1000 Flugzeug-Programm
首相として政権を握る1933年1月30日に先駆けて
HitlerはGoeringにRLMの設立を命じ、Goeringは
1月28日にErhart Milchに航空次官就任を依頼
しました、Milchは逡巡しましたが1月31日に
受け、ここからLWの発展が始まりました。
既にグライダー学校やソ連の基地で乗務員の訓練
が進んでいましたが機材は全く不足だったため、
Milchが最初に手をつけなければならなかったの
は航空機を実際に生産できる製造業者の育成でした。
当時それが可能であったのはHeinkelとJunkersの
二社であり、不景気の影響で航空機産業の従業員
は全体で僅かに約3200人を数えるだけでした。
Milchと彼のスタッフは、244機の第一線機を含む
1000機の軍用機を生産する1000 Flugzeug-Programm
を作成し検討を命じましたが、省内には現実の
生産能力に見合った計画を望む声が強く、
Fliegerfuerungsabteilung(LA-1)では年間225機
の割りで生産する計画が提出されました。@
当初Milchは爆撃機部隊の整備に着手しようと
しましたが、この時点で機材が揃わない事が判明
したために、彼は旧式であっても実績のある機種
生産に力を入れることになり、1933年は練習用の
機体の調達と、将来の新型機の量産に対応できる
航空機産業の育成が図られました。各企業は、以下
のカテゴリーに分けられ、相互の協力と計画性が
強調されて、競争関係は排除されました。
1.新型機の開発を担当する大手(Junkers、Dornie
Heinkel、Messerschmitt)
2.生産と限定された分野での開発を担当する準大手
3.航空機の生産だけを担当する新規参入企業。A
また当時経営危機にあったJunkers Flugzeugwerke
A.G.へのRLMの干渉が強化され、MilchはJunkers
教授に迫って6月2日に、個人的に持っていた航空機
に関するpatentを強制的にJunkers社に移転させ、
さらに10月15日には政府が同社の株式の51%を入手し
ました。
これらの計画に於ける最も大きな問題は、予算の不
足でした、当初、8760万ReichsmarkだったTechnische
Amtの予算は、計画の進行に伴い、夏までに2倍を
超えようとしていましたが、巨額の軍事予算の支出は
Versailles条約違反であり、予算の補正や軍備拡張
目的の起債は不可能でした。
これを解決する手段としてReichsbankの頭取だった
SchachtはMefo-billを考え出しました。これは
古くからあったMetallurgische Forschungsgesell-
schaft m.b.H(Mefo社)に当時4大金属製造企業だった
Krupp,Siemens,Rheinmetall,Gutehoffnungshuette
が各25万RMを出資して、ここをトンネル会社として
発行されたReichsbankが保証する債券で、3ヶ月を単位
として自動的に更新され、希望すればいつでも現金化
できることになっていまた。またMefo社の取締役に
SchachtとMilchが加わりました。この信用をMefo-bill
は企業間決済に用いられて、見かけ上通貨流通量が増加
したのと同じ効果が発生した為に、各社の資金繰りを
大幅に助けました。
しかし最も大きな効果は政府が何ら支出する必要が
無く、諸外国に対してドイツの実際の国防予算を
隠す事ができた事でした。
Mefo-billの発行は1933年秋から始まり、1939年迄に
に発行総額は120億RMに達して、ドイツの再軍備経費
経費や、空軍建設の為の大部分の設備投資費用を賄い
ました。
(RMの貨幣価値について簡単に調べてみました。1RM
は100pfennig(ペニヒ)ですが、この当時郵便葉書の
代金が5pfennig、またホテルの宿泊代金が5RMから30RM
と言った所で、凡そ1RMが今の1000円に当ると考えて
良いと思います。そうすると上の120億RMは12兆円と
なり大体年間2兆円位に当ります。)
この他にもRLMは空軍建設の為の資金入手の為のいくつ
かの手段を講じました。1933年当初各航空機製造会社に
対して利率2%の社債の発行を推奨しましたが、これは
当時懐疑的だった投資家の資金を集めることができず
失敗に終わりました。
次にRLMが採用した方策はInvestitionszwischenkredite
(Interim investment)と呼ばれる債券の販売で、各航空
機製造会社が手がけた投資案件が終了してから償還が始
まるものでした。
これらの資金誘導策の他に、代金の決定に優遇措置が
採られました。航空機の代金は生産コストに10%の利益
を上乗せした金額とされ、更に必要な建造物や付属
設備の費用は無利子で融資されました。また生産設備
はRLMからの貸与とされました。
また最も効果があったのが代金の前払い制度で、RLMと
の契約が成立すると大企業の場合は製造費用の15%、小
企業の場合は30%が直ちに支払われました。
また1939年迄は航空機の製造中に増加した生産コスト
を上乗せして最終的な代金を決める契約方法が用いられ
ました。B
1933年10月14日にはドイツが国際連盟を脱退した為、
各国間の緊張が増加し、軍用機の増産を一段と急ぐ
必要が生じました。未だ空軍の存在は公表されていま
せんでしたが、万が一他国のドイツ国内に対する軍事
干渉が発生した場合は、その時点で存在する航空部隊が
Berlin防衛の為に出動する態勢が採られ、更に10月20
日の航空機増産会議でGoeringの口から、「1年以内に
強力な空軍作り上げる。」と言うHitlerの意思が伝え
られました。C
このような環境下において、1933年末には、
主要航空機製造企業と組み立て専門の企業が協力する
態勢が形作られました。同年中にLuftwaffeの為に生
産された機数は197機に留まりましたが、翌年以降の
Luftwaffeの大拡張の為の基盤が形作られた時期だっ
たと言えます。このことを良く示す指標として、
航空機製造工場とエンジン製造工場の従業員数を見る
と1933年初めに各2813人と1175人だったものが、1年
後には各11,102人と5769人(約4倍)に達しました。
また1933年中のドイツの航空機の生産高は約3200万RM
でした。D
この間Goeringは政治面の対応に忙殺されており航空
機産業の拡大をリードしたのはMilchでした。また
Tecknischesamtの責任者として実務面を引っ張ったの
がWilhelm Wimmerでした。