Lufttorpedo F5(LTF5)
魚雷の開発は1926年以降海軍の所轄とされており、航空魚雷の
開発は当初海軍により進められました。1935年に設計されたLTF5
が最初の正式タイプでNorwayのSchwarzkopf社製でした。これは
直径450mm、重量730kg、全長4.8m、弾頭200kg、速度33kt、射程2km
の性能を持っていましたが、1939年に行われたテストで時速170km
から190kmで飛行するHe59やHe115からテスト発射されたLTF5は姿勢
不安定、深度不安定、FUSEの動作不安定が原因で100発中49発が正
常動作せず改良の余地が多いものでした。しかし海軍は投下速度
を75kt(135km/時)、投下高度を15-25mと規定して1939年中に実戦
配備を進めました。
He115の性能は、巡航速度295km/時、着水速度115km/時という値が
知られており、LTF5を発射するために失速寸前のノロノロ飛行を
強いられる事になります。言い換えればHe59のような低性能機でし
か使えない魚雷でした。
海軍もさすがに不満があったのでしょう、その後イタリー製の航空
魚雷を導入しLTF5Wと呼び、こちらは直径450mm、重量905kg、全長
5.4m、弾頭200kg、速度40kt、射程3kmと言う性能が知られいていま
す。
海軍は1941年秋までHe59を用いて英国沿岸での船舶攻撃を続け約
164,000tの船舶を沈めました。月間平均約7000tで、U-boatによる
月間数十万トンの戦果とは比較になりませんでした。
一方空軍は高速機からの魚雷の投下を不可能と判断して関心を示し
て来ませんでしたが1940年6月の仏戦艦StrasbourgとRichelieuに対
するRAFの攻撃成功を見てその威力を再認識し、He111やJu88から投下
できる魚雷の開発と雷撃部隊の配備に着手しました。
しかし海軍側が雷撃隊を渡すまいと開発資料の提供拒絶や、製造メー
カとの連絡の妨害等の信じられない抵抗を示し、空軍の魚雷開発は
進展しませんでした。「空を飛ぶものは全て自分の配下だ。」と語
るGoeringは、遂に1940年11月26日に海軍による魚雷攻撃と魚雷生
産禁止を宣言し、翌27日には海軍が保有していた132発のLTF5を空
軍がGibraltarとAlexandriaの攻撃用として差し押さえる事態に
発展しました。しかし海軍も負けておらずRaeder元帥がHitlerに海
軍による英国沿岸の船舶攻撃の継続を直訴し、更に攻撃の効果を上
げる為のHe111H改装型の配備を要求しました。結局は魚雷攻撃の
権利?が海軍に残り、一方爆撃機の改装した新型雷撃機は空軍が保
有することに落ち着きましたが徒な時間の空費となりました。
空軍はバルト海沿岸のGrossenbrodeの爆撃学校で雷撃技術の開発を
進め、1941年秋遅くにHe111を保有する雷撃部隊が地中海沿岸の
Athenに配属されました。しかし適切な魚雷の支給が無い為に作戦
できず、改良したLTF5bの使用が可能になったのは1941末の事でし
た。LTF5bにはK3と呼ばれる木製の尾部が装備されており直径450
mm、重量725-812kg、全長4.8-5.16m(弾頭の大きさによる差)、
弾頭重量180-250kg、速度40kt、射程2kmの性能でした。懸案だった
投下性能は投下速度250km/時、投下高度30-50mまで改善されていま
した。
このように準備が進み、1941年12月に魚雷の開発、製造、乗務員の
訓練をLuftwaffeの管轄として一本化する方針が決定されました。
Generalstabに担当部門としてBevollmaechtigter fuer
Torpedowaffenが設けられ、海軍の従来の担当部署がここに取りこ
まれて、航空魚雷を本格運用する態勢が整いました。
KG26が魚雷攻撃専門部隊に選ばれて、41年11月迄Fliegerfuehrer
Atlantikを指揮していたHarlinghausenが1942年1月6日に司令官に
就任しました。彼はそれまでFw200部隊による船舶攻撃で優れた戦
果を上げていましたが、He111で作戦飛行中に対空砲火を浴びてフ
ランス海岸に不時着し負傷入院中でした。海洋作戦に深い経験を持
つ彼は適任で、直ちに230機からなる部隊の編成を目指してKielの
東方約50kmに有るGrossenbrodeで乗務員の転換訓練を開始しまし
た。しかし天候不順の冬季のバルト海沿岸は訓練に不適で、まもな
く拠点を中部イタリー西岸のGrossetoに移動しました(ここはElba
島の対岸に辺ります)。
4月末にはI/KG26の最初の12クルーが3週間の訓練を終了後、Norway
