任として戻りました。Junckはそのまま退役しFw社にアドバイザー
として入社しました。A
米軍は7月3日に南下を開始します。Britagny半島方面への進路確保の為、西海岸沿いを約
20miles(33km)前進する目的で、Coutances-Marigny-St-Loを結ぶ線まで前進する構想でした。
St.-Loは米軍にとって南西のBritagny方面と、南東のVire方面への進路が開ける
要衡であり、逆にドイツ側から見ると、道路網が集結する地点で、部隊を移動させる
為には、手放すことができない価値がありました。
Isignyから南下した米V CorpsはSt-Lo東側6kmの地点まで到達していましたが、標高30から
100mの丘陵に堅固な防衛線を敷いたドイツ軍に進撃を阻まれていました。
またSt-Loの西のVire川以西の平地も、沼地とbocageが続いて、大兵力を展開できず、Carentan
から、小村のSt-Jean-de-Dayeを経てSt-Loへ向けて南下する高速路と、西海岸に近いPeriers
から東へSt-Loに向かう幹線道路の二本の大道路、およびこれらをつなぐ支線道路付近だけが
兵力の前進に適していました。ドイツ側はここにLXXXIV.Armeekorpsを展開し、地形を生かして、
各所に機関銃座をもうけ、さらに拠点に対する集中砲撃の準備を整えていました。
一方St-Lo東方丘陵の防御は3.fallschirmjager-Division(II.Fallschirmjager-Korps)が主力となって
いました。St-Lo付近で合計で10個師団以上の戦力でしたが連合軍の上陸以降の消耗に対して、
ほとんど補充がなかったため、実態の戦力は数分の一に低下していました。7.Armeeはこの状況に
対して、7月2日付けで、Panzer Lehr DivisionがCaen地域からSt.-Loの北部地域に向けて移動命令
を出して、戦力低下を補おうとしました。
米軍の攻撃は西から東に順次開始する事になっており。まずCatrentanの真西にあたる、Cotentin
西海岸近くのHaye-du- Puits とMont-Castre丘陵の線に向けてVIII Corpsが進撃を開始し、次に
左翼側で1st Armyからの指示を待ってTaute川南西部をVII corpsが攻撃し、最後にXIX corpsがVire
川沿いに前進してSt.-Loを占領する予定でした。V corpsは引き続きSt.-Lo東方で、ドイツ軍を牽制
する役割を担いました。各corpsは3から4個師団の兵力を持っていました。
(地図掲載予定)
米軍にとってのもう一つの問題は、Cherbourg港が完全に破壊された為、Omaha、Utah海岸から
Carentan経由で伸びる道路に補給路を頼らざるを得なかった事で、ドイツ軍による輸送に対する攻撃
が続いていました。
7月3日にVIII Corpsが、7月4日にVII corpsが攻撃を開始しましたがその後数日間は、悪天候の為に
連合軍側空軍の活動が弱まり、ドイツ側が地形を生かして効果的に抵抗した為に、米軍が大きな損害を
蒙って数百mしか前進できませんでした。しかしドイツ側は兵力不足で予備兵力が底を尽きようとして
いました。von Klugeは7月5日にSt.-Lo地域で前線の司令官と戦況を協議しましたが有効な方策を打ち
出す事ができませんでした。
Lwは7月4日に、St.-Lo地域の支援を増強しましたが、7月5日以降は英軍の再攻勢に対応する為、
再びCaen地域に重点を置きました。 またULTRAはこの日、実戦部隊指揮官の損耗を避ける
為に、Goeringが小編成でのmissionを禁止する命令を出した事を傍受しています。例えば、
Staffelkapitaeneは6機以下の編成では作戦ができなくなり、Lwの作戦は一段と制約を受けました。
7月6日に、Buelowiusは、戦闘機による爆撃作戦を再開する命令を出しました。B
最初にCotentin西半分で進撃を開始した米VIII Corpsに対して6月末に南フランスから移動した
2. SS Panzer Division"Das Reich"の反撃が成功し米軍の前進を阻む事ができました。
7.Armeeは米VII Corpsが17.SS-Panzergrenadier-Divisionを主力とする防衛線を一気に突破する
危険が高いと見て、米軍の中央正面の防御を強化しようとしましたが、7月7日にXIX corpsが左翼
のAireから南方および南東方向へ進撃を開始した為、St-Lo陥落の危険が現実となり、これを避ける
事が最大の課題となりました。
Rommeは西海岸が弱体化する危険を冒しても2. SS-Panzer Divisionを西海岸からSt-Lo方面へ移動
する事を提案してOB Westに承認されましたが、von Klugeは西海岸の防衛再強化の為、更に
5.fallschirmjager-Divisionの一部をBritagnyからLessay方面に移動させる事を決定しました。
7月8日にBuelowiusは5.Jagddivisionを通じた戦闘機部隊の運用を止め、直接II.JKps.からGruppe
に命令を下すよう変更します。陸軍側(das Heer)と空軍側(die Luftwaffe)の共同作戦は、Armee
レベルから空軍のKorpsまたは、Divisionが取り合って進めることになっており、なんらかの目的が
あっての変更と考えられますが、詳細は不明です。
この後、St-Lo地域では、7月20日前後までLw戦闘機の活動がほとんど無い状態が続きますが、
Buelowiusの意向が働いていたと考えられます。