北部、北緯70度付近のBanakとBardufossに実戦配備されました。こ
の部隊は5月末に爆撃部隊と協力してソ連向けの軍需物資を輸送す
るPQ16に対して最初の攻撃を行い、連合軍側の記録によれば34隻中
7隻を沈めました。この時の戦訓から雷撃部隊と爆撃部隊が同時攻
撃を行うことによって防御態勢を混乱させるGoldern Zange 戦法が
考案されました。6月中にはKG26のHe111は42機迄増強されて次の攻
撃のチャンスを待ちましたが、6月27日に出港したPQ17に対する攻
撃は大成功で、7月2日から10日まで続いた攻撃で同船団は34隻中24
隻を失い(連合軍側記録)、この後しばらくPQ船団による輸送は中
断に追い込まれました。この攻撃で使用された魚雷は61発、投下さ
れた爆弾は212トンでした。
一方この時期にIII/KG26の乗務員も雷撃訓練を終了し、この部隊
のJu88がビスケー湾近くのRennesを拠点として1942年8月3日か
らSicily島向けの連合軍船団の攻撃を開始しました。更に9月には
この部隊もBanakに移動したので(時期は6月と言う説もあります)、
LWの殆どの雷撃部隊が北大西洋の船団攻撃に参加する事になりまし
た。またバルカン半島方面で作戦に入っていたII/KG26も1942年4月
からstaffel単位でGrossetoに派遣され雷撃訓練が行われました。
1942年9月2日に出航したPQ18には護衛空母HMS Avengerや16隻の駆
逐艦を含む護衛艦隊が同行しました。9月13日からI,III/KG26及び
爆撃部隊(KG30)が攻撃を開始し40隻中10隻を沈めましたが(他に
3隻がUボート攻撃で沈没)、対空砲火と護衛戦闘機(Hurricane)
によって、攻撃側は41機を失いました。船団側が本気で防御した場
合の雷撃部隊の損害は大きく、Lwの大きな失望を招きました。
11月8日にRommel軍の背後を衝く形で行われたMoroccoとAlgeriaへ
の連合軍の上陸はLwの配備を一変させ、直後にI,III/KG26等が地中
海戦線に引き抜かれて、北大西洋のソ連向け船団へのLwによる
大規模な攻撃が終了しました。その後、Uボートの脅威はあったもの
の軍事援助物資の輸送が継続しソ連の戦力強化に大きく貢献しまし
た。(この時期からソ連が南ロシアでの反攻を開始し、1942年末に
Starlingradで第六軍が包囲されたことに注意してください)。
地中海でI,II,III/KG26はGrossetoを根拠に連合軍の補給線攻撃を
行い、Deichmanによれば作戦開始から、1月始めまでの約1ヵ月半に
魚雷を用いて70,000tの船舶を沈め、40万tに損害を与えました。
この間の魚雷発射数460発の内、目標に向けて進んだもの(訓練用
や、前進せずに沈んでしまったものを除いた数値)284発、命中61
発、命中率21.5%、雷撃機の損害25機とされています。
1943年の夏まで地中海地域の雷撃機の活動が続きましたが、損耗が
激しく、6月に雷撃機保有数は50機に低下しました。また訓練と
習熟に時間を要する搭乗員の補充は事実上不可能でした。しかし
地上戦が不利に進展するに従い海上補給線攻撃の要求は逆に高まり、
Lwは戦力不足を補うためより遠距離からの攻撃を可能にするHs293
等やMistelの実用化に傾斜して行きました。また高速雷撃機とし
てMe410を使用する研究も行われましたがこれは技術的問題により
失敗に終わりました。
1944年にはL2と呼ばれる尾部が開発され、投下速度330km、投下
高度120m迄改善されました。
魚雷攻撃は重い魚雷を抱えて一定距離を水平飛行しなければならな
いので制空権がない状態で敵戦闘機からの反撃を受けやすく、日本
海軍の攻撃機(雷撃機)も大戦後期には損害の割りに戦果が上がっ
ていません。しかし経緯を見ると、1942年の北大西洋地域でのPQ船
団攻撃は極めて重要で、損害が増加しても、海上でソ連援助物資を
食い止る為に、粘ってここで戦い抜くべきだったと考えられます。
Goeringはその重要性を理解していましたが、そのような決定をし
ませんでした。大戦後の研究でも北アフリカを放棄して、東部
戦線に力を集中することが戦略的に有利だったと言う議論がありま
す。結局ここでもLWは一定した自己の戦略を持つことができません
でした。
尚、He177に急降下性能が要求された一つの理由に海洋作戦での
爆弾命中率をあげる事が有りました。もしLuftwaffeが大戦前か
ら魚雷を持っていて、He177が急降下性能の要らない長距離雷撃機
として開発されていればもっと順調な実用化が有り得て戦局が変わ
っていたのかもしれません。
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