こうして、St-Lo北西で、St-Jean-de-Dayeの南の交差点からPont-Hebertに至る南北約5kmの道路の
主導権争奪が始まりました。ドイツ側は周辺のbocageを活用して米軍の行動を妨げ、米歩兵部隊
は逆にbocage内の掃討作戦を開始しました。これはブルドーザーを先頭に茂みを切り開きつつ
1日に約数百m進むもので、双方に大きな損害を出しましたが、米軍は7月9日にSt.-Loの北西約6km
のPont-Hebert-Hauts-Vents 付近に到着しました。ここでドイツ側は2. SS-Panzer Divisionの一部が
反撃を行い、午後2時ころから夕刻に掛けて数百m押し戻す事に成功します。
しかし、米軍は優勢な砲撃力によって主導権を取り戻し、翌日に前進を再開します。
(地図掲載予定)
ドイツ側は移動中のPanzer Lehr Divisionの反攻に希望をつなぎました。この師団は、15,000人の
兵力と237台の戦車を保有するドイツ最強の部隊でしたが、6月中のCaenでの戦いで兵員2,500
人と戦車102台を失う損害を出していましたがPanther戦車を保有し、依然として強力な攻撃力を
残していました。
計画では米軍の前線を突破してSt-Jean-de-Daye を奪回し、7月初の防衛線まで押し戻す事になって
いました。Carentanまでの反攻も議論されましたが、機甲師団に続く歩兵部隊による面の確保までは
当てがつかない状態でした。
作戦の開始は予定より2日遅れの7月11日と決まりましたが、この遅れの為に、2. SS-Panzer Division
と連携できなかったばかりでなく、Vire川北西で新手の米VII corps 9th divisionが展開したため、
米軍との戦力差がより大きく開いていました。
ドイツ軍は約50両の戦車を4隊に分け、7月11日の深夜2時ころから進撃を開始しました。北方の2隊が
le desertからSt-Jean-de-Dayeに向かう高速道路およびその北方を北東にむけて進み、早朝に米軍
の前線の背後を衝こうとしました。その結果最も深い箇所で前線から約1kmの進入を果たしましたが、
bocage地形が逆にPanther戦車の進撃を妨げた為、夜明け後に米軍のtank destroier M-10と距離
数十m前後の接近戦となり、長射程75mm砲を生かせないまま夕方までに約半数のPantherを破壊され
て攻撃は失敗に終わりました。
(地図掲載予定)
南側のPont-Hebert付近では、11日明け方からドイツ側が行動を開始しましたが、北方の情報を得て
米軍が応戦準備を整えていた為に、ドイツ側は停止せざるを得ませんでした。Vire川東方では、数両
のIV号戦車と自走砲が約1km北上しましたが、米軍の反撃に遭い、こちらも午前中に撤退せざるを
得ませんでした。
11日の午後に逆に米軍はHauts-Ventsの高台に向けて進撃を開始し、激しい先頭の末、夕刻
にここを占領し、ドイツ側は南方に約200m後退して防衛線を敷きました。
この日東方丘陵で、米XIX Corps とV CorpsはBayeuxに向かう高速道路途中のHill192と
呼ばれる拠点まで進出し、翌12日に占領する事に成功しました。
この地点は6月16日の総攻撃が1253人の戦死者を出して失敗して以来、米軍の進撃を阻み続けて
来ましたが、空軍との協力でドイツ軍の掃討に成功し、St-Lo占領への大きな障害を乗り越える事が
できました。
また西海岸で、ドイツ側は防衛線を後退させ米VIII CorpsがLessayの北まで進撃しました。
ここには名目上は歩兵4個師団が存在するはずでしたが(77、91、243、353)、兵員数は合計で
3800人しか残っておらず、5.fallschirmjager-Divisionも移動が遅れて、攻撃を持ち
こたえる事はできませんでした。
(地図掲載予定)
この後、米軍は激戦を続けながらもSt-Loの包囲を徐々に狭め、西方ではPanzer Lehr Div.、
275.Infanterie-Division等の一部が戦線を支えましたが、北方と東方から米35th Divisionと29th
Divisionが圧力を強めます。
7月16日にドイツ側は反撃の計画を立てますが実行することができず、17日朝に
II.Fallschirmjager-Korpsは防衛線をSt-Loの北部郊外まで縮小する事を提案しますが、
Rommel、von Kluge共にこれを拒否します。
そしてこの日の夕方18時頃、Caen 南東約70kmのLivarotからVimoutiersへ向かう際にRommelの
乗った軍用車がTyphoon戦闘機の銃撃を受け、重傷を負った彼はその後戦場に現れる事は
ありませんでした。
(地図掲載予定)
7月18日に米29divisionのtask forceは市内要所の制圧に成功しました。
7月19日に周辺地域に352.Infanterie-Divisionと3.fallschirmjager-Divisionの一部が残っていま
したが、7.Armeeは終にSt-Loの防衛をあきらめ、残存部隊に市の南側とVire川西側に新たな防衛
線を敷く命令を出しました。
ここで7月始めの時点に戻りCaen地域の英軍の状況を見たいと思います。
(続く)
@Alfred Price The last year of the Luftwaffe Greenhill books London p60
AD.L.Caldwell The JG26 war diary p296
BD.L.Caldwell The JG26 war diary p298
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